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植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」
第14回 「鬼海弘雄写真展 東京ポートレイト」  2011年9月26日
「鬼海弘雄写真展 東京ポートレイト」
会期:2011年8月13日(土)― 10月2日(日)
会場:東京都写真美術館
鬼海弘雄「皮装束の男」

 例えば漫画の版下というのは、印刷されたものを最終形とする原稿であって、原稿そのものを一般に見せることはなかった。(ついでに言えば、さらにそれ以前は版下原稿を印刷所側でもう一度トレースするというかなぞるプロセスによっていたので、かなり稚拙な出来映えのものがあった)。油絵にしても日本画にしてもオリジンである作品とそれを印刷した作品集や図録との関係が、漫画では逆になっている。
 けれどもいまは漫画の原画展も当たりまえになってきて、それらの単なる版下原稿とはいえない質の高さを誰もが知るようになったし、そこから漫画家たちの描法にたいする理解も深まった。手塚治虫の「鉄腕アトム」などの原画には何度も手が加えられている。描き直す個所には上から新しく紙が貼られたりして真横から見ると小さい紙の山が盛りあがっている。こうした執念とテクニックは印刷されてしまえば見えなくなる。また赤塚不二夫のハチャメチャなギャグ漫画がたいした抵抗もなく読めるのは彼の描線がとてもきれいだから。ということに、原画を見るとあらためて納得させられるのである。
 写真も本来は印刷による伝達の原稿だったはずだが、いまはアート市場の一画を堂々と占めるに至っている。この分野にはすごい写真の読み手やコレクターがゴマンといるので、ここで写真論めいたことは言いたくないのだが、オリジナルプリントから紙誌上に印刷されたものまでそこには評価の序列がないような、錯綜した表れになっているような気がする。プリントのコレクターに限ってもひと気のない光景だけを好む人もいれば、人間を撮った写真、それもレンズを正面から見ている人間の写真以外には興味がないという人もいる。絵画にたいする評価基準とはどこか違う。また日々の新聞に載せられる報道写真を私たちは当然のように見ているが、例えば今回の大地震の報道写真を大きく引き伸ばして並べた展示会を偶々見る機会があったとき、紙上で見ていたのと同じ写真がたしかに細部も色彩もずっと克明ではあるものの、新聞における現実感や切迫感になぜかはるかに及ばない。あくまで私の個人的印象だが、どうしてなのだろう。
 新聞には人の顔写真が載る。政治家もスポーツ選手も文化人も一般の人々も、そして商品広告に出ているタレントも週刊誌の広告にずらりと勢揃いさせられている人たちも、その表情で記事の内容、毀誉褒貶の度合が大体は見当がつく。新聞や広告のつくり手がそのように操作しているわけだが、読者のほうもその顔の意味ひとつひとつを瞬時に判断しつつ毎日の新聞に目を通している。全国紙の朝刊ひとつに集められている顔は170-200ほど。7、8年前に大学の授業で報道メディアについての話をする際に数日分の朝刊から拾った数である。今回ついでに今朝の朝日新聞をチェックしてみたらやはり190あまりの顔。こういう数値はあんがい一定している。これで朝・夕刊を1週間、1ヵ月、1年、あるいは数十年、さらには数紙購読していればその数は途方もない。しかし誰もが平然とこうした人間の顔を「読み」つづけている。
 前置きが長くなった。本題はごく短い。
 「鬼海弘雄写真展」は、浅草で出会った人々を、ばあいによっては定点観測的に撮りつづけてきた写真集『PERSONA』と、町を撮り迷ってきたともいうべき『東京迷路』『東京夢譚』とから選ばれたモノクロ写真約180点のプリントを展示している。
 鬼海はどちらかといえばシャイな人柄だから、見知らぬ人々に声をかけて写真を撮らせてくれと依頼するだけでもその都度それなりの決意と心の高揚を要するわけで、撮られる人と写真家とのあいだの独特なテンションが画面に張りつめている。それが「皮装束の男」「遠くから歩いてきたという青年」「大工の棟梁」といった被写体の人物像につけられた絶妙のコメント=タイトルにも表れているのだが、レンズの前に立つ人がこれほど圧倒的に迫ってくる写真はほかにあまり知らない。印刷されたものに比べてプリントはより臨場感を高めているといえるのかもしれない。浅草という場所の状況を浮き彫りにしているかもしれない。また同展のパンフレットにあるように「人間という摩詞不思議な存在の本質を訴えかけ」ているともいえるのだろう。
 それはいいかえれば「普通の人々」である。実際に彼等と会い、言葉を交わすことがあるとすれば、たしかに日頃会っている人たちとはすこし違うかもしれないが、さらに普通の人々であるにちがいない。そんな人々が鬼海に声をかけられレンズを向けられた一瞬、なにかが生じているのだ。新聞などに集められている無数の顔とは対極にあるものが。
 「人間という摩訶不思議な存在」の印象は『PERSONA』という「写真集」のほうにこそ強く感じられるのだと思う。つまり写真集というメディアはどうしてもそれぞれの物語性を帯びてしまうのではないか。いやむしろ物語性を意図して編まれるのが一般的なのではないか。額装され淡々と個々に並べられた今回のポートレイトは、写真集の脈絡とは違う。物語ることを凌駕して、ただそこに在ることだけが直撃してくる。思いもよらない、他人でもあり自分でもある顔を私は見たのだった。
 町の風景についても同様で、『東京迷路』や『東京夢譚』から選び出された1点1点はそれぞれ切り離されることで、東京の盛り場や裏路地について長年言われてきたイメージを根底から変えてしまうほどの気配を見せはじめている。それに言及するとまた話が長くなりそうなので別の機会に。
 ついでに。拙著『集合住宅物語』(みすず書房)の写真も鬼海弘雄である。月刊「東京人」に1998年から2001年にかけての丸3年間、毎月つきあってもらった。この撮影対象にどれほど興味をもってくれたのか、ちゃんと訊く機会はなかったが。
(2011.9.16 うえだ まこと)

植田実 Makoto UYEDA
1935年東京生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学専攻卒業。『建築』編集スタッフ、その後、月刊『都市住宅』編集長、『GA HOUSES』編集長などを経て、現在フリーの編集者。住まいの図書館編集長、東京藝術大学美術学科建築科講師。著書に『ジャパン・ハウスー打放しコンクリート住宅の現在』(写真・下村純一、グラフィック社1988)、『真夜中の家ー絵本空間論』(住まいの図書館出版局1989)、『住宅という場所で』(共著、TOTO出版2000)、『アパートメントー世界の夢の集合住宅』(写真・平地勲、平凡社コロナ・ブックス2003)、『集合住宅物語』(写真・鬼海弘雄、みすず書房2004)、『植田実の編集現場ー建築を伝えるということ』(共著、ラトルズ2005)、『建築家 五十嵐正ー帯広で五百の建築をつくった』(写真・藤塚光政、西田書店2007)、『都市住宅クロニクル』全2巻(みすず書房2007)ほか。1971年度ADC(東京アートディレクターズクラブ)賞受賞、2003年度日本建築学会文化賞受賞。磯崎新画文集『百二十の見えない都市』(ときの忘れもの1998〜)に企画編集として参加。

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