瑛九 について vol.3
                  綿貫不二夫


 このページは掲示板 現代版画Q&Aにおいて、2000年にときの忘れもの店主が瑛九についてコメントしたものを再録・編集したものです。

瑛九について 15  -池田満寿夫さんのこと-
 池田さんの名前が出た途端、投稿が5件も、う〜ん凄い、さすがマスオだ(昔、池田さんの周辺にいた人は皆マスオと呼んでいました)。もちろん生前、何度もお会いしました。1973年、私がひょんなことから版画の世界に入ったとき、知っていた名前は棟方志功と池田満寿夫のふたりだけでした。おかげで会う人(もちろんプロ)みなさんに「あなたはど素人ですね」といわれたものです。いま思い出しても恥ずかしい。しかしその素人の私でさえ、当時知っていたのですから、池田さんは文字通り戦後を代表する大スターです。いまならさしずめ安藤忠雄とかでしょうね。美術に興味のない人も知っているのがスターといいうものです。私もすぐに会いたいと手紙を出しました。
 当時の私の事務所は渋谷だったんですが、池田さん、きさくに来てくれました。でも結局仕事を一緒にすることはできませんでした。その理由を話し始めると、長い物語になるのでまたの機会に。ヒントは、私が(当時28歳)美術の世界に入るきっかけをつくってくれたのは、高崎の井上房一郎という日本を代表する文化のパトロンでした。井上さんが鎌倉の土方定一先生(神奈川県立近代美術館初代館長)に引き合わせくれ、土方先生がまた久保貞次郎先生(池田さんの最初のパトロン、日本有数の大コレクターで、町田市立国際版画美術館初代館長)に紹介して下さいました。つまり私の知らぬ間に久保ラインの末端に座ることになり、そこから瑛九へ真直線というわけです。
 以後、芋ずる式に瑛九水脈に連なる作家、コレクターの人達に次々とお会いすることになりました。それは私の大切な財産となりましたが、池田さんにとっては、触れてほしくはない(思い出したくない)昔の貧乏時代を知る人達の真ん中に突然、私のような何も知らない若者が現れたという図式です。池田さんの真の評価は、まだまだ時間がかかるでしょうが、瑛九から比べたらとても幸福です。
 この連載をお読みになっている方はきづかれたかも知れませんが、私は池田さんの名前は出していますが、浜口陽三の名前は一度も出していません。それが私の評価です。池田さんのメゾチントは浜口陽三のものよりかはるか上位に位置します。


池田満寿夫 『ロマンチックな風景』
1965年 銅版 36.0x34.5cm Ed.20

 

瑛九について 16  -池田満寿夫の版画について 2-
 池田版画についての私見を述べよとのことですが、作品の評価に入る前に私は画商ですのでその視点からちょっと一言申し上げます。
「池田は50〜60年代以外は駄目だ」といった寝言はいつの時代、どんな人もつい口にしてしまうものです。以前、私は「コレクタ−というのは常に保守的なものだ」と申しましたが、画商をやって何が悲しいかといって、作家の意欲あふれる新作を発表すると、必ず「前の方が良かったのに」「初期の作品なら欲しいのだけれど」というコレクタ−の言葉を聞かされることです。残念ながら多くの人は評価の定まったもの(活字になった評価)しか信じられないのです。もっといえば安いときは買えず、恐ろしく高くなってからしか買えないのが、凡庸なコレクタ−のつねなのです。
 前にも書きましたが、私が加山又造先生の「レ−スをまとう人魚(1977年)」をエディションしたとき、社員ですら(社員割引で安く買えたのに)誰も買いませんでした。数万円だったときは全く売れず、後に50万円、100万円に値上げすると、我先にと買いに来る。これが現実です。そういう人間の弱点をふまえて、池田満寿夫の版画の市場評価を見てみましょう。投稿者の皆さんが後期の版画の価格が低いことを嘆かれていますが、私は必ずしも低すぎるとはみていません。池田版画の代表作、例えば「聖なる手(1965年)」など数百万円の価格がこの不景気でもついています。ところが後期のリトなど、10万円で買えるものもあります。これを果たして不当な評価と考えるかですが、そんなことはありません。10万円は大金ですよ。


