ときの忘れもの ギャラリー 版画
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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第7回 2020年12月14日
その7 祖霊信仰と念仏講の解体

文・写真 平嶋彰彦


 2006年8月24日、この日は私の定年式だった。といっても、そのさき3年間の再雇用が決まっていて、それも引続き同じ職場で働くことになっていた。一方では、それまでとそれからの時間には大きな断絶があることも確かだった。なんとなく落ちつかない気持ちのまま、定年式と退職に伴う手続きをすますと、習志野の自宅へ飛んで帰った。そして、取るものもとりあえず、妻と一緒に実家のある館山へ車で向かった。
 この日は南房総では地蔵盆にあたっていた。私の家では、この年の3月に父親が亡くなり、8月1日から31日までの1ヶ月間に新盆の行事がいくつかあり、地蔵盆の日には、旧西岬村の6箇所にある地蔵さまを廻りお参りする習わしがあった。
 実家のある集落には、そのころまではまだ念仏講が残っていた。その法要で唱える念仏の1つに「六地蔵」がある。現在残されている経本は、もとの形が崩れているらしく、意味のとれないところもあるが、この地蔵廻りの趣旨をそれとなく感じとることができる。
 一、南無仏の大慈大悲の誓いにて、弥陀の浄土へ守り給へよ(小沼)
 二、無始よりの造りし罪も其の訳(まま)に、法の功徳で照らせ給へよ(根本)
 三、地獄・餓鬼・畜生・修羅や、人間の快楽を当へ給えよ(伊戸)
 四、倉を満ち一切衆生末の世の願いままに授け給えよ(川名)
 五、菩提心発せば到る彼の岸へ、唯一筋に送り給えよ(洲崎)
 六、さぞさぞや衆羅で迷いし六道を、早く静めて得させ給ゑよ(波左間)
 七、極楽の辻にたたれし地蔵尊、導き給へ弥陀の浄土へ
 上記の旧西岬村の西岬というのは、館山市の南部から西側に突き出た岬のことで、東京湾の入口に位置する海上交通の要衝である。館山市との合併は1954年、私が小学校2年のときだった。実家があるのは「六地蔵」で最初の札所になっている小沼という集落だが、時間がなかったので、6番目の波左間から車を使って逆廻りにお参りすることにした。
 波左間に着いたときは、すでに午後4時をまわっていた。この日は地蔵盆の幡が立つから、場所はすぐ分かると聞いていたが、すでに片づけてしまったらしく、それらしきものは見あたらない。漁港近くの雑貨屋で尋ねてみると、70代のおばさんが出てきて、場所を教えてくれたついでに、こんな話を聞かせてくれた。
 新盆の家はもちろんだが、そうでなくとも、むかしはこの日に地蔵廻りをする人が多かった。自分が若いときには隣近所の女たちと誘い合って、念仏に唄われる6箇所だけでなく、坂田や見物などにも札所があり、そこにもお参りをした。なにしろ暑い盛りのことだから、涼しいうちにということで、日の出前から歩きはじめた。波左間から洲崎を廻って小沼までは海岸沿いで、上り下りが少ないから、まだましだった。しかし、そこから先は急な山道になっていて、切通しの先のトンネルを越えて、最後の東漸寺(見物)に着くころには、暑さと疲れで身体がへとへとになった。地蔵廻りを終えると、近くの雑貨屋に立ち寄り、一息つくのだが、お茶を飲みながら余所の人たちとおしゃべりするのが楽しかった、という。
 実家のある小沼では、この日に堂番が3人出て、朝5時から地蔵堂を掃き清め、お茶とお菓子を用意するなどして、地蔵廻りの参詣客を待ち受けた。午後2時ごろになると、集落の女たちが三々五々お堂に集まってきて、念仏を唱えるのが習わしになっていた。
 家に帰るころには薄暗くなっていた。母は窓を閉め切ったまま扇風機もつけず、テレビを見ていた。庭の盆灯籠と仏壇の前の盆棚に火を灯し、墓参りに向かった。1週間前に供えた花は見事に枯れていた。飾る花のないまま、白木の灯籠と切子提灯に火を灯し、線香をあげた。お堂は鍵がかけられ、本尊の地蔵菩薩は拝めなかった。地蔵廻り最後に、切子提灯の1つを焼却炉で焼いた。むかしは墓に飾ったままにしたが、雨風にさらされ汚いので、そうすることになった。

