優れた同時代作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指す、オリジナル版画入り大型美術誌

版画掌誌「ときの忘れもの」第03号

特集1:草間彌生 特集2:パーヴェル・V・リュバルスキー

◎版画掌誌『ときの忘れもの』第3号刊行

同時代の優れた作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘を目指すオリジナル版画入り美術誌、版画掌誌『ときの忘れもの』第3号をこのたび刊行いたしました。

 第3号では、20世紀を代表する作家の地位を世界的に確立した草間彌生のフォトコラージュ特集(テキスト=小泉晋弥・茨城大学助教授)と、1920(大正9)年「日本に於ける最初のロシア画展覧会」に出品され、そのリノカット原版が発見されたロシア人画家パーヴェル・V・リュバルスキーの謎の生涯を特集(テキスト=五十殿利治・筑波大学助教授)します。限定総部数135部。送料は弊社負担。

 

[体裁]B4型変形(32×26cm)、綴じ無し、表紙/箔押・シルクスクリーン刷り、本文/24頁
     限定135部

A版 草間彌生の版画3点入り Ed.35(1/135〜35/135)  
草間彌生の新作シルクスクリーン、W109「南瓜」、W110「レモンスカッシュ」、W111「無限の網」の3点を挿入。


B版 草間彌生の版画1点入り Ed.100(36/135〜35/135)
草間彌生の新作シルクスクリーン、W109「南瓜」の1点を挿入。

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A版
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草間彌生 扉

 

パーヴェル・V・リュバルスキー 扉

 

 

特集1:草間彌生

特集2:パーヴェル・V・リュバルスキー

 世界的に今世紀を代表する作家の地位を確立した草間彌生。草間の作品や記録写真にみられる「コラージュ」という技法に焦点をあてました。本誌のためにシルクスクリーン3点を制作。
◎執筆 「虚空に種まく人―草間彌生の労働・科学・芸術」
小泉晋弥(茨城大学助教授)

 1920(大正9)年「日本に於ける最初のロシア画展覧会」にリノカットを出品した、ロシア人版画家リュバルスキー。数奇な運命を経て発見されたリノカット原版を巡る特集。
◎執筆 「ウラジオストクの版画家パーヴェル・リュバルスキー―ロシア未来派・リノカット・大正期新興芸術」
五十殿利治(筑波大学助教授)

 

◆略歴

草間彌生 Yayoi KUSAMA
1929年、長野県に生まれる。
49年京都市立美術工芸学校卒業後、55年には瀧口修造企画によりタケミヤ画廊で個展を開く。57年に渡米し、拠点をニューヨークに構える。59年頃から、増殖する無限の網や水玉作品(ネット・ペインティング)を制作。60年代に入ると、性や食物をテーマにソフト・スカルプチュア作品を発表し、ポップや環境芸術の先駆となる。60年代後半はハプニングを精力的に展開。1973年に帰国し、美術の他に小説など旺盛な制作活動を行う。79年頃から、版画にも精力的に取り組むようになる。93年にはヴェネツィア・ビエンナーレに出品。98年、ニューヨーク時代の作品による回顧展がMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催され、大きな反響を呼んだ。

パーヴェル・V・リュバルスキー
Pavel V Liubarsky (1891-1968)
1891年、ハバロフスクに生まれる。
モスクワの美術学校に学んだ。革命期には、地元で未来派の作家グループ”緑の猫”を結成する一方、政治的カリカチュアを盛んに発表した。22年にはウラジオストクに移って活動を続け、28年モスクワに転じた。日本では20年に自称”ロシア未来派の父”のブルリュークが将来したリノカットが一躍注目を浴び、東京、大阪などで展示された。彼の名はその後忘れられたが、同時にもたらされた原版は、数奇な運命を経て現所有者のもとにある。ロシア革命期の極東における混乱、出口のみえない不安が反映したエロスの表現がその原版からよみがえる。

 

