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太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」
第10回 2021年10月12日
新著紹介――多木浩二の未来派論集成

太田岳人


第8回から「未来派芸術家列伝」として、自分の関心のある個々の未来派芸術家について2回ほど書いてきたが、今回はそこから「よりみち」して、今年の6月に出版された一冊を紹介したい。哲学者・美学者として長らく活躍した多木浩二の、未来派に関する文章とインタビューを集成した『未来派――百年後を羨望した芸術家たち』(コトニ社、3600円+税)【図1】である。多木が没したのは2011年のことであるが、残された彼の講演録や単行本未収録の論考などの書籍化はなお続いており、本書はその最新のものの一つである。

図1:多木浩二『未来派』図1:多木浩二『未来派――百年後を羨望した芸術家たち』(コトニ社、2021年)、『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)および『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫、2000年)とサイズの比較。
※筆者所蔵

「ときの忘れもの」につながりのあるアーティスト、また本ブログの読者の中には、多木と実際に面識のあった方もたくさんおられよう。多木は私の出身大学で教えていた時期もあるが、それは自分の入学以前(教養部があった時代)の話で、私が彼の実際に語る姿を目にしたのは一度きりである【注1】。しかし、私の大学の美術史関係の教師たちは、誰もが「多木さん」「多木先生」と敬意をもって呼んでいたので、直接に知遇を得ていたわけではない私も、日常会話では「多木さん」といつの間にか言うようになっている。歴史学のコースの新入生向けのオリエンテーション用に、『戦争論』(岩波新書、1999年)などの彼の著作が使われたこともあった。私の学んだこのコースの中には、文書史料による政治や社会運動の実証こそ歴史学の本道であり、美術史は趣味の領域ではないかと考える向きもなくはなかったが、そういった人たちからも多木への好意的な思い出は聞いている【注2】。

さて、多木の『未来派』は全3章で構成されている。第1章には、雑誌『大航海』に2005−2006年にかけて連載されていた9本の未来派論が使われている。第2章では、前章の論考と関わりのある120点余りの図版が「未来派ギャラリー」としてまとめられている。第3章は、没後出版の『映像の歴史哲学』(今福龍太編、みすず書房、2013年)に掲載された、未来派と著者の歴史哲学の関わりを述べたインタビューの再録である。最後に付録で、多木の子息で著述家・翻訳家としてイタリアで活動している、多木陽介による11本の未来派の宣言の翻訳が納められている。陽介氏は「あとがきにかえて」で、晩年の多木がイタリアに関心を深めた経緯や、彼の晩年の構想と未来派のつながりについても解説している。

『未来派』の美点は、何よりも第1章における、様々なテーマから未来派を捉える簡潔にして要を得た記述にある。「哲学者」「美学者」の本というと、私たちは戦艦ばりに重量感のあるハードカバーの大著を想起しがちだが、多木が得意としたのは新書であった。彼の書き物はいずれも、話の筋道さえ追うことができれば、専門知識のない人間にも議論が理解できる易しさがありつつ、当該分野に通じた人間が読めば、より深い著者の含意が読み取れるようになっているが、本書も例外ではない。多木が雑誌で未来派論を連載していた頃、すでに日本でも未来派の各分野についての研究として、井関正昭の美術、田之倉稔の演劇、鵜沢隆の建築といった成果があったが、それらと比しても彼の著述は、未来派総体の入門編としてとりわけ理解しやすい。

マリネッティの宣言や詩語のスタイル【図2】や、ボッチョーニの彫刻作品【図3】に現れる、未来派独自の感覚の発現について、端的に説明する手際は見事である。また、アントニオ・サンテリアのドローイング【図4】を「未来派全体が映り込んでいる鏡」とし、そこから「未来派を見る客観的方法」を得るという発想は、建築にも優れた考察を残した著者ならではのものと感じる。また、未来派にそこまで強い興味があるわけではない読者にとっても、それが生まれた時代についての細かい話題の提供は面白く感じられるであろう。「未来派創立宣言」が運動発足の前年の時点ですでに用意されていたことや、イタリアとは関係なく「未来派」を名乗った知識人がスペインやラテンアメリカにも存在したことなど、単なるトリヴィアに留まらない情報も過不足なく提供されている。

図2:マリネッティ《粋な速度》 図2:マリネッティ《粋な速度――自由にされた言語(第一位の記録)Vitesse elegante – Mots en liberté (1 er. récord)》、1918−19年(紙にコラージュとインク、53×26.5p、個人蔵)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。

図3:ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》図3:ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態Forme uniche della continuità nello spazio》(1913年)を撮影した写真、1914年
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。

図4:サンテリア《列車と飛行機のための習作》図4:サンテリア《列車と飛行機のための習作Stazione per treni ed aeroplani》、1914年(紙に黒鉛筆とインク、50×39p、コモ市絵画館)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。

