瑛九 について vol.4
綿貫不二夫
このページは掲示板 現代版画Q&Aにおいて、ときの忘れもの店主が瑛九についてコメントしたものを再録・編集したものです。
瑛九について 20 -瑛九の必読書-
1955年に池田満寿夫、靉嘔、堀内康司と「実在者」というグル−プを結成した真鍋博さんが亡くなりました。星新一のSFのイラストで有名ですね。優れた作家というのは単独で世に出てくることはないというのが私の独断です。天才は回りに凄い才能がひしめいているもんです。謹んでご冥福をお祈り致します。
さて、瑛九のフォトデッサンについて、掲示板読者には若い方もおられるようですので、必読参考書をいくつか紹介します。
『瑛九 評伝と作品』山田光春著、1976年・青龍洞刊。
瑛九の友人の画家が瑛九の会の機関誌「眠りの理由」に連載したもの。479頁の労作です。山田は私家版の油彩レゾネを制作したり、多くの資料を集めた瑛九研究の最大の功績者です。既に絶版で古書店で探すしかありません(先日の古書目録では30.000円でした)。
『瑛九作品集』本間正義監修、1997年・日本経済新聞社刊。
私が編集、全237点(油彩130点、フォトデッサンとコラ−ジュ45点、銅版39点、リト23点)は美術館蔵のほか、個人蔵の秀作を可能な限り収録した決定版画集です(つまり今後市場に出る可能性のあるもの)。私どもで扱っています、価格57.000円です、ぜひご注文を。
瑛九作品集
1960年、48歳の若さで逝った前衛作家瑛九(本名/杉田秀夫)の豪華決定版作品集。1997年日本経済新聞社刊(監修・本間正義、編集・[有]ワタヌキ)。
特別限定版/ 限定 100部、瑛九の銅版、靉嘔・難波田龍起・細江英公のオマージュ作品4点入り、送料は小社負担。パンフレットをご請求下さい。
『光の化石 瑛九とフォトグラムの世界』展図録、1997年・埼玉県立近代美術館刊。
マン・レイ、モホリ=ナジの作品をまじえた好企画でした。学芸員梅津元氏の論文は必読。まだ入手可能でしょう。
『私の調書・私の技法』池田満寿夫著、1976年・美術出版社刊。
フォトデッサンには関係ないけれど、瑛九のことを暖かく書いています。後年、テレビなどで若い頃を恨みがましく回想していた池田さんですが、この本は名著です。瑛九水脈を知る上で必読。
瑛九について 21 -フォトグラムの定義-
ロ)フォトデッサンとは………これは瑛九の造語です。普通には「フォトグラム」といわれる技法です。1936(昭和11)年印画紙による100点もの作品を持って上京し、画家長谷川三郎と美術評論家外山卯三郎に見せたところ、初対面だった二人はその独創的な作品に驚愕し、ただちにその場(外山家の食堂)で、これらの作品を「フォト・デッサン」とすること、ペンネ−ムを「Q Ei]とすることを決めたといわれます。いわば瑛九、長谷川、外山の合作です。
では、なぜ既にあった「フォトグラム」という言葉を使わずに「フォト・デッサン」としたのでしょうか。瑛九たちが意識していなかったかも知れないけれど、安井曽太郎に代表される眼に見える物を正確に写しとるという古典的な「デッサン」の概念に対し、画家の内面に生じたイメ−ジを手を通して表現することこそが「真のデッサン」なのだという現代美術の根源を支える概念を表明したいという意気込みがそこにあったんじゃないかしらと私は夢想します。光によるデッサン、瑛九の一生に相応しい言葉の誕生です。「フォトグラム」については新潮世界美術辞典に簡潔な説明があるので引用します。
<写真の特殊技法。カメラを用いず、感光紙と光源とのあいだに、透明・半透明・不透明な物体を置いて露光させ抽象的な映像を構成する写真。光源には引伸し機、蝋燭、マッチ、懐中電燈などを用いる。1921年頃から、マン・レイやモホリ=ナギにより試みられた。日本では瑛九の作品が著名である。この手法では当然プリントは1枚に限定される。>
そうなのです。フォトデッサンは原則としてたった一枚しか無い作品です。だからこそもっと大切にされて欲しい。瑛九の印画紙による作品の分類については、次回にご説明します。
瑛九について 21 -瑛九の会-
瑛九没後、1965年(昭和40年)瀧口修造、久保貞次郎、木水育男などが中心になり、瑛九を顕彰するために設立された会です。はじめ事務局は東京にありましたが、その後福井に移りました。機関誌「眠りの理由」や、リトグラフのレゾネ刊行、回顧展の開催さど、60年代から70年代にかけ活発な活動を展開しましたが、現在ではメンバーの死去や高齢化などにより実質的な活動は休止しています。私は瑛九を直接は知らない世代ですが、いずれ機が熟したら「瑛九の会」の復興を呼びかけてみたい気もします。
