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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第2回 2020年07月14日
その2 『宮本常一 写真・日記集成』――「親父の雑駁な写真」

文 平嶋彰彦
写真 宮本常一


 「東京ラビリンス」(『昭和二十年東京地図』)を撮影したのは1985年から86年にかけてだが、それから1年後、41歳のときに出版写真部のデスクになった。写真取材の手配と写真のとりまとめが仕事である。ちょうど、自分なりの写真が撮れるかも知れないと思いはじめた矢先だったから、デスクワークに専従する気持ちにはなれなかった。わがままを聞いてもらって、1ヶ月のうち10日ぐらいは自分でも撮影に出るようにした。
 しかし、部長職になると、それも怪しくなった。46歳のときである。そもそもデスクが仕事をくれない。考えてみれば無理もない。だからといって、好き勝手にふるまうわけにもいかない。写真が撮れないとなると、写真職場に執着する意味もなくなった。
 50歳のとき、出版制作部長への人事異動を打診された。用紙と印刷の管理部門で、写真職場とはまったく畑ちがいである。無茶な人事だと思ったが、断る理由も特に考えつかないので、言われるまま黙って引き受けた。
 思いがけないことはもう一つあった。1年ほど過ぎてからだったか、用紙と印刷の管理をしながら、併行して雑誌の編集をしなければならない羽目になった。私に編集する能力があったわけではない。しかたなく、後述する伊藤幸司の紹介で、フリーの野地耕治(編集者)と三村淳(デザイナー)に助けを求めた。彼らの後ろ姿をみながら、絵に描いたような50歳からの手習いで、編集の仕事を少しずつ覚えていった。

 2005年に『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻別巻)を刊行した。定年退職する1年前、59歳のときである。出版制作部からビジュアル編集室へ移って4年目にあたる。夢とも理想ともつねづね思っていたのは、野球の野村克也に倣えば、退職にあたって、生涯1カメラマンだと自信をもって言えることだった(註1)。といっても、写真職場にもどれる可能性はまったくなかったし、またもどったところでどうなるものでもなかった。どのみち、自分の仕事は自分でつくるしかないことになる。
 私のカメラマン生活の総決算と言えば理解してもらいやすいかも知れない。自分としてはめずらしく気負って取り組んだのがこの『宮本常一 写真・日記集成』だった。実質的な編集期間は1年足らずだが、企画から刊行までに4年半を費やした。

 宮本常一が一枚の写真を読み解き、それについて1時間でも2時間でも話ができることを聞いたのは、1970年代の半ばで、30歳前後だった。また宮本自身も好んで写真を撮り、ハーフサイズのオリンパスペンが愛用のカメラだというのである。教えてくれたのは先にも書いた伊藤幸司である。早稲田大学写真部の同期生だが、かけ持ちで探検部にも所属していた。大学を卒業した後は、フリーの編集者として身を立てながら、宮本常一の主宰する日本観光文化研究所(観文研)の活動に参加していた。
 自分の撮った写真にキャプションをつけるのは、日常的な業務の一環だった。しかし、1時間も2時間も話すとなると、まるで話が違ってくる。自分にはとうてい真似することはできない。写真を解読する並外れた能力を想像すると空恐ろしさを感じた。しかし、その場の話として聞き流してしまい、その後に読んだ著作も『越前石徹白民俗誌』と『山に生きる人々』、それに『庶民の発見』だけだったような気がする。

 網野善彦を神奈川大学の日本常民文化研究所(常民研)に訪ねることがあった。網野は言わずと知れた歴史学者で、常民研の所長も務めていた。出版写真部にいたころで、1990年代だった。用件は『エコノミスト』の原稿依頼で、デスクの北村龍行に同行を誘われ、ついていっただけなのだが、雑談のなかで、次のような興味深い話を聞くことが出来た。
 網野善彦は、まだ常民研が水産大学に仮住まいしているころ、この研究所に在籍することがあった。宮本常一の席は目の前で、あいさつや日常会話を交わすことはあったが、一緒に調査活動をする機会に恵まれなかった。しかし、海からの視点で日本史を見直す必要があるとか、日本列島の東と西では文化的な差異が認められるという自分なりの歴史観は、後年になって読んだ宮本常一の著作からの影響が大きかったという。
 また、神奈川大学に移転して以降は、高取正男が所長を務めるはずだったが、若くして急逝してしまった(註2)。自分は高取正男と親しかったこともあり、所長の職を頼まれたとき、断るわけにいかなかった、というのである。
 網野善彦と高取正男の目ぼしい著作を、私はなるべく読むようにしていた。しかし、歴史学と民俗学の気鋭と評されたこの二人の学者に厚い親交があったことは知りもしなかった。この話を聞いてから、宮本常一という民俗学者に特別な関心を抱くようになった。
 
 2001年に宮本常一の『空からの民俗学』(岩波現代文庫)を伊藤幸司から贈られることがあった。3部構成の最後が「一枚の写真から」で、彼の写真が取り上げられていたのも興味深かったが、読み進んでいくにつれて、30年前に彼から聞いた話がよみがえると同時に、宮本常一自身の撮影した写真をやたら見てみたくなった。
 伊藤に問い合わせると、宮本常一の長男で、『あるくみるきく』(観文研)の編集長だった宮本千晴さんに連絡をとってくれた。伊藤の報告によれば、宮本常一の写真をまとめた写真集はこれまで刊行されたことがないし、出版企画の申し込みもいまのところない。撮影フィルムは宮本の郷里である山口県東和町(現周防大島町)に寄贈され、データベース化が進められているとのことだった。そこで千晴さんに直接お会いすることにし、出版企画の意向を伝えると「親父の雑駁な写真がはたして写真集にまとまるでしょうか」という意味深長な答えが返ってきた。

