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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第19回 2022年03月14日
うのも、明治時代に団子坂といえば、菊人形の見世物が有名だったからである。これを主宰したのは、もちろん、植木屋である。
 この催しが執り行われたのは、神嘗祭と天長節を挟んだ10月初めから11月半ばまでの1か月余りだという(註7)。主人公の純一が団子坂を訪れたのは「十月二十何日」となっている。菊人形展の真っ最中のはずだが、それについては一言も触れていない。
 夏目漱石の『三四郎』に、団子坂の菊人形のにぎわいぶりが、生きいきと描かれている。『三四郎』の初出は『朝日新聞』の連載小説で、1908年9月1日からその年の12月29までの掲載である(註8)。
 右にも左にも、大きな葦簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れている。
 連載その18(前編)でも書いたが、鴎外の『青年』はそれより2年後、1910年3月から『スバル』に連載された。ところが、その中間にあたる1909年の秋、団子坂の菊人形展に一大異変が生じた。
 この年、名古屋の黄花園と菊世界という2軒の植木屋が、それぞれ両国の国技館と浅草公園の常盤座で大規模な菊人形展を開催した。それにとどまらなかった。東京の植木屋のなかからも、名古屋の植木屋たちに追随する形で、浅草の柴崎町や浅草公園に進出する業者が続出した。その結果、それまで菊人形の業界を独占状態にしてきた団子坂は大打撃を蒙り、没落の坂道を転がり落ちることになったというのである。
 詳しいことは分からないが、『青年』の連載を始める前年の団子坂の菊人形展は、おそらく、火の消えたように寂しいものだったに違いない。「竿と紐尺とを持って」という筆致だから、うっかり見落としかねないが、前回に書いた子守の少女と同じように、団子坂の植木屋たちもまた、時代の過酷さに体を竦め、心をS字型に屈曲させていたのである。
 3年後の1912年、全盛期には30軒あまりの植木屋が集った団子坂の菊人形展は、最後まで残った1軒である巣鴨の種半まで撤退してしまい、完全に消滅した、ということである(註9)。

ph4-6V7A1276-cph4 千駄木ふれあいの杜の東側。急こう配の石段。千駄木1-8。 2021.11.11

ph5-6V7A1280-cph5 千駄木ふれあいの杜の北側。冠木門のある家。千駄木1-11。 2021.11.11

ph6-IMG_3508-cph6 薮下通り。玉石を積んだ石垣。千駄木1-9。2009.12.14

ph7-6V7A1302-cph7 薮下通り。森鴎外記念館前のしろへび坂。千駄木2。2021.11.11

 薮下通りは、冒頭で述べたように、根津神社の裏門と団子坂の坂上を結んでいる。
 『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」をみると、薮下通りから団子坂にかけての道筋に、「コノスヘセンタキ下丁」(この末、千駄木[坂]下町)、「シオミサカ、ダンゴサカト云」(汐見坂、団子坂と云う)とあり、また団子坂の中腹には「谷中ミチ」(谷中道)とも記されている。森鴎外の観潮楼跡(現在の森鴎外記念館)があったのは、この『切絵図』でいえば、「世尊院門前」(世尊院門前町)のあたりとみられる。
 その団子坂を隔てた斜向かいに、「権現山、御立山、元根津ト云、植木屋多シ」と記される町人地がある(註10)。
 「権現」は根津権現の略称。「御立山」は狩猟や伐採を禁じる山のことらしい。元根津の地名は、根津権現の旧社地だったことに由来する。「植木屋多シ」とあるが、この『切絵図』の制作された1854(嘉永7)年のころは、植木屋が軒を連ねていたとみられる。
 『新編武蔵風土記稿』は、「根津権現社蹟」について、次のように書いている(註11)。
 按に根津権現始は千駄木今の太田摂津守の下屋敷中にありしを、万治年中彼邸に賜ひし時、同所東の方今植木屋六三郎か構の処に移され、その後当所へ転し宝永三年今の社地に移されしより、当所を元根津と云、
 根津権現(根津神社)は、1706(宝永3)年、現在の社地に遷座した。それ以前の社地が団子坂にあったことは、『新板江戸外絵図』をみれば確認される。この絵図の刊行は1671〜73(寛文11〜13)年とされる。薮下通りが団子坂と交差する北東の斜め向かいに「子ズノゴンゲン」と記されるのがそれである(註12)。
 『風土記稿』によれば、根津権現の最初の鎮座地は、薮下通りの西側だった。ところが、万治年中(1658〜61)にそこが太田摂津守の下屋敷になった。そのため、根津権現はその東側に遷座した。こちらは「今植木屋六三郎が構の処」(今、植木屋六三郎が店を構えている所)であるが、その後さらに、「当所」(「根津権現社蹟」)へ遷座した、というのである。
 ところで、「同所東の方今植木屋六三郎か構の処」というのは、どのあたりを指すのだろうか。植木屋六三郎が店構えする所といわれても、現代の私たちには分かりにくい。とはいっても、そのころはそれで充分に通じたのである。見方を換えれば、「植木屋六三郎」はその店構えが立派で、世間の評判も高かったということである。『新編武蔵風土記稿』は1828(文政11)年の成立だから、「今」というのは、文政年間(1818〜30)とみなして、当たらずとも遠からずに思われる。
 植木屋六三郎をインターネットで調べているうちに、東洋大学国際会館建設に伴う事前調査についての報告書があるのをみつけた。副題は「植木屋森田六三郎家の様相」となっている(註13)。東洋大学国際会館が建っているのは、千駄木3丁目2番地だが、そこは上記の『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」で「権現山、御立山、元根津ト云、植木屋多シ」と書かれた場所に該当する。
 報告書によれば、発掘調査を進めると、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、近世期の遺構や遺物が出土したが、近世期以降のものとして、多種多様な植木鉢が含まれていた。そのなかに、植木屋森田六三郎の号とされる「帆分亭」を押印したものがあり、ほかにも「植六」の号のあるものも確認された。そのことから、東洋大学国際会館のある場所は、植木屋森田六三郎の居住跡であったことが明らかになった、というのである。
 だとすれば、『新編武蔵風土記稿』のいう「植木屋六三郎が構の処」から「当所」(「根津権現社蹟」)へ転じたというのは、同じ元根津の範囲内だったとみて、差し支えないと考えられる。おそらく、「当所」と書かれる場所には、根津権現社蹟の記念碑かそれに類する何かがあったのである。
 浅草(浅草寺奥山)に花やしきがある。現在は乗り物や遊具などを中心にした娯楽施設になっているが、1853(嘉永6)年に開園したころは、花やしきの名前の通り、菊細工や牡丹の花などを見世物にする花園だったとのことである。そして、先の報告書によれば、この花屋敷を創設したのは、千駄木の植木屋森田六三郎だったとされる(註14)。
 さらにいうなら、1829(文政12)年、六三郎の父太右衛門が浅草で菜飯茶屋を開いている(註15)。千駄木(団子坂)の植木屋の浅草への進出は、菊人形展が没落する20世紀初頭の出来事というよりも、江戸時代の文政年間1818〜30)にまで遡るものと思われる。