加山又造 レースをまとう人魚
リトグラフ 36.0x54cm Ed.150

瑛九について 17  -池田満寿夫の版画について 3-
 私たち画商の仕入れル−トの一つに業者だけが参加できる交換会という仕組みがありますが、全国に何百とある交換会で、池田版画は値段さえ無理を言わなければ、必ず売れます。これは実は凄いことなんです。ガラクタ市のような会でも、日動画廊を筆頭とするトップグル−プの会でも、また現代美術専門の会でも、どこに出しても極端な話し日本画の会に出しても池田版画は売れます。換金できるんです。つまり画商にとって池田版画を持っていることは現金を持っていることと同じなのです。こんな作家はそうはいません。
 例えばいま人気の辰野登恵子さんの版画をもしカシニョ−ルやヤマガタなどを専門に扱う交換会に出したら、恐らく1円でも誰も買わないでしょう。そういう意味では辰野版画は普遍的な(おかしな表現ですが)意味での交換価値はまだ無い作家です。没後まだ間もない池田さんの版画が値段の高低はあるにしろ、日本中どこへ行っても換金できるという凄さは、やはりスタ−のものです。念の為申し添えますが、市場価格はあくまで市場原理(需要と供給)にもとづいて動くものですから、初期のものが高い(つまり希少性がある)のは当たり前なんです。価格の高いこと=芸術的評価が高い、とはなりません。

瑛九について 18  -池田満寿夫の版画について4-
 佐久間さんはじめ、SSさん、斉藤さん、時田さん、Lさん、NNさんなど、池田ファンからのご要望に応えて、池田版画について述べなければならないようですが、ちょっと迷っています。先ず、私の専門は(最も敬愛する作家は)瑛九です。池田版画の話になる前、お約束したのは、瑛九のフォトデッサンについて述べるということでした。大好きな瑛九のフォトデッサンについて話しだしたら、また長くなってしまうだろうなあ・・・困った。私が初めて「版画」と意識して買ったのは池田さんの「うつろなスフィンクス」(1970年、限定500部)です。サラリーマンになったばかり、新婚早々でした。28.000円でした。もちろん瑛九の名前さえ知らない時期でした。池田さんは、だから好きな作家でもあるし、その後の画商としての歩みの中で、常に意識せざるを得ない作家でした。さて、池田さんについて、書くべきか、はたまた瑛九に戻るべきか・・・

瑛九について 19 -フォトデッサン-
 池田版画についてはしばらく休憩、瑛九に戻りましょう。瑛九のフォトデッサンがいかに重要かについて、私は研究者じゃないから、画商として実践的コレクション談義でもしましょう。でも最初に簡単な「瑛九以前の瑛九」についてひとこと。
 イ)瑛九は美術評論家、写真家、エスペランティストだった………瑛九がフォトデッサン集「眠りの理由」でデビュ−したのは1936年25歳のときでしたが、画家になる前に既に彼は早熟の天才でした。旧制中学には入学して間もなく退学、16歳で『みづゑ』『アトリヱ』に美術評論を執筆しています。少年の瑛九が熱中したのはカメラです。当時(1920〜30年代)カメラをもつことはかなりの金持ちじゃないと不可能、美しい姉妹を撮りまくり『フォトタイムス』になかなか官能的な作品を発表、このとき19歳。同誌1930年 8月号には本名杉田秀夫の名で「フォトグラムの自由な制作のために」を執筆しています。
 父は宮崎きっての眼科医で有名な俳人、同じ眼科医となる兄に影響されてザメンホフが創案した国際語エスペラントを学びます。当時、エスペラント運動の果たした役割は今の若い人には想像できないでしょうが、生涯一度も海外に行かなかった瑛九が非常に豊かな国際的感覚をもてた一因がここにあります。瑛九の理解者となる久保貞次郎と知り合うのもエスペラントによってでした。後年、瑛九のもとに集まった靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温などの若い画家が例外なく活躍の場を海外に求め、早い時期に渡米、渡欧したことは、決して偶然ではないでしょう。杉田秀夫が「瑛九」と名乗る以前に、すべての芽は準備されていたのです。

続く→vol.4


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 『瑛九作品集』編集を終えて-画廊主のエッセイ-