 私の郷里では念仏講が葬式や供養の中心的な役割を担ってきた。20軒足らずの集落だが、十七日講を名乗る講が2つ、二十日講を名乗る講が1つ、都合3つの念仏講があった。月に1度の寄合講で、講名は開催日にちなむ。家が単位だが、実態は女だけの女人講である。在家の自主管理で運営され、菩提寺は曹洞宗だが、寺の関与はほとんどない。私の家が入っていたのは十七日講で、8軒で構成され、月々の会場は8軒で持ち回りにしていた。
 ふだんの念仏講は夕食後の夜7時とか8時から催された。法要を営むのは仏壇のある部屋で、西国三十三箇所観音霊場の掛け軸が懸けられた。最初は百万遍の数珠繰りで、輪になって座り、大小合わせ108個の数珠を揉むようにして順繰りに回していく。

202011平嶋彰彦‗ph1-IMG_5119-aph1 実家で催された念仏講。百万遍の数珠繰り。館山市小沼。2011年10月17日。

 終わると、仏壇に向かって座り直し、念仏の読誦となる。先達と呼ばれる2人が鉦をたたいて音頭をとり、全員で念仏を唱和する。読経の順番は、「般若心経」、「香偈」、「帰依三宝」、「六地蔵」、「御詠歌」、「回向」で、時間は30分から40分。近年には経本を見ながら念仏を唱えていたが、ひと昔前までは、口から口へ言い伝えるもので、私の母なども、意味は分からないまま、念仏の経文はすべて暗記していた。

202011平嶋彰彦‗ph2-IMG_5143-aph2 実家で催された念仏講。念仏の読誦。館山市小沼。2011年10月17日。

 法要が終わると別の部屋に移り、お茶とお菓子が出て、懇親目的の雑談会になった。農事に関するいろいろな相談とか、近隣の市町村で起きた出来事や、集落のなかの噂話など、話題はとりとめがない。情報交換の場であり、老若同席の教育の場でもある。女による女のための学校だったとも言える。
 通夜のときの念仏は、「六地蔵」の代わりに「十三仏」を唱える。これは十三仏の来迎を仰いで、極楽浄土へ引導してもらうのだという(註)。この念仏は午後8時、10時、12時と3回。戦前には午前2時に4回目もあったらしい。文字通り夜を通しての法要だったのである。1回目は般若心経から始めるが、2回目からはこれは省く。3回目のみは、最後に次の誦句を唱和して締めくくる。
  かりの世にかりの身体を借りて来て、今たちかえる弥陀の浄土へ
 通夜と告別式の導師は菩提寺の住職が務めるが、念仏講の主催する法要に住職が同座することはまずない。告別式を終えると野辺送りをするが、納骨をすませると必ず郷念仏をした。郷念仏とは集落にある3つの念仏講が総出で催す念仏のことをいう。

 私の母は最晩年には、「私は長生きをしすぎた。友だちはもう誰もいない。十七日講に送ってもらい、早くあの世に行きたい」と口癖のように繰り返していた。神仏の恒例行事は動もすると怠りがちで、信仰とは無縁に近い生活ぶりだったが、念仏講の催しだけにはなぜか心の安らぎを見出していたのである。
 その母が亡くなったのは2018年11月で、96歳だった。しかし、そのときにはすでに念仏講は消滅していた。そのため、通夜の念仏も納骨後の郷念仏もないまま、母をあの世への旅立たせることになった。念仏講が解体したのは、講中の人たちが高齢化するばかりで、後継者がいなかったからである。私の母はそのなかでも最年長だった。90歳を過ぎても、1人暮らしをしていたが、さすがに夜間の1人歩きは危険になり、講を休むと言い出した。そのほかも80代が4人、70代が3人、60代以下は0人、という異様な年齢構成で、しかも孫子どもと暮らしているのは1軒だけだった。
 3つの講はどこも同じような状況だった。そのため、相互に話し合い、講組織を1つにまとめるとか、夜の催しを昼にするなど、存続の工夫を試みたという。しかし、そんなことで抜本的な解決ができるはずがない。念仏講は2015年ごろまでに活動を停止し、郷里における死者の葬送と供養で中心的な役割を担ってきた近世以来の歴史に幕をおろした。
 母は最晩年の3年余りを養護施設で暮らしていた。口のなかが痛いと頻りに訴えていると施設の担当者が言うので、病院で診てもらうと末期の舌癌だった。医師の勧めもあり、苦痛をともなう手術は諦めて、なるべく苦しまないで死を迎える方法を選んだ。それよりちょうど半年後、病院から夜中に連絡があり、容態が急変したというので、駆けつけてみると、すでに息を引きとった後だった。
 葬儀社とすぐに連絡をとった。父の葬儀のときは、通夜は実家で、告別式は斎場で行った。しかし、母の場合は、両方とも斎場で行うことにした。先に述べたように、念仏講が解体してしまい、通夜の念仏と納骨後の郷念仏が出来なくなった。また、実家はふだん誰も住んでいないから、大勢の弔問客に対応する準備が難しくなっていた。
 母の遺体は自宅に帰すことをしなかった。病院から斎場に移し、そのまま安置してもらうことにした。行ってみると、安置室が用意できるまで、遺体は倉庫のような部屋に置かれていた。わずかな時間とは言いながら、ひどく無惨な気がして胸がつまった。写真に撮って置かなければ駄目だと思い、カメラを取り出し、何枚かシャッターを切った。

