平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第9回 2021年02月14日 |
その9 姨捨山のつたかづら
文・写真 平嶋彰彦 芭蕉の『更科紀行』は、1688(元禄元)年に中秋の名月を眺めるため、信濃国更級郡(長野県千曲市)の姨捨山を訪れたときの俳句と散文からなる小品である(註1)。 姨捨山という刺激的な山名が史料に初めて登場するのは、『古今和歌集』の「雑の部」に載る「題しらず読み人しらず」の歌である(註2)。 わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て 『古今集』より約50年後、この姨捨山の歌は『大和物語』でも取りあげられた(註3)。同書は作者不詳の歌物語で、歌の背景には次のような出来事があったと書かれている。 信濃国の更級に、若いときに母を亡くし、姨に育てられた男がいたが、男は妻にそそのかされ、いわれるままに、その姨を山奥に置き去りして帰った。おりしも中秋の名月で、男は月を眺めつつ、思い直して、いったんは捨てた姨を家に連れ戻した、というのである。 ほぼ同じ内容の話は『今昔物語集』にも載っていて、そこでは舞台となった姨捨山は、千曲市南東にそびえる冠着山(「冠山」)のことだとされている(ph1、註4)。 ph1 冠着山。『今昔物語集』以来、中世にはここが姨捨山とされた。2015.5.24 芭蕉が訪れた姨捨山は、『今昔物語集』のいう冠着山ではなく、それよりも4キロあまり北側にある姨捨山放光院長楽寺周辺の山麓であった(ph2、3)。『更科紀行』の本文には、その所在地がどこかについて言及がなにもないが、芭蕉による別稿の「更科姨捨月之弁」には、次のように書かれている(註5)。 山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷(すさま)じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。 「八幡」は現在の千曲市八幡のことで、武水別神社(旧八幡宮)を中心とした地域をさす(ph4)。姨捨山すなわち長楽寺はその南西約2キロにある。武水別神社付近からは「かどかどしき岩」は見えない。しかし、長楽寺境内には姨石と称する巨大な岩がある(註6)。 ph2 姨捨山長楽寺。江戸時代の姨捨山。正面奥の巨大な岩が姨石。2015.5.23 芭蕉は『更科紀行』の翌年、歳旦の句の1つに、こう詠んでいる(註7) 元日ハ田毎の日こそ恋しけれ 「田毎の日」が田毎の月を踏まえているのは、いうまでもない気がする。田毎の月とは、長楽寺門前に広がる四十八枚田と称する棚田の1枚1枚にうつる月をいう。四十八枚田は、阿弥陀の四十八願にちなんで、歌人の西行が名づけたといわれる(註8)。棚田の中央部には、宝永3(1706)年の銘をきざむ田毎観音が祀られている(ph5)。 現在、観光名所になっている姨捨棚田は、この四十八枚田より南側の傾斜地にある(ph6)。芭蕉の来訪から9年後になる1697(元禄10)年、聖高原の大池からの用水堰が建設され、それにともない、姨捨棚田の大規模な開発が進められたのだという(註9)。 それより86年後の1783(天明3)年、菅江真澄がこの地を訪れている。そのときに描いた「姨捨山の月見」をみると、たくさんの人が姨石の上に群がり、千曲川をはさんだ対岸の鏡台山からのぼる中秋の名月を眺めている(註10)。それよりもさらに70年ほど後になるが、歌川広重が『六十余州名所図会』の1枚として「信濃 更科田毎月鏡台山」を描いている。この図絵では、長楽寺の奥に峨々として姨石がそびえたち、門前の四十八枚田の1枚1枚に中秋の名月が描き込まれている(註11)。 ph3 長楽寺の観月堂。左が姨石。周りに多くの文学碑がたつ。2015.5.23 『更科紀行』の本文には、先に述べたように、姨捨山が更科のどこにあるかの言及がない。そればかりでなく、田毎の月の言い伝えとか、その夜の名月の具体的な描写はなに1つ記されていない。芭蕉がひたすら書き綴っているのは、中山道の途中で出会い、更科まで同行することになった「道心の僧」との意外とも不思議とも思われるやりとりである。 記述にしたがえば、中秋の名月のその夜、この僧は苦吟する芭蕉をみて、「旅懐の物憂さ」に落ち込んでいるのではないかと余計な心配をし、自分が若いときに廻った土地のことや阿弥陀如来の尊い功徳のこと、あるいは自分が不思議に思った体験などを話して聞かせ、気をもんでくれた。しかし、かえってそれが「風情のさはり」となり、芭蕉はただの一句もものにすることが出来なかった。 