 営業的な常識からすれば、顔を背けたくなる企画である。通るわけがないと、なかば諦め気分で、出版局長の仁科邦男に持ちかけると、「おもしろいかも知れない。どうせやるのなら、資料として後まで残るものにしたい」という思いもよらない反応だった。
 正式に刊行計画を立てるためには、先ず周防大島まで出かけ、ものになるかならないかを確かめる必要があった。そこで、東京農業大学の米安晃名誉教授に協力をお願いする手紙を書いた。米安晃さんは、撮影フィルムをはじめ、宮本の遺品を郷里へ寄贈することを勧めた人物で、米安家は宮本常一の祖母の実家にあたる。
 以下は、そのとき私が書いた手紙の一節。『宮本常一 写真・日記集成』の附録に掲載された伊藤幸司の「はじまりの話」からの引用である。正確な日付は分からないが、前段に「今月中、盆休みの後」の記述があるから、2001年の8月のことである。
 
 「私個人には、宮本常一先生が撮った写真をぜひ見てみたいという、一読者としての根強い欲望があります。また、絵巻物などの解読に腐心され、学問的な先鞭をつけた宮本常一の写真がつまらないわけがない、という確信もあります。千晴さんの話からも、先生がフィールドワークの単なるメモ以上に写真を考えていたのは、どうやら間違いないようです。先生には職業写真家が作品として写真を撮るのとは違った、たとえば絵巻物に描かれた風景や人物を読み解いていったような、一種独特の方法論があったと想像するのです。それは先生が言語の形で書き残した膨大な記録に繋がっていると同時に、写真でしか残せなかったことなのかも知れません」

 それより2ヶ月後の10月、伊藤幸司(編集者)、福江泰太(編集者)、鈴木一誌(デザイナー)と私の4人で、周防大島に赴き、一泊二日の現地調査を行った。同じ附録に、その時の印象を私はこう書いている。

 「宮本常一の撮影フィルムに初めて目を通したとき、民俗学の調査記録というよりも、むしろ民俗学の視点をもったジャーナリストによる庶民の戦後昭和史ではないか、毎日新聞社がこれまで手がけた現代史を写真中心に綴った『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記憶』(全20巻)に匹敵するか、あるいはそれ以上の記録資料になりうるのではないか、という思いに直撃された。どの撮影フィルムにも見たものを記憶に残そうとする宮本の内発的な意思があふれていた。露出やピントを外した写真がやたらに目立ち、下手な素人写真といってしまえばそれまでなのだが、写真がつまらないかというとまったくそうではない。理由もなく引き伸ばし機にかけてプリントしてみたいという衝動にかられた」

 文中の『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記憶』(全20巻)はいずれも、前回の連載その1で書いた西井一夫が企画し編集長を務めた。2000年12月、西井は『20世紀の記憶』が完結すると、毎日新聞社を早期退職するが、その直後に食道癌を発症し、2001年11月に亡くなった。この現地調査の1ヶ月後である。社報の死亡記事は私が書いた。

(註1)野村克也
1978年、西武ライオンズのフロリダキャンプで、野村克也から「しばらく朝食をつきあってくれないか」と頼まれた。現役引退の2年前になる。『毎日グラフ』の「魅力の周辺」という連載ページで、一度取材したことがあるが、それだけの関係にすぎない。聞くと、食事には話し相手が要るという。乗換のサンフランシスコ空港では、息子(ダン野村)と一緒にいるところを写してくれと、内緒で頼まれたこともあった。キャンプ初日、野球音痴の私を相手に、野村が問わず語りに漏らした感想はこうである。「キャッチボールは肩慣らしだけじゃない。コミュニケーションの大事な手段であるのに、それが徹底していない」。夜になると、誰が声をかけるわけでもなかったが、スポーツ記者たちがロビーに集まるようになり、野村克也の野球教室が始まった。

(註2)高取正男
民俗学者、歴史学者。1926-1981。宮本常一の1981年1月3日の日記に「高取正男死」とある。宮本は都立府中病院に入院中で、同じ月の1月30日に亡くなった。高取正男が宮本常一に敬意を抱いていたことは、『差別の根源を問う』(野間宏・安岡章太郎編)を読むと如実に伝わってくる。高取正男の主な著書に、『日本的思考の原型 民俗学の視角』、『神道の成立』『高取正男著作集』全5巻、『民間信仰史の研究』などがある。

【写真】
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山口県大島郡周防大島町大字浮島楽江。学校から船で帰る小学生。1960年10月26日。


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長崎県壱岐市郷ノ浦町。煉り櫂を操る子どもたち。1962年8月3日。


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佐賀県唐津市鎮西町加唐島。台風一過、出漁を待つ漁師たち。1962年8月9日。


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北海道利尻郡利尻町。海岸に干したコンブをとり込む親子。1964年8月3日。

写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。
ひらしま あきひこ

●新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。

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