本誌挿入エディション作品

A版は全エディション作品3点挿入

B版挿入版画1点

W110 草間彌生「レモンスカッシュ」
2000年 和紙にシルクスクリーン
27.0×21.0cm Ed.35

版画掌誌「ときの忘れもの」第3号
A版に挿入

W111 草間彌生「無限の網」2000年
ミラーフィルムにシルクスクリーン
27.0×21.0cm Ed.35 

版画掌誌「ときの忘れもの」第3号
A版に挿入

 *表面が鏡のような特殊なフィルムに刷ったこの作品は、観る人を写し出すとともに赤の無限の網がひろがります。

W109 草間彌生「南瓜」2000年
シルクスクリーン+布のコラージュ
27.0×21.0cm Ed.135

版画掌誌「ときの忘れもの」第3号
全冊(A、B版)に挿入 

 *コラージュに使われた布は、作家自らが描いた赤い水玉のデザインを綿布にシルク刷りし、今回特別に制作したものです。

 


 本文掲載参考図版本文掲載参考図版

リュバルスキー「まだ清純なからだ…」
版画集『Prostitutka』より8番

リュバルスキー「まさかのときに」
版画集『Prostitutka』より6番

リュバルスキー「満ち足りた生活」
版画集『Prostitutka』より5番

リュバルスキー「救世騎士団」
版画集『Prostitutka』より11番


版画掌誌『ときの忘れもの』第3号 編集続行中 綿貫不二夫

 本号で特集した草間彌生のフォトコラージュが「作品として」認知され注目を浴びてきたのはここ数年のことである。ハプニングの宣伝ビラや週刊誌『クサマズ・オージー』の表紙などに、草間は自らの作品写真を切り抜き、コラージュにして使った。それらは単なる記録、資料としてしか見られていなかったが、1996年N.Y.のPaulaCooper Galleryが「Yayoi Kusama The 1950s and 1960s」展を開きフォトコラージュを作品として展示し、売った。画期的なことだった。
 草間が初めて版画を制作したのは、N.Y.から帰国して随分経った1979年、シルクスクリーンによる「靴をはいて野にゆこう」が第一作である。版元はなく作家自身の出版だった。刷りを手掛けたのは本誌のメインプリンター石田了一氏である。1982年私が主宰していた現代版画センターが版元となりレゾネNo.7「南瓜」など7点をエディションしたが、全く売れなかった。国際的名声と数々のスキャンダラスな伝説はコレクターの購買欲をそそらなかったらしい。『草間彌生版画集』(1992年、阿部出版)には1979年から92年までの157点が収録されているが、凡例で「版元のうち、ボックスギャラリー(名古屋)と現代版画センター(東京)の2社は現存しない」とわざわざ注記してある。時代が早すぎたのだろう。
 版元には恵まれなかったが、石田氏や岡部徳三氏、木村希八氏など名刷り師が草間の版画制作を支えた。特に石田氏は職人としてのあらゆる技を駆使して草間版画の展開に大きく寄与した。本誌挿入の3点にも、それぞれ今までになかった試みがなされており、お楽しみいただけると思う。

