平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第14回 2021年07月14日 |
その14 ワクチン接種の一日 文・写真 平嶋彰彦 先月の22日、新型コロナウィルスの第1回目のワクチン接種を受けた。 場所は自衛隊の大規模接種センターになっている大手町合同庁舎。12時の予約だったが、40分前に会場についた。早すぎたかなと思ったが、待たされることもなく、てきぱきと案内してくれ、あれよあれよという間に接種を終えただけでなく、その場で第2回目の予約もすますことができた。接種のあと、15分ほど経過をみていたが、どうやらワクチンの副反応はなさそうだった。 ph1 ワクチン接種を受けた大手町合同庁舎。千代田区大手町1-3。2021.06.22 ph2 首都高神田橋ICと日本橋川。左奥は大手町合同庁舎。2021.06.22 私の住んでいるのは習志野市で、ワクチン接種の予約受付は5月17日からだったが、こちらの不慣れや不手際もあり、うまくとることができなかった。予約は妻がスマートフォンを使ってとろうとしたのだが、繋がったときには、いつも予約はいっぱいになっている。一昔か二昔前に、ブルース・スプリングスティーンやローリングストーンズといったミュージシャンの公演チケットを電話予約して愕然としたことがある。発売日当日、受付開始と同時に予約を入れるのだが、よさそうな席はたいてい売り切れてしまっているのである。ワクチン接種は音楽コンサートとは違う。いい席も悪い席もない。希望する人には漏れなく接種するのが建前である。不慣れや不手際は行政の側でも同じかもしれない。そのうちになんとかなるだろうと、のんびりかまえていた。 ところが、街歩きの仲間たちから、ワクチン接種の予約がとれたとかとれないとか、メールで報告や問合せが入ってくるようになった。街歩きの仲間は9人いて、1人を除けば、すべて60歳代後半から70歳代の高齢者である。しかも半数はガンなどの基礎疾患を持っているから、ワクチン接種は切実な関心事なのである。私の場合は高血圧と糖尿病で、一昨年の暮れには肺炎に掛かっている。感染すると重症化し、命を落とす可能性が高い。 それに加えて、従来のものより感染力の強いアルファ型とかデルタ型とか称される変異ウィルスが発見されているのが気になった。それがいつの間にか国内に持ち込まれ、急速に感染が拡大しているということである。3密を避けるとか、マスクをする、うがいをする、手を洗うといっても、どこまですれば安全で安心なのかとなると、確かな指標と根拠が示されているわけではない。 デルタ型の変異ウィルスについては、感染力が2倍近いといわれている。通勤電車やスーパーマーケットはうーんと思うほど混雑していても、アルコールを提供する飲食店と違って、厳しい営業規制を受けていない。ウィルスの方は日進月歩で進化し攻撃力を強めているのに、人間の方はこれまでのような感染対策で大丈夫なのだろうか、私のような医学的素人には判断がつかない。分からないから自ずと不安にもなる。自分が感染するのも嫌だが、人に感染させるのはもっと嫌である。そんなことから、ワクチン接種は早めに受ける努力をした方がいいと思うようになった。 それから20日ほどして、習志野市のホームページを開くと高齢者のワクチン接種方法を抜本的に変更し、6月7日までに予約をすませていない人には、市役所が接種日時・場所を指定し、6月中旬から年齢別に順次、郵便で通知することになった、というのである。私と妻の場合は7月7日に発送される予定になっていて、高齢者の接種は、9月中旬までにすべて完了させる計画だというのである(註1)。 6月14日、同居している息子が勤め先の会社から妻にメールを入れてきた。たまたま新型コロナについて調べていたら、大型接種会場の大手町合同庁舎は予約が空いている。ここは習志野からの交通の便がいいし、実施しているのは自衛隊だから仕事はきちんとしている。習志野市からの通知を待つことはやめて、こちらに予約を入れた方がいいと思う。ついでに、二人でご飯を食べてくるというのもいいかもしれない、というのである。 ふだん息子は用事があってこちらから連絡しても返事もよこさない。滅多にないことだから、なにか思うところがあったにちがいない。考えてみれば尤も至極で、いわれる通りに予約することにしたのだが、私と妻の都合が折りあわず、接種日は一緒にならなかった。 そんな次第で、大手町合同庁舎でワクチン接種をすることになった。その帰りがけのことである。会場の出入口で何人もの人たちがスマートフォンのカメラで写真を撮っていた。私も彼ら彼女たちに倣って、バックから一眼レフのカメラを取りだした(ph1)。そういえば、会場内のあちこちで撮影と録音を禁止する立札を見かけた。 私は前歴が報道カメラマンだったせいで、駄目だといわれると、隠れて撮ろうとする悪癖がいまでも抜けきらない。