ときの忘れもの ギャラリー 版画
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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第11回 2021年04月19日
その11 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 

文・写真 平嶋彰彦


(以下、後半)
 先に述べたように、1682(天和2)年12月28日の大火は「駒込」より出火したあと、「本郷森川宿東側」から「松平加賀守上屋敷」(現在の東京大学)に燃え広がった、と戸田茂睡は書いている。
 ところで本郷森川宿とは、なんなのだろうか。宿といっても、旅行者を泊める宿場ではなさそうである。それもそうだが、現在のどのあたりをいうのだろうか。
 手持ちの資料をしらべると、もともとは1598(慶長3)年に没した森川金右衛門氏俊に与えられた与力・同心の大繩屋敷(集団知行地)だった。つまり、ここでいう宿というのは、居住地の意味である。与力は氏俊の親族ばかりで、全員が森川姓を名乗っていたことから、また中山道に面していたこともあって、森川宿の俗称がつけられた。
 ところが延宝年間(1673〜81)になって、その大半が陸奥福島藩主本多家(のち岡崎藩主)の下屋敷として召し上げられ、それ以外が先手鉄砲組の組屋敷として残された。というのである(註14)。

ph11-6V7A0860-cph11 本郷通り。かつての「伝中」。マンションが林立する。豊島区駒込1丁目。2020.3.25

ph12-6V7A5353-cph12 本郷通り。ふぐ料理店の生け簀。駒込2-5。2020.11.18

ph13-6V7A5360-cph13 本郷通り。妙義坂子育て地蔵。セーラー服の少女の供養碑。駒込2-6。2020.11.18

 『延宝江戸方角安見図』は前回の連載でも取り上げた。刊行されたのは1680(延宝8)年で、天和の大火の2年前ということだから、格好の同時代史料といえる。
 その三十五「本郷」をみると、中山道(本郷通り)の東側、本郷追分から南側(現在の東大教育学部のあたり)にかけて、細長い短冊形の屋敷地が確認される。そこには「中山勘解由クミ」とあり、そのすぐ横に「森川しゆく」とも添書している。つまり、ここが茂睡のいう「本郷森川宿東側」なのである(註15)。
 中山勘解由の役宅は、『延宝江戸方角安見図』「十一 駿河台」をみると、神田橋のたもとに「中山カゲユ」とあるのが、それかと思われる。しかし、本郷森川宿にある配下の組屋敷が類焼した天和の大火は、放火によるとみられた。中山勘解由はその時点では先手組頭であるが、年が改まった正月になると、火付改の役目を付加された。そうなると二重の意味から、面子にかけても放火犯を野放しにしておくわけにいかなかったと考えられる。
 「本郷森川宿東側」にたいして、本郷通りをへだてた西側に「本多中務少輔」がある。これが陸奥福島藩主本多家の下屋敷で、延宝以前はここも森川宿だったところである。その屋敷地南側に道があり、それを西側にむかうと「菊坂」(現在の胸突坂)にいたる。その手前(現在の鳳明館のある辺り)にも、「中山カゲユクミ」の屋敷地が、隣接する形で2ヶ所あるのが確認される。こちらが本郷森川宿西側ということになる。
 戸田茂睡は、1680(延宝8)年前後まで、本多家に仕えたという。また、禄三百石を食み、本郷森川宿の邸内に住んだともいわれる(註16)。もしそうだとすれば、『延宝江戸方角安見図』で「本多中務少輔」と記された大名屋敷こそ、茂睡が勤仕したという陸奥福島藩主本多家の下屋敷にほかならない。「中務少輔」とは、後に中務大輔となる本多忠国のことだろう。忠国は1679(延宝7)年、大和郡山藩から陸奥福島藩に移封になっているから、茂睡の主君であったのは、先代の本多政長か先々代の正勝ではなかったかと思われる(註17)。
 戸田茂睡は、晩年には浅草の金龍山(浅草寺)の近くに隠棲したが、それ以前には本郷の梨木坂(現在の本郷5、7丁目付近)に住んだとされる(註18)。そこは明暦の大火(1657・明暦3年)の火元になった本妙寺のすぐ近くになる。天和の大火のとき、茂睡がどこに住んでいたかはわからないが、以上のことを考えると、『紫の一本』を書くような人物だから、本郷と駒込の土地柄は知りつくしていたはずである。したがって『御当代記』に記されたこの大火の一部始終は、信頼できる第1級の史料であると考えられる。

ph14-6V7A5374-cph14 妙義神社。左奥はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団。駒込3-16。2020.11.18