202011平嶋彰彦‗ph3-6V7A8420-aph3 母の死。館山市北条の斎場。2018年11月3日。

 忘れがたいことがもう一つある。野辺送りを簡略化することを親戚の人たちから勧められたのである。野辺送りは葬家から菩提寺まで列を組んで行進する。そのために四本幡・天蓋・龍頭など何種類かの葬具を親戚の人たちで準備する。しかし、作れる人はほとんどいなくなっていた。作るにしても、作り方もあやふやだから、やっかいきわまりない。これからは四本幡や天蓋を作るのは止めようというのである。
 親戚に同行してもらい、菩提寺の住職に相談すると、さすがに承知してくれなかった。野辺送りには集落の人たちが見送りに集まってくる。死者の霊は、個人というよりも仲間の1人として、あの世に旅立つと言ってもいい。住職からすれば、従来通りに出来ないとしても、何もかも止めてしまったら、葬送儀礼としての格好がつかない。結局、外の葬具は別にして、四本幡と天蓋だけは、これまで通りに作る、ということで妥協することになった。
 戦争体験のある私の親たちの世代とちがって、戦後生まれの私たちは、都会で働くようになると、そこで所帯を構えるようになった。私もその1人だが、菩提寺の住職も同じで、檀家からのお布施だけでは生活が成り立たないから、東京の蒲田で建築関係の仕事に携わっている。都会で所帯を持ち、孫や子どもがいたりすると、老後になっても郷里に戻るのが難しくなる。自分では出稼ぎのつもりでいても、働きに出た先に根を下ろしてしまい、郷里に人口流出の結果をもたらすことになる。
 母の葬儀はなんとか無事に終えたが、その3ヶ月後、親戚の1軒にも不幸があった。

202011平嶋彰彦‗ph4-6V7A9457-aph4 野辺送り。画面の正面奥に四本幡。館山市小沼。2019年2月21日。

202011平嶋彰彦_ph5-6V7A9451-aph5 野辺送り。画面右が天蓋。館山市小沼。2019年2月21日。

 亡くなったのは念仏講の1人で、私の両親が結婚の仲人を務めた。父の死から12年後になるが、その間に郷里の死者儀礼には大きな変化が生じていた。どんな田舎でもあっても葬送と供養にまつわる昔ながらの風習は段々に廃れ、都会と同じように、家族葬が一般的になりつつある。それは日本人の死生観の歴史的な転換点を意味し、行きつく先には祖霊信仰の終焉が待っているような気がする。

(註) 十三仏は通夜の臨終仏であるばかりでなく、初七日から三十三回忌までの供養の引導仏ともされてきた。具体的には、不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七日)、薬師如来(七七日)、観音菩薩(百ヶ日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閔如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌、忌い切り)というように、それぞれの忌日に明王・菩薩・如来を振り分けて祀り、死者の極楽往生を仰いだ(「葬の俗信・迷信と十三仏巡礼」、五來重、『葬と供養』所収、1992、東方出版)。

ひらしま あきひこ

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


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