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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第19回 2022年04月14日
その19 千駄木薮下通りの光と影(後編)

文・写真 平嶋彰彦


 団子坂で見落とせないと思うのが、歌川広重の『名所江戸百景』「千駄木団子坂花屋敷」の錦絵である。この「千駄木団子坂花屋敷」に描かれているのは、『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」で「四季花屋敷紫泉亭、眺望ヨシ」と記される花屋敷に他ならない。場所は森鴎外記念館(観潮楼跡)の薮下通りを隔てたすぐ真向かいになる。
 広重の錦絵は、1856(安政3)年の制作である。花屋敷の庭内には、池が設けられ、周りには満開のサクラを楽しむ見物客が描かれている。画面の正面奥には断崖がそびえ立ち、爪先上がりの石段が通じている。崖の頂上に建つのが「紫泉亭」である。2階と3階が桟敷席になっている。持ち主は植木屋の楠田宇平次だという。花園の見事さばかりでなく、高所からの「眺望ヨシ」を謳い文句にしていたのである(註16)。
 眺望の良さという点では、紫泉亭と観潮楼に大差はなかったはずである。紫泉亭の2階と3階の桟敷席からも、観潮楼の望楼と同じように、遠く品川沖が眺望できたに違いない。というよりも、事の順序は逆で、観潮楼が建てられたのは、江戸が東京になってからである。永井荷風にいわせれば、鴎外は当代の碩学だった(註17)。その鴎外が千駄木団子坂に新居を求めるさいに、広重の「千駄木団子坂花屋敷」を知らなかったとは考えにくい。
 勝手な思い込みに過ぎないが、観潮楼という一種新奇な建築物には、前代の町人文化の典型ともいえる紫泉亭を本歌取りした和洋折衷の意匠があったような気がする。薮下通りの「余り綺麗でない別荘らしい家」の一軒に、鴎外自身の観潮楼も含まれていたのではないだろうか。「植木屋のような家」というのは、紫泉亭をはじめとする千駄木の植木屋たちが衰退していく眼前の事実であったように思われる。

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ph8 須藤公園の北西側。瓦葺木造二階建ての大きな家。千駄木3-6。2021.11.11

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ph9 須藤公園。らせん状の石段と楠の大木。千駄木3-4-16。2021.11.11

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ph10 須藤公園。崖下の池に祀られる弁財天社。千駄木3-4-16。2021.11.11