ph15-6V7A1785-cph15 本郷通り。銭湯亀の湯。2018年に閉店した。北区西ヶ原1-56。2013.03.22

ph16-6V7A5384-cph16 本郷通り。レストラン・キャラ。新型コロナ渦に閉店。西ヶ原1-54。2020.11.18

 物語や芝居では、お七は八百屋の娘とされている。市中引き回しのうえ、鈴ヶ森の刑場で火刑に処されるのだが、そのときの衣装は、例えば『天和笑委集』によると、
 一尺五寸の大ふり袖に…よこはゞひろき紫帯…たけなる黒かみ島田とかやにゆひ…銀ふくりんに蒔絵書たるたいまいの櫛にて前髪を押へ…、
 という艶やかなものであった。また浮世絵に描かれた肖像をみると、ほぼ例外なく、豪華絢爛な振袖姿に着飾っている。綱吉の治世で最も厳しく禁止した対象の1つが奢侈贅沢だった。八百屋(青物問屋)とはその当時の花形商売で、お七の振袖姿とはそれを物語る典型的な風俗ということでなかったかと思われる。
 戸田茂睡は『御当代記』で、先にも述べたように、「駒込のお七火付之事」と書いている。確かなのはお七が駒込の住人であったということだけで、彼女の実家が八百屋であったことをふくめ、火付にいたる事件の経緯については、なに一つ書いていない。
 それにたいして物語や芝居では、「駒込のお七」ではなく、一致して「八百屋お七」なのである。ところが、八百屋のあった場所がどこかとなると、本郷森川宿・本郷辺り・本郷・駒込追分願行寺門前町・駒込追分片町とつかみどころがない(註19)。そんなことだから、お七の家がはたして八百屋だったかどうかさえも、あやしく思えてくる。
 本郷森川宿としているのは『天和笑委集』である。これまでくどくどと述べてきたように、ここは先手組の屋敷地で、その周りは大名屋敷ばかりである。そんな環境条件が八百屋商売に適切であるとはとうてい考えられない。まして、火事のあとは火付改が加役されることになった。よほど思慮に欠けた者でなければ、放火など思いもよらないはずである。
 『天和笑委集』は1682(天和2)年11月から翌年にかけて、江戸で頻発した大火の見聞記の体裁になっていて、最後の第11〜13巻で八百屋お七の事件を取り上げている。作者不詳とされているが、貞享年間(1684〜88)の刊行ということだから、まだまだ事件のほとぼりがさめない時期の文学作品である。柳亭種彦は、「此双紙もうたがふらくは茂睡の作か」と述べているが(註20)、もしそうであったとすれば、あるいはそうでなかったとしても、こうした類の見え透いた事実誤認はこの書の各所に散見される。この事実誤認は、例えていうなら、失火などではなく、ある目論見をもった火付ではなかったかと思われてならない。
 5代将軍綱吉治世における弾圧の矛先は武家身分にも向けられた。些細な過ちを咎められ、理不尽に取り潰される家があとを絶たなかった。お七と恋仲になった寺小姓は、作品により名前はちがうが、いずれも没落した武家の子弟とみられる。
 『天和笑委集』の生田庄之助は、お七が火刑に処されたあと、その菩提をとむらうため、高野山をおとずれて出家している。その後は今(貞享年間)にいたるまで山内で修業をつづけている、つまり高野聖になった、ということである。この物語構造は、男女の関係は逆になるが、『曽我物語』の曽我五郎と大磯の虎を連想させる。
 『天和笑委集』が戸田茂睡の作と憶測されるもう1つの理由がある。茂睡は大火のあった1682(天和2)年、長男覚を亡くして悲嘆やる方なく、翌年に高野山に上り、さらに住吉に詣でた。その帰りがけ、大磯の鴫立沢にたちより、そこに歌碑を建てたというからである(註21)。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」は西行の歌として知られる。西行は高野聖の1人だった(註22)。大磯は古代から東海道の宿駅である。大磯の虎は宿場の遊女で曽我五郎の恋人であったが、事件後になって兄弟の供養のため、善光寺をはじめ諸山を行脚したといわれる。
 中山勘解由が辣腕をふるったのは男伊達・かぶき者ともいわれた町奴の一掃だった。1686(貞享3)年には200余人を召捕り、その功績で大目付に昇進している(註23)。『好色五人女』と『八百屋お七恋緋桜』に登場する吉三郎は、寺小姓で若衆というから、男色だったことになる。(註24)。『近世江都著聞集』と『古今名婦伝』に出てくる吉三郎は、博奕好きで大酒飲みのあぶれ者とも遊棍(わるもの)ともされていて、火付をすれば恋人に会えると偽ってお七を唆し、火事場泥棒を企んだことになっている。しかし、その一方で、町奴の始祖を幡随院長兵衛とし、「弱きを扶け強きを挫く」の心意気で、彼らが任侠のためなら命を惜しまなかったとする巷間流布された伝承を忘れるわけにいかない。
 江戸の都市空間が拡大するにともない、寺院は郊外へ強制移転させられた。寺が移っても、檀家はついてくるわけではない。これは寺にとって、降ってわいた災難にちがいなく、たいへんな迷惑だったと思われる。お七が避難した檀那寺とされる円乗寺と吉祥寺は、明暦3(1657)年の大火のあと、前者は本郷から、後者は神田台(元吉祥寺)から駒込に移転してきた(註25)。もう1つの避難先とされる正仙院は『延宝江戸方角安見図』にある正泉院(現在の向丘2丁目)のことだと思われるが、いつのころか廃寺になったらしく、調べても手がかりがない。
 駒込土物店が開設したのは1660(万治3)年である。さきに述べたように、この青物市場が設けられたのは天栄寺と高林寺の門前であるが、この2つの寺院も、やはり明暦の大火の直後、前者は本郷から、後者はお茶の水から移ってきている(註26)。