とかくしてとりまぎれ、気づかずにいたのだが、ふと目をやると、宿のかべの破れから木の間がくれに月影が差し込んでいて、耳をすますと、鳴子の音や、鹿笛の音があちらこちらから聞こえてきた、というのである。それに続けて、「まことにかなしき秋の心、爰に尽くせり」とは書いているのだが、だからといって、芭蕉はすぐに句作を再開したわけではない。 どうしたかというと、芭蕉は「いでや、月のあるじに酒振まはん」と口火をきり、宿の者にさかずきを出してもらい、この僧と酒を酌み交しはじめた、というのである。「あるじ」とは「あるじもうけ」のことだそうである(註12)。芭蕉が主人となり、お客として道心の僧を迎え、ご馳走をしたことになる。 酒を酌み交わしながら、あるいはその後で詠んだのが、次の3句である。 あの中に蒔絵書きたし宿の月 桟やいのちをからむつたかづら 桟や先ずおもいいづ馬むかえ 最初の句の「あの中」の「あの」とは、もちろん中秋の名月のことだが、道心の僧と酒を酌み交わしたさかずきには「木曽の桟(かけはし)」の蒔絵が描かれていた。そのさかずきはふつうのものよりひとまわり大きく、図柄も見るからに稚拙で、風情を欠いていた。都の人なら、手にもふれようとしないとも書いている。しかし、考えてみれば、そんな代物を中秋の名月の中に描きたいと思うはずがない。そうではなく、見かけは田舎じみて卑俗な表現であっても、うちに込められた尋常ではない心模様の気高さを発見したのである。 木曽の桟は、古代より中山道屈指の難所にかかる橋として名高かった。端(はし)とは、ものの発端であり、末端である。橋はこちらの岸とあちらの岸をかけわたす(註13)。それを飛躍させて、この世とあの世をかけわたす橋に重ねてみたのである。 次の句では「いのちをからむつたかづら」と詠んでいる。かけわたされるのは、この世からあの世に生まれ変わる人間の生命ということになる。 『古事記』によれば、ヤマトタケルは東国遠征から帰還の途中、伊勢国の能煩野(三重県亀山市から鈴鹿市にわたる地域)で横死した。その葬儀に詠われた挽歌のなかに野老蔓(ところづら)が出てくる(註14)。 なづきの田の稲幹(いながら)に 稲幹に 葡ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら) 野老蔓は山芋の蔓草のことである。蔓草を生命に見立て、これをたぐり寄せる仕草をくりかえし、死者の魂を呼び戻そうとしたらしい。そうした古代の呪術儀礼がこの挽歌に詠み込まれているのではないか、ということである。(註15)。 「木曽の桟のつたかずら」のデザインは、近ごろは見かけなくなった布団を包む風呂敷に描かれた唐草模様や、イギリスの童話「ジャックと豆の木」の豆の木にも通じるように思われる。植物の蔓草が絡み合いながら、どこまでも天空に伸びていく姿に、私たちは生命の不思議さを感じずにいられない、ということではないだろうか。 3句目に「馬むかえ」とある。中古には信濃の望月の駒を朝廷に献上する習わしがあり、旧暦8月15日というから、中秋の名月の日になるが、左馬寮の使者が逢坂の関まで出向いて、その馬を迎えるのが恒例行事になっていたという(註16)。その故事を念頭に置いて詠んだわけだが、望月の駒とは反対に信濃へむかうこの旅で、芭蕉は徒歩ではなく、馬に乗っていた。それを信濃の国境のあたりで出迎えたのが、「道心の僧」ということになる。 世阿弥作の謡曲に『姨捨』がある。中秋の名月を見るため、ある男が京都からはるばる更科まで旅をするのだが、その男を出迎えたのは、ほかならぬ捨てられた姨その人の亡霊という設定になっている(註17)。この物語で生命の象徴として登場する植物は、姨が捨てられた場所に生い茂っていた桂の木であった。桂は中国では月の中にあるという想像上の樹で、転じて月のことだとされるという(註18)。世阿弥は『姨捨』の地謡で、次のように語らせている。 月はかの如来の右の脇侍として、有縁を殊に導き、重き罪を軽んずる、無上の力を得る故に、大勢至とは号すとか。 かの如来とは、いわずとしれた阿弥陀如来のことで、勢至菩薩と観音菩薩を脇侍にしたがえ、一光三尊の善光寺如来として長野の善光寺に祀られている。先にも書いたように、姨捨の四十八枚田は、阿弥陀如来の四十八願にちなんだもので、歌人の西行による命名だとする伝承がある。西行はもちろん作り話に違いない。広重の「信濃 更科田毎月鏡台山」も、現実にはありえない視覚である。四十八枚田の一枚一枚に中秋の名月がうつるのは虚構であるが、阿弥陀如来の尊い功徳を求める切ない願望であったとみられる。 ph4 武水別神社。