瑛九の会機関誌「眠りの理由」第12号
1972年10月発行
瑛九について 22
ハ)瑛九の印画紙作品………1936年刊行のフォトデッサン作品集『眠りの理由』が瑛九の画家としての出発点です。それまでの印画紙による様々な制作の試行錯誤が『眠りの理由』に結実し、杉田秀夫から瑛九へと脱皮します。
ここで、印画紙(及び写真)による瑛九の作品を整理しておきましょう。まず、純粋の<写真作品>があります。姉妹を撮影したポ−トレ−ト作品が1931年当時の「フォトタイムス」に掲載されています。次にやはり姉妹などを撮影した写真原版(ガラス乾板)を直接ひっかいたり、線を描いたりして、それを紙焼きしたものに更に着色するなどした<初期フォトデッサン>ともいうべき作品があります。「みづゑ」1936年 3月号に紹介され、注目を浴びます。私は日経の『瑛九作品集』編集に際してはこれらも「フォトデッサン(フォトグラム)」と分類しましたが、厳密にいえば部分的にカメラのレンズを通しているので、『眠りの理由』以後の作品とは異なります。それらの作品の制作と同時進行で、瑛九は<フォトコラ−ジュ>もかなり制作しました。雑誌に印刷された写真図版などを切り抜いて、黒い台紙に貼りあわせた作品です。
以上の諸作品の殆どは瑛九の初期時代、1930年代に制作されました。フォトデッサンを考える上でいずれも重要な位置をしめるものです。着色した<初期フォトデッサン>を数年前、ある若いコレクタ−に100万円で売りました(『瑛九作品集』35頁所収)。今だったらもっと高いでしょうね。ところで、みなさん、この連載どうですか? 割り込み質問、ご批判大歓迎、何か反応がないと、書いててちょいと空しい(さびしい)………
瑛九 フォトデッサン
1936年頃 30.4x25.2cm
瑛九について 23 -マン・レイの影響-
佐々木史郎さんのご質問にお答えします。マン・レイのことはもちろん知っていましたし、影響も受けています。瑛九は1930年19歳のときオリエンタル写真学校に入学して写真に熱中します。写真の文献なども集め、実作と評論執筆の両方で研究を深めます。「フォトグラム的制作は空間表現を完全にのりこえて前進する1930年以後の芸術として大きくひろがり前進するであろう。前進しなければならぬ」([フォトタイムス]1930年 8月号より)とフォトグラム技法の展開に期待し、また他の評論でもマン・レイやモホリ=ナギによって創始発展させられたフォトグラムが、その後十年を経て既に雑誌等で紹介されていながら日本での実作の成果が少ない現状を述べ、今後の課題について言及しています。
それらからは瑛九自身がマン・レイやモホリ=ナギの跡を追うのではなく、新たなフォト・デッサン創始へ向けての自負が読み取れます。「印画紙による作品はモダンプリントとしての発行は可能」かとのご質問は、重要なので回をあらためて論じましょう。ただし、瑛九のフォト・デッサンには原則として(ここが重要で次回以降に詳述します)ネガフィルム等の原版があるわけではないので(つまり光を直接印画紙にあてて制作した)、いわゆる「ネガからのモダンプリント」というのはあり得ません。あるとすれば既に何回か細江英公先生によって制作された「リプロダクション」です。
瑛九について 24 -瑛九のフォトデッサンが見られる美術館-
フォトデッサンを所蔵する美術館は結構多いのですが、東京近郊では東京都写真美術館(恵比寿)、埼玉県立近代美術館(浦和)、横浜美術館、川崎市市民ミュージアムなどがまとまって所蔵しています。ただしいつも展示してあるわけではないので、行く前に確認したほうが良いでしょう。横浜美術館(写真のコーナーあり)が比較的多く常設していますね。確実に見られるのは2000年12月1日から、私どもで「第10回瑛九展」を開催し、デビュー作「眠りの理由」を展示します。ぜひお出かけ下さい。
続く→vol.5
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『瑛九作品集』編集を終えて-画廊主のエッセイ-
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