一方で注意しておきたいのは、この著作の内容があくまで初期未来派のみについてのものであり、とりわけマリネッティ、ボッチョーニ、サンテリアの三位一体でほとんど成り立っていることである。三者のうち、ボッチョーニとサンテリアは1916年に亡くなるため、著述の時間的下限もほとんどその辺りとなる。第2章の図版紹介で、1920年代以降の史料として出されるのは、マリネッティ(とムッソリーニ)の肖像画や写真だけであるし、多木陽介氏の未来派の宣言の翻訳も、1916年の「未来派的映画」までにとどめられている。第3章のインタビューで多木は「世界的に見ても優れた未来派の人間はあまりおりませんでした」と明言し、陽介氏も確かに父はそうした見方をしていたと認めているが、優れていない(?)未来派の作品も偏愛し、芸術運動が30年以上の長期に渡って続いたことを強調している私としては、身もふたもない話である。

実はこうした年代の設定によって、第1章の中でもさわりで終わったという印象が最も強いのは、多木がこだわりを持っていたはずのファシズムに関する節である。マリネッティが彼独自の観点から「政治」についての論考を集中的に著したのは、ボッチョーニとサンテリアが没して間もない第一次世界大戦直後の時期だったからである。この頃の「未来派政党宣言」(1918年)、またパンフレットの形で出された『未来派的民主主義』(1919年)や『共産主義を超えて』(1920年)などは、多木の興味を引かなかったのであろうか。「多木浩二という人は、事実の連鎖などにはからっきし興味がないのだ」と多木陽介氏は見なしており、それはそれで一つの見方ではある。しかし「ファシズム」が一貫したイデオロギーやプログラムの論理的展開によるものではなく、「出来事」の積み重ねで展開されたものであると考えられるからこそ、未来派とそれとの関わりについても「事実の連鎖」を見ていく必要があると私は思っている。多木は未来派を「全体主義」という一種の20世紀の共通体験の兆候や媒介としても見ているが、そもそもこの「全体主義」という用語が冷戦中から擦り切れたものであり、その濫用はもはや具体的な歴史的経験の様々な経緯や内実の差異を覆い隠し、現代世界の具体的な問題を認識する上でも障壁になるのではないか。たとえば、ドイツとは異なりイタリアでは、未来派(さらには他の前衛的芸術潮流)がまがりなりにも存続し続けた点ひとつを取っても、同じ「ファシズム」でも大きな差異があるのであり、むしろこうした部分に私は注目したいということである【注3】。

もちろん、未来派とファシズム勢力(政権)との関わりが、芸術にとっても政治にとっても大きな蹉跌を生んだという認識では私も変わりない。さらに、21世紀に入ってからの西欧の未来派研究の中には、些末なまでに芸術家の「実証的」発掘へ拘泥したり、過剰なまでに「未来派の非ファシズム性」を評価したりする傾向もあるから、多木はそうしたものを警戒していたのかもしれない。この本は一般の読者には、ひとつの知られざる芸術運動の、基本的な構想や指針を知る喜びを与える。その一方、広義の歴史研究者たちには、外国の研究の後追いにとどまらず、いかなる自身の歴史的パースペクティヴをもって未来派を位置づけるかという、重要な宿題を与えるのである。


注1:これは2001年に、若桑みどりの退任記念講義が大学のホールを借りて行われた際、ゲストとして多木が招待されたことによるものである。講義のテーマは戦争・美術・女性表象についてで、彼女のきわめて動的な語り口に対して、リプライをする多木のそれは対照的にまったく静的なものであった。中でも印象に残ったのは、彼が日本の戦争責任の問題に触れる際、そっけなくしかし放り出すように「裕仁が」と連呼していたことである。

注2:私の多木のイメージは、日本近現代史専攻のX教授によっても形成されている。X教授は美術史というより表象研究全般に信を置いていなかったが、教養部の教員時代に顔を合わせていた多木には畏敬の念を持っていたようである。X教授は講義で彼の名前が出るとしばしば、大学の懇親会や立食パーティにおいて多木がいかに鋭かったかだけでなく、そういった場に出てくるサンドウィッチをどうスマートに食べるかまで、なにか高名な仙人や隠者を目撃した人のように語ってくれた。

注3:この辺りは、多木が持田季未子と共訳した本(エドワード・ルーシー=スミス『1930年代の美術:不安の時代』、岩波書店、1987年)によって初めて学んだことだけに、彼自身の考察が残されていないのは惜しまれる。
おおた たけと

太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は偶数月の12日に掲載します。次回は2021年12月12日の予定です。

■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・慶応義塾大学などで非常勤講師。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com

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