立札はもちろん報道メディアに向けたものではない。接種に訪れた人たちにワクチン接種の妨げになる行為は遠慮して欲しいということだろう。見方を変えれば、いまや誰もが何かあれば写真やビデオに記録する時代になったのである。 こうした現象はスマートフォンの普及が大きく影響している。かつてのように専門的な撮影技術は重要視されなくなった。写真は目の前の事物や出来事を正確に写しとると同時に、自分がその時その場にいた、という事実の証明にもなりうる。日記をつけるのと同じように、誰もが写真を撮るようになったといってもいい。でも言及したが、ドナルド・キーンは『百代の過客 日記にみる日本人』のなかで「日記をつけるのは、歴史家にとってなんの重要性もない日々を、忘却の淵から救い上げることである」と述べている。 私が2009年まで勤めていた毎日新聞社は合同庁舎から目と鼻の先にある。知り合いの後輩もいるから、立ち寄ってみるつもりでいたが、時計を見るとまだ12時をまわったばかりである。夕刊の校了までは1時間以上もある。それまでどこかで時間つぶしをすればいいのだが、それもなんとなくうっとうしいので、街歩きをして帰ることにした。 ph3 テラススクエア。神田錦町3-24。2021.06.22 ph4 屋上に植えられたシュロの木。神田神保町1-29。2021.06.22 合同庁舎があるのは日本橋川に架かる神田橋の皇居側である(ph2)。で八百屋お七に言及しているが、事件当時に火付加役だった中山勘解由の邸宅は神田橋のすぐ外側にあった(註2)。また神田橋の近く(神田錦町2丁目)には、お七の事件から5年後になるが、それまで湯島にあった護持院(知足院)が移転してきた。多くの寺院が江戸市中の内から外へと移転させられたのと逆方向になる。護持院は将軍綱吉とその生母桂昌院が数十度も参詣し、その庇護のもとで隆盛を極めたとされる(註3)。連載その11を書いた後になってから知ったのだが、桂昌院の出自は京都堀川通西藪屋町の八百屋仁右衛門の次女ということである(註4)。それが事実だとすれば、将軍綱吉の生母はお七と同じ町人身分で、実家の生業も同じ八百屋稼業だったことになる。 神田橋から雉子橋までの日本橋川沿いの一帯は、『江戸切絵図』をみると、火除地になっていて、護持院原と呼ばれた。護持院原の地名由来になった護持院は1717(享保2)年に焼失するが、幕府は再建を許さず、音羽の護国寺に合併された、ということである(註5)。 神田警察通りに出て、西側を眺めると、千代田通りとの交差点の先、護持院原のすぐ北側とみられる箇所に、戦前の築造と思われる古めかしいビルが見えた。近づいてみると取り壊されると聞いていた博報堂ビルに紛れもないのだが、どこかようすがおかしい。よくみると西側の3分の1がなくなっている。建築デザイン的に特徴のある東側の塔屋と円柱の並ぶ正面中央を残すというよりも、おそらく復元する形で、テラススクエアと呼ばれる高層の複合ビルに再開発したものとみられる。 東側は広場に整備されていて、ビルの下では若いサラリーマンの男女が1列に腰かけて、昼食の弁当を食べていた。対面の食事に比べて新型コロナの感染リスクも少ないし、目の前は木立の林になっているから、雨さえ降らなければ爽快な気分になれる。私の会社勤めをしていたころにはあまり見かけなかった風景である。コロナ渦の新しい世代が見つけた新しい生活スタイルなのかもしれない。 ph5 神田すずらん通り。看板建築の飲食店。神田神保町1-5。2021.06.22 ph6 タンゴ喫茶のミロンガ 神田神保町1-3。2021.06.22 ph7 仕舞屋風の飲食店。神田神保町1-18。2021.06.22 ph8 映画などのポスター。中央は片岡千恵蔵の机龍之介。神田神保町1。2021.06.22 テラススクエア西端を右折すると神田神保町の書店街に通じる裏通りがある。書店街は竹橋の毎日新聞社から歩いて10分もかからない距離である。仕事が忙しくないときは、職場の同僚たちとこのあたりまで出かけて、昼食をとった。そのあと、本屋めぐりをするか、喫茶店でお茶を飲むとかするのである。 神保町は昨年の3月20日に訪れることがあった。街歩きの仲間の1人鈴木淑子さんが西村陽一郎の教えている美学校の写真工房(神田神保町2丁目)に通っていて、共同作品展の案内をもらったのである。 この日は3連休の初日にあたっていた。都営新宿線の岩本町で下車し、写真を撮りながら神保町の美学校まで歩いたのだが、意外なことに、休日は閑散としているはずの書店街がたくさんの人で混み合っていた。靖国通りとすずらん通りの間にひっそりした路地があるのだが、そこにはミロンガ・ラドリオ・さぼうるなど知る人ぞ知るという風情の喫茶店が点在する。神保町界隈で一番なつかしいのは、この路地の佇まいである。