平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第21回 2022年09月14日 |
その21(後編) 谷中の清水と鶯の初音
文・写真 平嶋彰彦 地名は大事である。その土地の埋もれた歴史を掘り起こす糸口になる。 私の生まれ育った集落の地名は小沼という。別称があり、シギダともいう。 家の前から太平洋が見渡せる。海までは800メートル弱の距離。正面には伊豆大島が間近にせまり、西側には伊豆半島が横たわる。いまは耕作放棄地が歯止めもなく増えつつあるが、起伏のある斜面に拓かれた不定形な畑と棚田の景色は子供心にも美しかった。その奥に低い砂地の丘陵が続き、その丘陵のさらに奥に白い波頭が見え隠れする。 小沼という地名は、海岸の近くに沼があったことによるらしい。そこを開墾し水田に変えたのである。別名のシギダは、念仏講の教本などでは鴫田と漢字を充てている。シギは水辺の渡り鳥である。遠浅の砂浜をハマシギが群れをなして乱舞するのをよくみかけた。海辺の田んぼでシギの仲間が遊んでいたとしてもおかしくない。田植えの時期は水辺の鳥類が渡ってくる季節とかさなる。 海岸まで約200メールの東西の端に両墓制の埋め墓(タチューバ)と弁財天があった。そこが昔の海岸線らしい。その奥の丘陵は、いつのころなのか分からないが、大地震による隆起だといわれる。そのあたりの畑は土壌が砂地で、形が規則正しい短冊形になっている。村の言い伝えによれば、明治か大正のころ、村中総出で開墾し、それを均等に配分したとのことである。 ph9 三埼坂。明王院門前の長屋。1階を店舗に改造している。台東区谷中5-4。2022.03.30 ph10 三埼坂。高梨商店(雑貨屋)と慶喜(蕎麦屋)。慶喜は十五代将軍で、近くに墓がある。台東区谷中6-3。2022.03.30 話をもとに戻そう。谷中には谷中清水町のほかにも、実に興味深い地名がある。その代表格が谷中初音町である。これも明治に作られた旧町名である。谷中初音町(1−4丁目)は、現在の谷中(3丁目、5−7丁目)にほぼ相当する(註21)。 JR日暮里駅から谷中方面に向かうと、線路を超えたすぐ先が御殿坂である。この坂道を進んで行くと、道が二又に分れる。まっすぐ進むと、夕焼けだんだんの石段がある。そのすぐ先が東京下町の観光名所として人気のある谷中銀座である(ph13〜15)。 こちらの道ではなく、二又の左手にあるひっそりした坂道に入る。これが七面坂で、江戸時代からの旧道である(ph16)。坂を下ると長楽寺が左手にあり、その先のT字路を左折すると、右手に宗林寺がある。それより先は緩やかな下り坂がしばらく続く。これが六阿弥陀通り(六阿弥陀道)で、およそ400メートル先の三埼坂(大円寺)で、都道452号・白山神田線(谷中道)に合流する。 六阿弥陀通りの途中に、都立岡倉天心記念公園がある(ph11)。向いの路地に谷中初四会館(谷中初四町会会館)がある。またこのあたりには、区立の公民館や図書館が置かれ、初音の森という防災広場も併設されている。谷中初四会館の初四は、この地域の旧地名である谷中初音町四丁目のことだろう。防災広場の初音もこの旧地名に因むに違いない。 そんなことから、谷中初音町四丁目について『日本歴史地名体系13 東京都の地名』で引いてみると、思ってもみなかったことが書いてある(註22)。 安政三(1856)年の尾張屋版切絵図では大円寺の北に「御切手同心」と明示されている。町内に鶯谷とよばれる所があり、初音町の名はその鶯の初音にちなんだといわれる。鶯谷は七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷で、この鶯谷へ下る坂を中坂といった(御府内備考)。 そこで今度は、同書のいう「安政三(1856)年の尾張屋版切絵図」、すなわち『江戸切絵図』「根岸・谷中・日暮里・豊島辺図」を見てみる(註23)。 絵図の東南側に「東叡山御山内」が描かれていて、その北西に「天王寺」(谷中天王寺)がある。天王寺北側の道が御殿坂である。道を隔てて「本行寺」・「経王院」(経王寺)。そして御殿坂と諏訪台通りが交差する斜向かいに七面延命院(延命院)がある。七面坂の名はこの寺院に因む。 『御府内備考』は幕府の手になる史書で、1829(文政12)年に完成した。