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植田実のエッセイ 本との関係14

わが編集長 平良敬一

 『建築』初代編集長・平良敬一について、花田佳明さんは前に触れた『植田実の編集現場』のなかで見事なプロフィールを描いている。これは「日本の建築ジャーナリズムの編集者たち」という章で、小山正和、田辺員人、宮内嘉久、川添登、馬場璋造と、個人の名の見出しのもとに、それぞれの人となりや活動の要点をまとめた、そのひとりとして平良敬一にも言及しているわけだ。このようないわば「人別帳」を書くのには相当な勇気が要ると思うが、建築ジャーナリズム史を研究している花田さんの記述にはさすが迷いがない。
 花田さんはそこで、平良敬一ほど「多くの建築雑誌に関わってきた編集者も珍しい。しかもその大部分は、自らが創刊した」と、彼について必ず言われる特性から書き始め、関わった雑誌8誌、うち創刊した6誌名を正確に挙げている。このなかの『都市住宅』は私が編集長を務めはしたが、これも平良さんがプロデュースした、すなわち創刊したと解釈していい。そしてこれほどの建築誌創刊の多さを、彼が「時代の変化に敏感に反応しつつ、結果的には、環境を構成している大小の要素すべてを対象化し論じてきた。また、イデオロギー色の強かった自分の思想をより柔軟なものへと解放していくプロセスを、自らが編集する雑誌の変化に一致させてきた」ことに結びつけている。
 この指摘もまったく的確である。と同時にさらにいろいろなことがこの一節から読みとれる。まず、自分の思想を解放していくのに新しい雑誌を次々と創刊するというのは、実は驚くべきことである。平良さんが創刊した最初の雑誌は『建築知識』であるが、考えようによっては例えばこの雑誌ひとつを次々に更新することで自分の思想展開に内容を合わせていくことだってできるのではないか。しかしそれをしていない。さらには、新雑誌を次々と創刊するのは同じ出版社のなかでもやれるのに(現に『SD』と『都市住宅』、また『住宅建築』と『造景』とはそれぞれ同一出版社での創刊)、平良さんの編集者人生の全体を見渡すとその都度別の出版社に乗り込みあるいは設立して、新たに雑誌をつくり出してきたような印象が強い。何よりも驚くべきはこの跳躍力である。見方を変えれば、それまでの雑誌に飽きたら見捨てて高飛びする力ともいえるわけで、その跳躍にいっそうの凄みが増す。平良さんをよく知る人ほど、そのへんのことを話すのに複雑な心境をのぞかせるのは、だからよく分かる。
 しかしそれぞれの創刊号が私に見せてきたイメージは明快で、決してブレたことがない。それは何かというと、これから創り出される夢のかたちがそこに隠しようもなく表れている、その表れ方が平良さん独特なのである。脆いほどの甘美さというか、ナイーブさというか。『建築』の表紙でいえば、のちに宮嶋さんがプロの腕で調整した、バランスよく引き締まったデザインに比べて、平良さんの手がけた創刊号のフォーマットはいかにもアマチュア的な甘さがある。だからこそ夢が直截的に感じられる。これが基盤としてあったから宮嶋さんの見事なデザインが展開した。『SD』の創刊号もいかにも新しい雑誌の夜明けといった初々しい雰囲気があった。だから創刊2年目に杉浦康平による建築誌史上の最高傑作が生み出された。その夢の気配が雑誌のオーラであり、生命体である。創刊に託した夢の純粋さによってしか雑誌は生きることができない。雑誌という日本語はどこか融通無礙の印刷メディアという印象を与え、編集長の考えの変遷、また編集長の交代によって途中でどのようにも改造できそうな気がするが、方向転換するほど当初の力を失っていく。なぜかそういうものだと思う。今、書いていて気がついたのだが、私の担当した『都市住宅』の表紙が、その約100巻を通じて杉浦さんのフォーマット・デザインを固守し、プロデュースおよび執筆を磯崎新さんひとりに限ったのは、雑誌の体裁は変えずに持続するほど、メディアとしての強さが増すという気持があったからだろう。
 編集者なら誰でも創刊する雑誌に夢を抱くのは当然である。しかし平良さんの夢のかたちと質は独特である。彼の創刊号遍歴はこのことと結びつけなければ評価の対象にはなりえない。そこにおいて間違いなく「編集長」を規定できる。