覗いてみると、どこの喫茶店も外で空席を待つ人がならんでいた。路地裏のうらぶれたような喫茶店が、いつの間にか脇役から主役に抜擢され、観光名所として脚光を浴びているのである。 それより1週間後の3月27日、仲間たちと大森の街歩きをする予定だった。月に1度の恒例行事で、これが100回目だった。ところが3月24日になって、東京都の新型コロナウィルスの感染者数が急増して40人に達したというニュースが流れた。その日の夜、幹事の福田和久君から連絡があり、感染が鎮静化するまで、街歩きは延期しようということになった。東京都の小池百合子知事から、新型コロナの感染拡大を防ぐため、週末の外出を自粛する要請が出されたのはその翌日である。 その後、街歩きの会は6月にいったん再開するが、新型コロナウィルスの第2波のためすぐに中断。10月に改めて再開するが、を開催中の11月に駒込を歩いたのを最後に、中断したままになっている。 ワクチン接種をしたこの日は、神田神保町では写真を撮っただけで、古本屋に立ち寄ることも、昼食をとることもしなかった(ph4〜ph6)。うっかり本を買うことになれば、バックがさらに重くなるし、たった1人で食事をするというのも、なんとなく物足りない気がしたのである。書店街を歩いたあとは、どちらかといえば馴染みのうすい白山通り東側の街並みをぶらついてみた(ph7、ph8)。このあたりから家に帰るにはJR水道橋駅が便利なのだが、駅の手前で気が変わり、猿楽町から女坂を上り駿河台に出た。アテネ・フランセや文化学院のあるとちの木通りを歩いて、JR御茶ノ水駅に着いたのは午後2時半ごろだった(ph9)。 ph9 とちの木通り。アテネ・フランセ。神田駿河台2-11。2021.06.22 ph10 JR御茶ノ水駅からみた聖橋。神田駿河台4-5。2021.06.22 駅のすぐ西側にお茶の水橋がある。橋の上に立つと、険しい断崖の下を神田川が流れている。下流方向を見ると、右手がJR御茶ノ水駅で、正面に聖橋が架かる。いまは残念なことに、御茶ノ水駅を改修するため、川の中央まで工事用桟橋が張り出しているが、近世と近代が混淆するここからの眺めは、私にとって東京の水辺を代表する名所の一つである。 神田川は太田道灌が江戸城を築いたころは、平川と呼ばれていて、ワクチン接種会場となった大手町合同庁舎(大手町1丁目)の付近に河口があり、干潟の海(日比谷入江)に注いでいた。1620(元和6)年、徳川幕府は大規模な工事を計画し、神田山(駿河台)を切り崩して水路をつくり、それまでの平川の流路を変えて、柳橋から隅田川に注ぐようにした。さらに1660(万治3)年、和泉橋から飯田橋までの拡幅工事を行い、舟が通えるように整備した、ということである(註6)。 総武線(中央線)の御茶ノ水駅ホームから聖橋が仰ぎ見られる。この鉄筋コンクリートのアーチ橋は、1927(昭和2)年にできた。関東大震災後の復興橋梁の1つで、橋名は湯島聖堂とニコライ堂を結ぶのが由来だという。設計は山田守と成瀬勝武。外壁に開口部を設けているが、放物線形のならぶモダンでシンプルなデザインがなんともいえない(註7)。 電車を待ちながら、カメラをバックに仕舞おうとしていると、聖橋の上を日傘の女性が歩いている。しかもカップルで、それも私とたいして変わらない年の頃らしい。なんとなく羨ましく思って、写真を1枚撮ったところへ、千葉行きの電車がホームに入ってきた(ph10)。 (註1) 習志野市ホームページ(2021年6月18日更新) (註2) (国会図書館デジタルコレクション。コマ番19をクリック) (註3) 『世界大百科事典第2版』(平凡社)。『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館) (註4) 『玉輿記』(『柳営婦女伝叢』収拾、国書刊行会編、国書刊行会、1916) (註5) 『江戸切絵図』。。 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社)。『日本大百科全書(ニッポニカ)』。『世界大百科事典第2版』 (註6) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』。『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(鈴木理生編著、柏書房) (註7) 「聖橋」(WEBサイト『関東の土木遺産』「聖橋」)。「山田守について」(『株式会社山田守建築事務所』HP) (ひらしま あきひこ) ・ は毎月14日に更新します。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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