かつて別当の神宮寺があり、長楽寺はその支院だった。2015.9.1 かつての馬むかえに見立てられたこの僧は、年のころ60歳ばかりで、腰のたわむまで荷物を背負い、息をせわしくさせ、足どりも覚束ないようすであらわれた、と芭蕉は書いている。それを見た越人と権七という芭蕉の従者が気の毒に思い、この僧の荷物を自分たちのものと1つにからませ、つまり一蓮托生の形に結わえ、芭蕉の乗る馬に括りつけ、一緒に旅をすることにしたのである。 芭蕉はただの僧ではなく、わざわざ「道心の僧」と書いている。道心とは、仏道を修める心のこと、または13歳あるいは15歳から仏門に入った僧のことだというが、道心坊となると、物乞いをして歩く乞食僧のことだそうである。(註19)。だとすれば、腰がたわむまで背負った荷物はなにかを詮索するなら、町々や村々を廻って、手に入れたお布施の品々とみて、まず間違いない気がする。 この僧が芭蕉の句作を妨げたことは、すでに述べた。若いときから、旅をしながら各地を廻り、阿弥陀如来の尊さを説くとか、念仏を唱えるとかして、人々の極楽往生を祈願したのであり、芭蕉にたいしても同じように話をして聞かせたのである。 芭蕉は僧侶ではなかったが、身づくろいは僧の形にしていた。芭蕉が、自分は何者であるかを、自ら語る記述が『野ざらし紀行』のなかにある(註20)。 腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。 近世の60歳といえば、とっくに隠居していい年齢である。この「道心の僧」が、そのような高齢になってもなお、拝みに廻った家々から一紙半銭の施物を貰いうける勧進活動を続けたのは、それが唯一の生活手段になっていて、一所不住の旅をやめることは野ざらしになることを意味した、ということかもしれない。 俤や姨ひとりなく月のとも いさよいもまださらしなの郡かな ph5 田毎観音。田毎の月で名高い長楽寺門前の四十八枚田に祀られる。2015.8.1 ところで、こう詠んだ後、芭蕉一行はさらに足を延ばし、長野の善光寺を参詣している。『更科紀行』の目的は姨捨山の中秋の名月を眺めることだった。文脈からすれば、この「道心の僧」も善光寺まで同行したものと考えられる。そうだとすると、芭蕉の一行は、助けたつもりの乞食坊主に引かれて、図らずも、中秋の名月に身をもって阿弥陀如来の尊さを感得し、さらに引かれて善光寺参りをした、ということにならないだろうか。 「牛に引かれて善光寺参り」の諺がある。これは信心のない老婆が、干していた布を角に引っかけて走り去る牛を追いかけ、図らずも善光寺参りをしたとされる説話だが、本来の形は「牛に引かれて」ではなく「御師に引かれて」ということだそうである(註21)。 「道心」といえば、説経節の代表作の1つ『かるかや』が連想される(註22)。善光寺の門前に祀られる親子地蔵の由来をかたる唱導説話である。主人公の刈萱道心は筑前国苅萱の武士で、俗生活に無常を感じ、出家して高野聖となった。その子が石童丸で、父を慕って高野山に上るが、刈萱道心は親子の情愛が信仰の妨げとなると考え、高野山を後にして、信濃国へ向かい、善光寺のかたわらに身をよせ、高野聖から変じて善光寺聖となった。 史実の高野聖は、近世になると、非事吏などと書かれ賎しめられたり、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」と悪口を言われたりしたというが、刈萱道心は高野聖の理想像であると同時に、善光寺聖の理想像でもあった。彼らは、善光寺の縁起と阿弥陀如来の霊験を語りながら、結縁の名号札を持って諸国を放浪したとも、村々に如来堂や太子堂を持って念仏講を主宰したとも、あるいは善光寺参りの御師や先達をつとめたともいわれる(註23)。 では書き漏らしたが、私の郷里の念仏講の経本には、つぎのような御詠歌が載っている。 (一番)日は暮れる雨は降るのの道すがら かかる旅路を頼む笠森 (二番)身はここに心は信濃の善光寺 導き給へ弥陀の浄土 (三番)若きとて末は遙かに思うなよ 無常の風は時を嫌はじ (四番)極楽の御法の船に乗りたくば むねの間の波を沈めよ (五番)今迄は親と頼みしおいずりを 脱ぎて納る瀧本の堂へ (六番)御仏の誓いに深きやみはるる しぎだの里は浄土なるらん この御詠歌は全国各地に伝わる「善光寺和讃」から秀句を選りすぐって構成したものらしく、2番目は最もよく知られた唄句で、死者の身は故郷に埋葬されるけれども、霊魂は善光寺如来のお傍に留まることを説いているのだという(註24)。 1番目の「笠森」は、坂東三十三箇所観音霊場の三十一番笠森寺(千葉県長生郡長南町笠森)。