【註】
(註1) 『青年』(『森鴎外全集2 普請中 青年』所収、田中美代子解説、ちくま文庫、1995)
(註2) 『御府内備考』第二巻「巻之三十六」、蘆田伊人校訂、雄山閣、2008)
(註3) 『細木香以』(『森鴎外全集6 栗山大膳 渋江抽斎』所収、田中美代子解説、ちくま文庫、1996)
(註4) ph6参照。画面に写っていないが、坂の延長線上に東京スカイツリーを見ることができる。
(註5) (『精選版 日本国語大辞典』、小学館)
(註6) 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」(尾張屋版、1853・嘉永6年)〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
(註7) 『東京の原風景』「二 庭園モザイック都市」「花園から興行へ」(川添登、ちくま学芸文庫、1993)
(註8) 『三四郎』(解説 菅野昭正・注 大野淳一、岩波文庫、1990)
(註9) 『東京の原風景』「二 庭園モザイック都市」「花園から興行へ」
(註10) 『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」((尾張屋版、1854・嘉永7年、国会図書館デジタルコレクション)〔江戸切絵図〕. 駒込絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
(註11) 『新編武蔵風土記稿』第1巻「巻之十九、豊島郡之十一」、蘆田伊人校訂・根本誠二補訂、雄山閣)
(註12) 『新板江戸外絵図』「東ハ浅草、北ハ染井、西ハ小石川」(1671〜73・寛文11〜13年)新板江戸外絵図. 東ハ浅草、北ハ染井、西ハ小石川 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
(註13) 「文京区千駄木三丁目南遺跡の調査概要 〜植木屋森田六三郎家の様相〜」(中野 高久、『江戸遺跡研究会会報 No.111 』収拾、2007.11.15)会報No.111 (jpn.org)
(註14) 上記「文京区千駄木三丁目南遺跡の調査概要」。『花やしき』HP 花やしきの歴史| 株式会社 花やしき (hanayashiki.jp)
(註15) 上記「文京区千駄木三丁目南遺跡の調査概要」
ひらしま あきひこ

・おまけ
おまけ6V7A2925-cおまけ6V7A2897-b<27日、館山へ日帰りで行ってきました。
この日は西高東低の荒れた天候で、畑へ行くと、
ソラマメが強風に煽られて、身を竦めていました。
しかし、もうそろそろ冬も終ります。
その近くでは、育て損なったハクサイが、
葉を丸めないまま、花を咲かせていました。>(2022.03.01)
平嶋先生から届いた写真です。画像はクリックで拡大します。

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。今回は前編・後編と2部に分けてご紹介します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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