 『建築』1962年5月号から、副編集長・宮嶋圀夫となる。同年8月号から編集室が宮益坂のコンクリートの洞穴みたいなイセビルから地下鉄表参道駅近くのアイサワビルに移っている。今度はマンションといってもいい建物の一室で、これでやっと安心して徹夜ができるようになった。浴室もあり、床に横になることもできたからである。とすると、イセビルでの厳しい編集作業はどうしていたのか。思い出せない。ついでに言うと、そののちに入社した鹿島出版会は靴のまま執務するオフィスだが、そこでも徹夜続きだった。
 前回に書いたように62年頃から私がとくに積極的にやるようになったのは海外の建築作品、ひいては建築家の特集である。『a+u』や『GA』が登場するのは、まだ先だ。写真・図面・作品解説などの資料を送ってもらうために手紙を書く。その英訳を内幸町のNHKに勤めていたAさんにお願いしていた。Aさんは私の姉が一時期仂いていた川島織物の上司の娘さんで、アメリカに留学していたのである。手紙を書いては内幸町まで届けに行き(ファックスなんてないから)、英訳が上がった日に受け取りに行く。当時は内幸町といえばそれだけで誰もがNHKを思い浮かべたのではないか。すなわち日本放送協会本部・放送会館がここにあった。1939年山下寿郎設計による、ファサードが石貼りの垂直線を強調した堂々たるビルである。ラジオ・テレビ放送という宙空を飛び交うようなメディアの本拠地が具体的な場所に具体的な建物としてある不思議感がいつまでも色褪せず、ここに通うこと自体が楽しかった。Aさんは小柄で丸顔に切れ長の眼、か細くささやくような声だが京都人のアクセントで結構強いことを言う魅力的なお嬢さんだった。アメリカでは若者たちはどんな本を読んでいましたかと訊くとSalingerのThe Catcher in the Ryeという小説を読まない学生はいないくらい、という。馴染みのない作家名だったが本屋で探すとちゃんとペーパーバックであった。現在はもちろん翻訳が村上春樹のものさえあり、60-70年代にはサリンジャー選集(荒地出版社)まで刊行されているが、私は邦訳を読んだことがない。原書からそれなりに読み取った世界にこだわっているのか。Aさんの記憶が薄らぐのがいやなのか。
 先方の建築家に依頼する写真・図面・解説などの資料リスト、定まった書式、封筒の宛名書きなどは自分でつくることにしたので、高木さんに無理を言ってタイプライターを買ってもらった。オリンピアのポータブルである。この道具はよく仂いたと思う。もちろん私も。私が青銅社を退社したのは仕事の上での、また私生活上の転換期だったからだが、会社も経営が思わしくなく銀行が介入した時とぴったり一致してしまったので、結果的には逃げ出したかたちになった。退職金がわりに受けとったのは折りたたみ傘1本。わが愛機ともいえるオリンピアを置いていくに忍びず、誰も使わないだろうし、買ってもいいですから私の手元に置かせて下さいと頼んだ。その後すぐ、私が傘1本では承服せずタイプライターまでぶんどっていったという話が流れているのに驚く。速度と変形とで生きる「噂」をこのときはじめて実感した。いや見方を変えれば、事実より人の心が受け入れられる現実、すなわち噂がつねに勝つのだと悟った。
 一切が手書き手づくりの私家本ならいざ知らず、編集だけに限ってもひとりで何年も定期刊行の商業誌を出し続けるのは不可能に近い。編集実務だけでなく、雑誌に不可欠な情報収集から企画アイデアまでとなると、編集内部でも誰によるものかすぐ忘れ去られる。忘れたほうがいいかもしれない。でないと、建築設計事務所などでもそうだが、あそこのデザインは実はオレがやったんだなんていうスタッフがいて、それだけなら裏話に終ってしまう。そうではない編集の内側、複合体による仕事、つまりさまざまな能力が集まってはじめて現実化する仕事とそれを方向づけるものとは何か、に触れてみたかった。


2007.9.18 植田実



























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