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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第18回 2022年02月14日
その18 根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠(後編)

文・写真 平嶋彰彦


 根津権現の周りでは、明治維新を迎える段階で、およそ30軒の遊女屋が営業を続けていたとのことだが、東京府のお墨付きを得たことで、新吉原と同様の営業が大っぴらに出来るようになった。しかし、順風満帆とみえた色町の繫盛は長くは続かなかった。『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、その後の顛末が次のように書かれている(註11)。
 同12年には妓楼の数は90軒に増加し、遊女の数も128人から574人に急増した。(中略)しかし、同年、東京大学の開校の件が伝えられ、にわかに遊郭移転問題が浮上した。その結果、同21年、花街は深川区洲崎弁天町(現江東区)に移転した。
 同12年は明治12年で、1879年のこと。「東京大学の開校」が具体的に何を指すのか分かりにくいが、この「東京大学」というのは、先に述べた『青年』の冒頭に出てくる高等学校(東京第一高等学校)のことではないかと思われる。現在は駒場にある東京大学教養学部がその後身である。
 東京第一高等学校は東京第一高等中学校の改称で、1889(明治22)年、この高等中学校が向ヶ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)に移転してくることになった。
 ここは明治維新までは水戸藩邸と小笠原信濃守の下屋敷があったところだが、台地を下りた目と鼻の先に根津遊郭という江戸時代からの悪所があった。それが問題視された。その結果、1888年に根津遊郭は洲崎弁天町(江東区東陽1丁目)に移転することを余儀なくされたのである(註12)。
 『青年』の純一は、本郷追分から高等学校の塀に沿って歩いたことになっているが、高等中学校が高等学校に改称されるのは1894年である(註13)。東京第一高等学校の塀のつきたところに、根津権現の表坂、すなわち根津新坂があり、純一はその坂の上から「人家の群れ」を俯瞰している。坂を下りた左手に根津神社の大鳥居があった。それより先が根津八重垣町(根津門前町)で、そこにかつて色街があった。
 八重垣町では、遊郭営業の公許を得ると、新吉原(台東区千束4丁目)にならって、道の両側(現在の不忍通り)に200本あまりの桜を植込み、ぼんぼりを灯して、遊客を誘ったという(註14)。根津権現は、明治時代になると、ことの是非はともかく、神仏分離の廃仏毀釈と、門前の遊郭移転という二つの災厄に見舞われた。『青年』の主人公純一が根津を訪れたのは、根津遊郭が洲崎弁天町に移転して22年後ということになる。

