ときの忘れもの ギャラリー 版画
ウェブを検索 サイト内を検索
   
植田実のエッセイ 本との関係8

村野藤吾の早稲田大学文学部校舎のこと

 この3月10日に、早稲田大学文学部校舎の見学会があった。主催は同大学文学部丹尾安典研究室。この催しを手伝っている目黒美術館の降旗千賀子さんからファックスが送られてきたが、その少し前に彼女と会って話しているときにこの校舎が近くとりこわされるらしいと聞いて驚いた。村野藤吾設計、1962年完成。彼の建築作品のなかでももっとも好きなひとつであるのに。
 私がいたときの文学部校舎は、本部キャンパスの四号館だった。すぐ横に今井兼次設計の図書館(現在は旧館と呼ばれている。1925年完成)があり、この閲覧室はすばらしかったが、自分が通う校舎にはさいごまで馴染めなかった。階段を昇るたびに溜息をついていたような気がするが、あれは授業をサボリがちだった自分にたいしてだったのかもしれない。卒業して2年後に、村野の建築のなかでももっとも端正な、高層と低層とを組み合わせた文学部の戸山キャンパスの出現を見たときは、ここで勉強していたら自分も変わっていたのにとさえ思った。
 ここを訪れたのは一度だけである。卒業論文は何年か経つと処分されてしまうと誰かに教わって、コピーなんてとっていないからあわてて受けとりに行ったその時だが、なんだかそそくさと引き返してしまった。後ろめたい気持だったのか。そのくせこのころは村野藤吾が大好きで、関西出張の折にも時間をやりくりして、御堂筋の、垂直線で統一したそごう百貨店や36もの唐破風で正面ファサードを覆いつくした新歌舞伎座はもとより、プランタンにも関西大学にも行ってみた。京都の都ホテルのいっぷう変わった屋根も見飽きなかった。もとはといえば有楽町の読売会館に、まだ建築の世界に関係していなかったときだが、建築の面白さを堪能したからである(現在はビックカメラなどが入って、往時の面影はない)。とにかく村野建築につまらないものはひとつもないと確信していた。それは建築界の思想的風潮に、私が無頓着だったせいでもある。
 早稲田大学文学部校舎完成の翌年、旧帝国ホテルと道を隔てて日本生命日比谷ビルが竣工し、建築界全体がその力技におそれいってしまう。あまりにも力が入りすぎていつもの奇想・洒脱・情感が封じられている気もしたが、さらに3年後にはまたもや堂々たる傑作、千代田生命保険相互の本社ビルが出現するのだから驚きだ。これは現在、目黒区庁舎となって生き続けている。同じ目黒区の施設という関係で、降旗さんも庁舎見学会をはじめ村野藤吾の建築にさまざまなかたちで関わってこられている。
 当の早稲田大学のキャンパス像を一新した文学部校舎には、いつでも訪ねられるという安心から無沙汰はしていたが、そのイメージはいつも確固として私のなかにあった。とりこわしの話を機に初めてゆっくり見ることになるとはまったく皮肉だ。当日は『芸術新潮』のコラムを連載されていたとき、アイキャッチャーになっていた似顔絵そのままの丹尾教授の懇切率直な案内のおかげで、ゆっくりとという以上にぶらぶらと、好きなところを歩きまわったり一休みしたり、またいろいろな方の話を聞いたりの半日で、時間に追われるいつもの建築見学とは違う、十分な満足を得た。高層棟はシカゴにあるミース・ファン・デル・ローエ設計のプロモントリー・アパートメントに影響を受けていると、シカゴ在住の建築家・高山正実さんに聞いたことがある。レイクショア・ドライブのような鉄骨建築以前の鉄筋コンクリート造で腰壁は煉瓦の板状高層である点、とくに柱の断面が上階ほど小さくなっていくあたりは同じだが、村野はその形を真似たというよりは合理的構造表現を徹底してやってみることを楽しんだにちがいない。それは低層棟にまで及んでいる。しかも高層棟では圧縮されたピロティが低層棟では逆に高く伸びやかに連続して、地形を強く意識させるあたりは、ポツンと孤立しているプロモントリーよりはるかに複雑な構成だ。これを建てかえて、これ以上のキャンパスがつくれるとは思えない。丹尾さんとはいつだったか『早稲田建築』という機関誌で、早稲田大学キャンパスの歴史と現在を語る座談会で同席したことがある。結局、キャンパス問題絡みでまたお目にかかることになった。