 永井荷風の『日和下駄』に「崖」と題した一章があり、そこに薮下通りが出てくる(註18)。
 根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂へ通じる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味あるところはないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。
 『日和下駄』の初出は『三田文学』で、1914(大正3)年8月から翌年6月までの連載である。ここでいう「弥生ケ丘と千駄木の高地」とは、忍が丘にたいする向丘のことで、薮下通りはその断崖の縁に沿った道筋である。「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」とあるのは100年前のことで、いまではすき間もないくらい家が建て込み、道幅を広げて自動車も通るようになっている。とはいっても、人影はまばらで、車の往来も少なく、ひっそりしたというか、落ちついたというか、都心には珍しい雰囲気を漂わせている。
 前編にも書いたが、薮下通りは1671〜73(寛文11〜13)年に制作された『新板江戸外絵図』にも載っている(註19)。この道が拓かれたのは、江戸幕府が開かれて間もないころと思われるが、あるいはもっと古く、中世以前に遡るのかもしれない。地図に載るというのは、成り立ちが余暇の散歩道ではなく、人の移動や物の運搬に必要な生活道路だったことを示唆する。
 藪下通りの道筋を『新板江戸外絵図』でたどってみると、出発点(終着点)は、本郷通り(日光御成道)の「一里塚」(本郷追分)で、終着点(出発点)もやはり本郷通りの「富士権現」(富士神社入口)である。富士神社は「ときの忘れもの」のすぐ近くにある。ギャラリーの3階テラスから神社の森が望める。この道筋は、簡単にいうなら、駒込(江戸時代の駒込村)を半円形に廻る本郷通りの脇道なのである。
 『新板江戸外絵図』を見ていただきたい。『青年』の主人公純一が本郷追分から歩いたのは、この脇道であることが分かる。水戸家と小笠原家の屋敷(現東大農学部)沿いにしばらく進むと「大ヲンジ」(大恩寺)がある。その跡地に建っていたのが東京聖テモテ教会である。純一はここを右折し、根津新坂に出たのだが、この絵図ではその先に「甲府宰相殿」の屋敷地(現在の根津神社)があり、道はその手前で途切れている。「甲府宰相」は六代将軍徳川家宣の父綱重である。家宣はこの屋敷地で生まれた。根津神社には家斉の産湯の井戸と胞衣塚が残されている(註20)。
 大恩寺前で右折せず、道なりに歩いていくと、やがて「甲府宰相殿」の屋敷地の北側に出る。ここで道は直角に左折する。そこから先が薮下通りである。
 薮下通り西側の台地上は「太田摂津」(太田摂津守屋敷地)と「千駄木林」(寛永寺の御用林)が占めている。その一方、東側の低地は農地で、「田」と「畠」と記されている。
 薮下通りは団子坂までだが、道はその先まで続いている。
 団子坂との交差点の北西側に「子ズノゴンゲン」(根津の権現)とある。ここが根津神社の旧社地で、後に元根津と呼ばれるようになった。さらにまっすぐ進むと、動坂に至る。そこで田端からの道に合流し、北西から南西に方向を変えつつ進むと、「神明社」(駒込天祖神社)の北側をへて、終着点の「富士権現」にたどり着き、そこで本郷通りと合流する。
 団子坂から動坂までは、大給坂(おぎゅうざか)・狸坂・きつね坂・むじな坂と坂が続く。いずれも進行方向にたいし直角に右折する下り坂である。ということは、薮下通りと同じように、この道も向丘から続く台地の縁に沿って拓かれていることになる。
 千駄木の動坂は駿河台付近から南北に連なる台地(本郷台地)の北の端になる。そこで忍が丘から赤羽まで続く台地(上野台地)に、行く手を阻まれるような恰好で突きあたる。
 この脇道に併行するように、根津と千駄木の低地に拓かれたのが不忍通りである。不忍通りは『新板江戸外絵図』にも『江戸切絵図』にも見当たらない。近代になってから作られた道路である。さらにその外側を藍染川(谷戸川)が流れていた。その流路跡を道路に整備したのが、現在の谷田川通り・よみせ通り・へび道ということになる。

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ph11 トタンで囲った家。千駄木3-35。2013.04.14

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ph12 廃屋。千駄木3-35。2013.04.14

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ph13 合染橋(枇杷橋)跡。正面はへび道(藍染川跡)。千駄木2(右)、谷中2(左)。2021.12.10

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ph14 団子坂。千駄木坂、汐見坂とも呼ばれた。千駄木2(左)、同3(右)。2009.12.14