 パーヴェル・V・リュバルスキー、この「歴史の彼方に忘れ去られた」作家のリノカット原版8点が80年の流転を経ていま私の目の前にある。1920年10月「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、翌21年10月「第2回未来派美術協会展」に出品された版画の原版である。
 随分昔、創作版画の蒐集に熱中していた頃、「君が持っていた方がいいから」とコレクターH氏から和紙に刷られた4点のリノカット版画を進呈された。いつか調べなければと気になりながら10数年が過ぎた。あるとき旧知の品川清氏のお宅に伺い、氏のコレクションを見せていただいていると、偶然同じものを見つけた。驚いて問うと、氏が原版を所蔵しており、以前ご自分で刷って仲間に配布したと言うではないか。私がH氏から進呈された4点も品川氏が刷ったものだった。
 団子坂の古物店に8枚一絡げに積んであったリノカット原版を誰のものとも知らず購入され、ベコベコになっていた版をボンドでベニヤ板に張り付け直し、和紙に自分で刷ってみたのだという。氏が参加しているコレクター組織「PCS」の1975(昭和50)年11月15日の第33回例会で会員に無償配布され、それが私や後述する小野忠重氏の手に渡ったのだろう。研究者の誰ひとり注目しなかった時代に自らの見識で原版を買った品川氏はコレクターの鑑である(氏はリュバルスキーのことは全くご存じなかった)。
 因みにPCS(プリント・コレクターズ・サロン)とは「版画を愛するもの同志で、作品入手の便宜を分ちあい、また作家との交流をたかめ、会員相互の親睦に資することを目的」に、1969(昭和44)年浪川正男氏、神尾格氏らによって結成された。駒井哲郎、関野準一郎など多くの作家の版画の頒布を行ない、機関誌『PCS』を11号まで刊行、今まで83回の例会(頒布会)を開いている。 
 かつては修学旅行先になるほど身近だった朝鮮半島やロシア・シベリア地方と日本の文化交流の歴史は、戦後の冷戦構造の下、長く封印されたままだった。近年、戦前の前衛美術運動の研究が進み、大正から昭和にかけ多くの海外作家や作品がロシア経由で将来されていたことが解明されつつある。小野忠重氏が『近代日本の版画』(1971年、三彩社)他でわずかに触れたぐらいで、専門の美術史研究者すら全く顧みることのなかったこの作家のことが注目され出したのはつい最近である。以下の三つの展覧会がその契機となった。
 1) 1994年 7月輝開主催「青美(一)展」/サブタイトルには「版画誌から落ちていた青年美術家たちの“詩と版画”誌」とあり、1921(大正10)年 4月未来派美術協会会員の後藤忠光(1896〜1986)が編集発行した版画誌を発掘、紹介した。同誌には後藤らの版画とともにリュバルスキーのリノカット版画が挿入されていた。
 2) 1995年 9月小野忠重版画館主催「初期リノカット展」/小野忠重氏が所蔵していたリュバルスキーのリノカット後刷り8点を展示したが、小野氏は既に没しており、同館所蔵の後刷りが品川氏によるものだとは関係者の誰も気付かなかった。
 3)1996年 6月西宮市大谷記念美術館主催「未来派の父 露国画伯来朝記 −ブルリュークと日本の未来派」展/「ロシア・ウラジオストックから来日、持参した500点もの作品で大正時代の日本に衝撃を与えた画家D・ブルリュークの日本での活動の詳細を」追った企画展で、前項小野忠重版画館所蔵のリノカット後刷り8点が出品されたが、やはり出品作が品川氏による後刷りだとは関係者の誰も知る由もなかった。
 整理すると1) の「青美(一)展」には、1921年に原版から刷られた1点が出品された。2) と3) には、数奇な運命を辿ったであろう原版8点を入手した品川氏が1975年に後刷りしたものが出品されたことになる。
 そこで原版を品川氏から委ねられていた私は、五十殿利治氏(筑波大学)、水沢勉氏(神奈川県立近代美術館)、滝沢恭司氏(町田市立国際版画美術館)に原版が現存すること、品川氏が後刷りを行っていたことを伝えたのだった。その後、この3人はロシアへ現地調査に赴くなど精力的に研究を進められている。
 8点のリノカット原版は、いつ誰の手によって日本にもたらされたのか確かなことは不明である。その後半世紀を経て古物商に渡るまでの経緯はさらに謎である。
 本号では現在までの発掘成果を発表した。いつかリュバルスキーの展覧会を開きたいし、原版からの後刷りも、もう少し時間をかけて実現したい。編集後記ではなく「編集続行中」とした所以である。
 ともに美術館の学芸員から大学に転じた気鋭の研究者である小泉晋弥氏、五十殿利治氏には、今までの研究成果に加え、新しい視点からの意欲的なテキストを執筆していただいた。
              2000年8月  綿貫不二夫


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