ph7-6V7A7941-cph7 根津1丁目交差点。根津権現の惣門が建っていた。2021.04.15

ph8-6V7A9922-cph8 異人坂。弥生2-20。2013.4.19

ph9-6V7A7972-cph9 お化け階段。弥生2-18。2021.04.15

 三遊亭円朝の『牡丹燈籠』に根津の清水谷がでてくる。
 『牡丹燈籠』の初出は、1884(明治17)年、若林玵蔵・境登造による速記本である。作品自体は文久年間(1861〜1863)の成立とされる(註15)。
 根津の清水谷に萩原新三郎という浪人が住んでいた。生まれつきの美男で、年は21歳になるが、まだ妻を娶っていない。田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていたという。そんな新三郎の根津清水谷の住まいに、谷中新幡随院の墓地から抜け出した旗本の娘お露と下女お米の亡霊が、夜な夜な、牡丹燈籠を下げてやってくる。
 上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え、山に当たる秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロンカランコロン、(中略)駒下駄の音が生垣の元でぴったり止みました。(中略)いつもの通り牡丹の花の燈籠を下げて、
 先にも書いたように、忍が丘は上野の別称。向丘は忍が丘の向かいにある丘。池は不忍池。夜の八つ時(午前2時)を知らせるのは寛永寺の時の鐘。
 それでは、根津の清水谷とは根津のどのあたりのことをいうのだろうか。
 手元の資料やインターネットで調べてみたが、なぜか、根津清水谷という地名は探しだせない。しかし、ふだん街歩きの資料に使っている『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、明治時代の旧地名として、根津清水町(現在の根津1丁目)があり、西側に隣接して、向ケ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)があると書かれている。台地の下が根津清水町で、台地の上が向ケ丘弥生町である。二つの町の間に断崖または急峻な傾斜地があり、それが町域の境界になっている(註16)。
 根津の清水谷では「向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」と『牡丹燈籠』は書いている。現在はマンションや学校などが建ちならぶ住宅地になっているが、かつて向丘の崖下には、樹木や下草の繁った間のそこかしこからから清水が湧き、それが小さな流れを造っていたのではないだろうか。根津の清水谷というのは、特定の一箇所というよりも、向丘の崖下一帯の総称だったかもしれない。さらに憶測を重ねれば、この小さな流れは藍染川(谷戸川)に合流し、上野不忍池に注いでいたのである。
 『江戸切絵図』をみると、「水戸殿」(水戸藩邸)の東側に「小役人」と記した武家地がある。ここが明治時代の根津清水町であるが、江戸時代には清水横町と呼ばれていたという。『牡丹燈籠』の萩原新三郎は浪人といっても、田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていた。であるとすれば、この清水横町の住人であったと考えても、おかしくない気がする。
 ところで、見落とせないと思うのは、この清水横町は北側で根津権現と隣り合っているということである。向ケ丘の崖下に形成された清水谷は、清水横町の町域に止まらず、根津権現の境内にまで連続している。さらにいうなら、この独特な地形の範囲は、異人坂の辺りからお化け階段をへて根津神社にいたる現在の根津1丁目西側の境界線にほぼ一致する。

ph10-6V7A8033-cph10 根津教会。根津1-19-6。2021.04.15

ph11-6V7A8125-cph11 バラとサーブボードのある家。根津1-18。2021.04.15

ph12-6V7A8009-cph12 根津神社表参道の武田表具店。根津1-14。2021.04.15

 森鴎外が「溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある」と『青年』に書いたその小高い丘の上に、『江戸切絵図』は清水観音の御堂を描いている。
 『江戸名所図会』にも、神仏分離で失われたこの清水観音が取り上げられている。観音堂は京都清水寺と同じ懸崖造りの伽藍様式に描かれていて、本文には次のような解説がつけられている。(註17)。
 観音堂 (本社の左、岡のうへにあり。洛陽清水寺の模(うつ)しにして、本尊千手観音の像は慈覚大師の作といへり)。
 だとすれば、京都清水寺の崖下に音羽の滝があったように、根津権現の観音堂の崖下にも音羽の滝があったのではないだろうか。三遊亭円朝が『牡丹燈籠』を構想した幕末のころには、そこでも、耳をすませば、「清水の流れる音がそよそよと」聞えていたように思われてならない。

【註】
(註11) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』
(註12) 『東京大学』HP「東京大学の歴史」。『日本歴史地名大系13 東京都の地名』。『精選版 日本国語大辞典』
(註13) 『精選版 日本国語大辞典』
(註14) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』
(註15) 『牡丹燈籠』(三遊亭円朝、奥野新太郎解説、岩波文庫、2002)。
(註16) 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』
(註17) 『新訂 江戸名所図会5』「巻之五」(市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫、2012)
ひらしま あきひこ

・おまけ
ph1-6V7A2657-cph2-6V7A2689-c
ph3-6V7A2575-b<先日の日曜日、朝起きると、薄っすらと雪が積もっていました。実家のあたりでは滅多に雪は降りません。陽が差すと、すぐに溶けてしまったのですが、畑ではソラマメやサヤエンドウが花を咲かせ始めています。写真を撮ったので、添付ファイルでお送りします。>(2022.2.9)
平嶋先生から届いた写真です。
画像はクリックで拡大します。

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。今回は前編・後編と2部に分けてご紹介しました。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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