 永井荷風が『日和下駄』に書いた「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」という景観を彷彿させる崖が、薮下道から入った路地の奥に残っている。雑木や雑草が伸びるに任せて繁茂しているが、文京区の管理する緑地である。もと太田摂津守の下屋敷の一画で、現在は千駄木ふれあいの杜の名前がついている(ph2、4。註21)。
 私は田舎育ちのせいか、なんとなく草刈り機やノコギリを持ち出したくなる。しかし、考えてみれば、これはこれで一見の価値がある気がしないでもない。住まいも田畑も、人の手が入らなくなると、たちまちに雑草がはびこり、そのうちに樹木が芽生える。やがて30年もすれば、もとの自然に回帰し、すっかり「樹と竹藪に蔽われて」しまう。それを見るだけでも学ぶことは少なくない。
 千駄木ふれあいの杜のほかに、昔ながらの崖の面影を残して興味深いのが須藤公園である(ph9、10)。ここは江戸時代に松平家(越前大聖寺藩)下屋敷のあった一画である。南側は根津神社の旧社地や植木屋六三郎の店舗があった元根津である(註22)。公園のある場所は、明治時代に入ると、政治家の邸宅になっていたが、その後、実業家の須藤吉左エ門の手にわたった。1933(昭和8)年、その須藤家から園用地として東京市に寄付され、さらにその後、文京区に移管されたとのことである(註23)。
 公園は断崖と谷間からなる地形を生かした設計になっていて、崖には高さ10メートルの滝を流す一方、その下には池を設けている。それにとどまらず、池に中の島を築き、そこに橋を渡し、弁財天を祀っている。
 水は豊穣の源であるばかりでなく、一転して災厄の元凶ともなる。弁天様は水辺の守護神ということだろう。昨年の秋、私が訪れたときには、子どもたちが池の周りで小魚か昆虫を捕まえようとして駆けずりまわり、それを私と同年輩と思われる人たちが、箒を持つ手を休め、のんびりと眺めていた。
 須藤公園のあたりは、かつて藍染川による洪水の常襲地帯だった。その藍染川について、永井荷風は『日和下駄』の「水」の章のなかで、次のように言及している(註24)。
 本郷の本妙寺坂の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折といえば必ず雨潦(うりょう)の氾濫に災害を被る処であった。
 本妙寺は明暦の大火(1657・明暦3年)の出火元。本妙寺坂の溝川は、暗渠化されるまでは、菊坂に通じていた。樋口一葉の旧居は、その崖下にあった。溝川はどぶ川のこと。崖の上ばかりでなく、崖の下も市街化が進んでいたのである。
 1913(大正2)年、永井荷風が『日和下駄』を執筆する1年前になるが、東京市は藍染川(谷戸川)を暗渠化する工事計画を立てた。谷中・千駄木・根津一帯の水害を解消するのが目的の一つだった。埋立工事は1920年までに終了し、このあたりの藍染川は暗渠化されたという。藍染川については、連載その12(後編)にもう少し詳しく書いているので、そちらを参照していただきたい(註25)。
 須藤公園の東側の低地には、大正や昭和の面影のある街並みがかすかに残っていて、道なりに歩いていくと、やがて不忍通りに出る(ph11、12)。
 そのすぐ近くに団子坂下の交差点がある(ph14)。藍染川はそこから100メートルほど東側を、不忍通りと併行する形で、北から南へ流れていた。現在、谷中・根津・千駄木の観光名所になっているよみせ通りからへび道へと続く道筋は藍染川の流路跡で、二つの通りの境に架かっていたのが合染橋(枇杷橋)だということである。(ph13。註26)。

註16 「十九世紀江戸・東京の植木屋の多様化」(平野恵、『江戸・東京近郊の史的空間』所収、雄山閣、2003)。『名所江戸百景』「千駄木団子坂花屋敷」名所江戸百景 千駄木団子坂花屋敷 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)名所江戸百景 千駄木團子坂花屋敷 (千駄木団子坂花屋敷) - 歌川広重 — Google Arts & Culture
註17 『日和下駄』(永井荷風、野口富士男編『荷風随筆集(上)』所収、岩波文庫)
註18 同上
註19 『新板江戸外絵図』 新板江戸外絵図. 東ハ浅草、北ハ染井、西ハ小石川 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註20 現地説明板「徳川家宣胞衣塚」(文京区教育委員会)
註21 現地説明板「「千駄木ふれあいの杜」の由来」(文京区)。この下屋敷の内外の眺めを描いた「太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻」がwebで紹介されている。文京ふるさと歴史館文京区指定文化財データベース 太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻 (bunkyo.lg.jp)
註22 『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」〔江戸切絵図〕. 駒込絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註23 『文京区』「須藤公園」文京区 須藤公園 (bunkyo.lg.jp)
注24 『日和下駄』(永井荷風、野口富士男編『荷風随筆集(上)』所収、岩波文庫
注25 「その12(後編)参照。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(後編) : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
註26 「その12」(前編)参照。 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(前編) : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp)
ひらしま あきひこ

・おまけ
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<ソラマメが実をつけています。
芽を摘んだからでしょう、アブラムシはいなくなりました。
そろそろタヌキが心配です。動物除けの電気柵を張りました。来週には通電します。
この日は朝からあいにくの雨。ぬかるんで仕事になりません。
畑のすみでクワの木が花を咲かせていました。>
(2022.04.03)
平嶋先生から届いた写真です。画像はクリックで拡大します。

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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