第5番の「瀧本の堂」は、安房三十四箇所観音霊場の納めの札所である滝本堂(鴨川市平塚、真言宗)のこと。最後の「しぎだ」は漢字にすると鴫田。私の郷里である小沼の異称である。 南房総半島の善光寺信仰の中心と目されるのが鴨川市天面の西徳寺(真言宗)で、境内には本堂と並んで、阿弥陀堂があり、一光三尊の善光寺如来を祀っている。 住職から話を聞くと、南房総は善光寺信仰が盛んだったところで、むかしは長野の善光寺をお参りした帰りには、かならず天面の善光寺にお参りしてから、帰村するのが慣例になっていた。天面善光寺と長野善光寺は姉妹の間柄で、両方にお参りしないと片参りといって、天面善光寺の如来さまが機嫌を損ねるのだそうである。 私の郷里の念仏講が解体したことは、連載その7で書いたとおりである。天面善光寺の地元でも、かつて念仏講が1組から9組まであったが、20年ほど前には1つ残らず消滅してしまい、盂蘭盆や施餓鬼供養で念仏を唱える人も少なくなっているという。 ph6 姨捨棚田。この辺りは1697(元禄10)年以降に開かれた。奥は善光寺平。2015.5.23 (註1) 『更科紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫) (註2) 『古今和歌集』(日本古典文学大系、岩波書店) (註3) 『大和物語』156段(日本古典文学大系、岩波書店) (註4) 『今昔物語集』巻30第9(日本古典文学大系、岩波書店) (註5) 『更科紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫)脚注 (註6) 『大日本地名辞書』「東国」、吉田東伍、冨山房)によれば、武水別神社は明治の神仏分離以前は八幡宮と称した。八幡宮には別当をつとめた神宮寺があり、長楽寺はその支院だった。また、吉田東伍は同書で、姨捨山の所在地について、詳細に検討を加え、つぎのように結論している。「姥捨は又姨捨に作り、古書には姑捨にも作る。其故典は古今集の歌、大和物語、無明抄、袖中抄などに載せたれど、田毎の月と相干与せず。且姑捨山は古人之を冠山と明言し、又考証して之を究れば、塩崎の小長谷山にあたれば、いづれにしても八幡方光院にはあらず。磳田秋夕の景色を見て、近古の連歌俳諧師などに携れる人々が、よみ出でたるに外ならず、月を心に喩えて、一念三千の法相を談ずるは由来久し」。文中で本来の姨捨山はここだと吉田東伍が主張する「塩崎の小長谷山」とは、長野市篠ノ井塩崎にある長谷寺の境内地をいう。 (註7) 『更科紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫)脚注および補注 (註8) 阿弥陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた48の誓願。無量寿経に説く(『精選版 日本国語大辞典』) (註9) 千曲市資料 (註10) 『わがこころ』所収(菅江真澄、秋田美術館所蔵) (註11) (歌川広重、嘉永3・1853年、国会図書館デジタルコレクション。 (註12) 『更科紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫)脚注 (註13) 『字訓』(白川静、平凡社) (註14) 『古事記』「中巻」(日本古典文学大系、岩波書店) (註15) 「国学の伝統」(『折口信夫伝 その思想と学問』所収、岡野弘彦、ちくま学芸文庫) (註16) 『更科紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫)脚注 (註17) 『姥捨』(『謡曲全集巻二』所収、中央公論社) (註18) 『広辞苑』(岩波書店) (註19) 『精選版日本国語大辞典』(小学館) (註20) 『野ざらし紀行』(『芭蕉紀行文集』収拾、ワイド版岩波文庫) (註21) 『善光寺まいり』(五来重、平凡社)。「御師」は参詣者の案内や宿を業とした下級の神職または社僧。(『広辞苑』) (註22) 『かるかや』(『説教集』所収、新潮日本古典集成)。「説経節」は、仏教の説経から発し、近世初頭から盛行した民衆芸能(『広辞苑』) (註23) 『増補=高野聖』(五來重、角川選書)および『善光寺まいり』(五来重、平凡社) (註24) 『善光寺まいり』(五来重、平凡社) (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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