 肝心の「本との関係」に戻らなければならないが、これまで大学に入って1年足らずのことを中心に報告したけれど、もう卒業してしまうことにする。母が亡くなった年、つまり1年生の後半を休んでしまい、ついでにまるまる1年休学ということで下のクラスに間借りするような気分で授業に出て、前のクラスとはほとんど没交渉になってしまった。大学5年間のうち4年半ぐらいはほとんどひとりで読書にふけっていたことになる。ただ前にも書いたようにドイツ文学のほうに限りなく傾斜していき、そちらの科に移ろうかとさえ思っていたので、卒業論文のテーマ探しに気が入らず、ほんとうに参ってしまう。多少とも興味のもてる作家は翻訳がほとんど出ていない時代である。翻訳から始める時間も語学力もない。たまたま何の予備知識もなくプルーストの『失われた時を求めて』を読めはじめたとき、問題は一気に解決した。
 淀野隆三、井上究一郎、伊吹武彦、生島遼一、中村眞一郎の共訳による新潮社版は、昭和28(1953)年3、4月に第1巻(「スワンの恋」T,Uの2分冊)が刊行、昭和30(1955)年10月に最終第7巻「見い出された時」Uで完結、併せて13冊に及ぶ全巻翻訳(共訳とはいえ)が完成したのは世界で初めてだったと記憶する。手元には武蔵野書院というところから昭和6(1931)年7月に発行された、淀野隆三、佐藤正彰共訳の『失ひし時を索めて』第1巻があり、巻末には続巻刊行の広告も付いているがその先のことは私は知らない。いずれにしてもそれほど前から望まれていた翻訳が自分の学生時代とほぼ重なる形で完結したのは幸運だった。そのライトグリーンを基調としたフランス装のブックデザインも輝やく新潮社時代を体現している。
 卒論の内容には触れないで(書いて以来読み返してもいないし)、体裁についてだけ書いておく。400字原稿用紙に手書きで90枚足らず。これを袋綴じにしてハードカバーを付け、その黒表紙にだけ和文タイプで打ったタイトルを貼りつけている。本文の用紙も粗末だし、陰気な本だ。この製本は学校近くでやってもらったのだと思う。主査・恒川義夫教授の名があるが、事前には一度も指導を受けなかった。授業がおもしろくなかったので敬遠したのである。面接審査のときは意地悪な質問ばかりすると思ったが「文体には個性が出ているね」とだけ言われてそれでお終い。以来お目にかかることもなかった。だがここまで書いて気がついたことがある。教授のほんのひとつかふたつの指摘のなかで、私の「スノビズム」という言葉の使い方は逆だ、と言われた。そのことがじつは今でも頭に残っていて日頃使い慣れない言葉に対する用心深さになっているところがある(それにしては、と言われそうだが)。ごく短時間の面接は長い歳月ちゃんと効いていたのである。
 卒業して建築誌の編集の仕事が始まって、なかでも親しくさせてもらった建築家・生田勉の設計した山荘「あしのまろや」の施主が恒川先生と知ったときは懐かしかった。撮影・取材担当ではなかったので実際は見ていないが、その山荘の室内を撮った写真に、デスクの上のプレイアード版プルースト全集3巻があった。ほかの本は見当たらない。先生はその後、早く亡くなられたように覚えている。もう少し話をきいておくべきだったと今更に思うことがある。

 去年の暮れから延々と仕事が続き、その都度この連載をあとまわしにして、気がついてみればもう4ヶ月も空けていました。これからまた続けますので何とぞよろしく。

2007.4.13 植田実


昭和34年度卒業論文 第一文学部文学科仏文学専修55-506植田実
サイズほか:25.0×18.0cm

























植田実のエッセイ



作品一覧表示ページへもどる

お気軽にお問い合わせください

ときの忘れもの/(有)ワタヌキ  〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASAS
Tel 03-6902-9530  Fax 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/

営業時間は、11:00〜18:00、日曜、月曜、祝日は休廊
資料・カタログ・展覧会のお知らせ等、ご希望の方は、e-mail もしくはお気軽にお電話でお問い合わせ下さい。
Copyright(c)2005 TOKI-NO-WASUREMONO/WATANUKI  INC. All rights reserved.