ph17-6V7A8552-cph17 本郷通り。河村魚店(右)と泉屋タオル店(左)。西ヶ原2-14。2012.12.08

ph18-6V7A8606-cph18 旧古河庭園。洋館はジョサイア・コンドルの設計。西ヶ原1-27。2012.12.10

ph19-6V7A8631-bph19 無量寺。「足止め不動」で知られる。江戸六阿弥陀詣の3番目。西ヶ原1-34。2012.12.10

ph20-6V7A8533-cph20 西ヶ原一里塚。西ヶ原2-4。地元住民と渋沢栄一の運動により保存された。2012.12.10

 それより20年あまりして発生したのが、1682(天和2)年の大火と翌年春の八百屋お七の放火事件ということになる。『御当代記』に「駒込のお七」とあるから、お七が駒込の住人であったことはまちがいなさそうである。考えてみれば、彼女が八百屋の娘であったかどうかも、彼女の放火が事実であったかどうかも、信頼できる根拠はなにもない気がする。しかし、物語文芸という幻想の世界のなかでは、お七は「八百屋お七」の愛称で、ヒロインとしてもてはやされることになった。その背景には、駒込土物店が興隆するにともない、八百屋(青物問屋)が駒込という地域を象徴する商売になった歴史が隠れているとみられる。
庚申塔の猿ではないが、「見ざる聞かざる言わざる」を決めこむしか、有効な安全保障の手段がなかった時代ことである。だからといって、為政者の理不尽な非道をだれもかれもが指をくわえて我慢していたわけではなかった。本当のことがいえなければ、嘘をついたのである。双紙や芝居はそのための格好の隠れ蓑になったということだろう。
 八百屋お七の物語の主要な構成要素となっているのは、これまでみてきたように、町人娘の贅沢な振袖、寺小姓に身をやつした没落武士の子弟、博奕好みの遊侠の町奴、移転を強いられた寺院などである。よくよくみれば、そうじて5代将軍綱吉の治世に虐げられた犠牲者ということになる。八百屋お七の物語はどれもこれも荒唐無稽な作り話といってしまえば、それまでのことだが、抑圧された犠牲者への眼差しという点にかぎっていうなら、『御当代記』のそれと少しも変わるところがないように思われる。

(註14) 『日本歴史地名体系13 東京の地名』(平凡社)。『御府内備考』「巻三十二、本郷之一」(雄山閣)
(註15) 『延宝江戸方角安見図』「三十五 本郷」。国会図書館デジタルコレクションで公開されている。コマ番号43をクリックすると「三十五 本郷」の画面になる。
(註16) 『御当代記』「解説」(塚本学、東洋文庫)、『戸田茂睡全集』「戸田茂睡伝」(飯島保作、国書刊行会)
(註17) 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)
(註18) 梨木坂案内板(文京区教育委員会)
(註19) 本郷森川宿(『天和笑委集』)・本郷辺り(『好色五人女』)・本郷(『八百屋お七恋緋桜』)・駒込追分願行寺門前町(『近世江都著聞集』)・駒込追分片町(『古今名婦伝』)
(註20) 『天和笑委集』跋文
(註21) 『戸田茂睡全集』「戸田茂睡伝」(飯島保作、国書刊行会)
(註22) 『増補高野聖』(五来重、角川選書)
(註23) 『世界大百科事典 第2版』(平凡社)
(註24) 『精選 日本語大辞典』(小学館)
(註25) 『小石川区史』。『御府内備考』「巻三十八、駒込三」
(註26) 『御府内備考』「巻三十八、駒込三」

ひらしま あきひこ

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。今回は特別に前編・後編と2部に分けて駒込をご紹介します。前編は4月14日に掲載しました。
3月14日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)
3月18日ブログ:私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)
4月14日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編)
4月19日ブログ:私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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