同書のいう中坂というのは、七面坂下の「宗林寺」・「長楽寺(長明寺)」から「御切手同心屋敷」に通じる坂で、現在の六阿弥陀通り(六阿弥陀道)のことである。「御切手同心屋敷」の「切手」は通行証のことで、江戸城の切手御門で大奥への出入を監視する下級役人の組屋敷が谷中にあったのである(註24)。 『江戸切絵図』で六阿弥陀道をたどると、「宗林寺」と「御切手同心屋敷」の間に田地(百姓地)がある。『御府内備考』のいう「七面坂から南、御切手同心屋敷の間の谷」とはこの田地のことをいうのではないかと思われる。六阿弥陀通りと併行する形で、西側の低地を流れていたのが藍染川で、先にも書いたが、現在のよみせ通りがその流路跡になる(ph12)。 『谷中初四町会』のホームページによると、谷中初四会館が建っている場所は、切手同心の組屋敷跡であるという。上記のように、都立岡倉天心記念公園が六阿弥陀通りに向かいにあるが、ここは『江戸切絵図』では「酒井甚之介」と記されている。あるいは鶯谷と呼んでいた範囲にこの武家地も含まれていたのかもしれない。 というのも、鶯谷については『江戸砂子』にも言及があり、同書は鶯谷の範囲を『御府内備考』よりもっと広く捉えているからである(註25)。 〇鶯谷 溝口家下やしきの向。寺院七ケ所ある谷なり。いつのころにや、東叡山の宮より京の鶯数多放させたまふは此所なりとぞ。いまに至て音色すぐれたりといふ。 「溝口家下やしき」は『江戸切絵図』には見当たらないが、『江戸砂子』は別の箇所で、「いまの法住寺の地」であると書いている(註26)。「いま」というのは、同書およびその補遺の書かれた1732−35(享保17−20)年。法住寺(新幡随院法住寺)は、円朝の『牡丹灯籠』で夜な夜な根津清水谷の萩原新三郎を訪ねたお露とお米の墓があったとされる寺。関東大震災の後に足立区に移転し、現在は朝日湯という銭湯になっている(註27)。もう一度『江戸切絵図』をご覧いただきたい。法住寺があった場所は三埼坂の坂下で、谷中道(都道452号・白山神田線)が藍染川を渡る枇杷橋の東詰にあったことが分かる。 したがって「溝口家下やしきの向」というのは、七面坂と三埼坂を結ぶ六阿弥陀道に沿ったほとんど全域を指すことになる。『江戸切絵図』で改めて六阿弥陀通を見直すと、「宗林寺」・「長楽寺」(長明寺)・「旲全寺」(立善寺)・「安宗寺」(安立寺)・「福相寺」・「明王院」・「大円寺」の七ケ寺が確認される。 ph11 岡倉天心記念公園。幼児を遊ばせるお母さん、ネコを散歩させる人。台東区谷中5-7-10。2022.03.30 ph12 藍染川跡のよみせ通り。旭プロセス製版前の地域バス停車場。台東区谷中3-7。2013.04.13 ph13 谷中銀座。雪の降った翌日の午後。台東区谷中3-12.2013.01.13 ところで、『江戸砂子』はウグイスの名所として谷中の鶯谷ばかりでなく、隣接する根岸の里も取りあげ、こう書いている(註28)。 〇根岸の里 鶯の名所なり。元禄の頃、御門主様より上方の鶯を多く放させ給ふと也。関東のうぐいすは訛あり。此所はその卵なるゆへなまりなしといへり。 御門主様と東叡山の宮は呼び方が違うだけで、上野寛永寺の住職のことである。歴代の住職に就いたのは、皇室出身の法親王で、京都から下向した。 人間の社会に方言があるように、ウグイスの社会にも方言がある。そこで寛永寺住職が京都育ちのウグイスを数多く放ち、関東訛の矯正を試みたという。「鶯谷」の項では「いつのころにや」とあるが、「根岸の里」の項では、「元禄の頃」と書いている。 元禄時代(1680〜1709)には、生類憐みの令が施行され庶民を苦しめた。処罰の対象となったのは犬や牛馬の殺害ばかりでない。その他の生類にも拡大され、鳥や金魚の飼育までも禁止された(註29)。寛永寺住職だからといって、そんなことをすれば幕府との間に物議を引き起こさないわけがない。 そのころの寛永寺(東叡山輪王寺)住職とは、公弁法親王のことである。1690(元禄3)年に赴任、1693年には天台座主を兼任、1715(正徳5)に京都へ帰った(註30)。 ウグイスの鳴き声は「ホウホケキョウ」である。「ホケキョウ」は「法華経」というふうに聞きなされた。谷中の有名寺院といえば幸田露伴の『五重塔』で知られる天王寺であるが、元禄頃の寺号は感応寺といい、日蓮宗の不受不施派に属していた。 1698年、徳川幕府は法華宗の不受不施派を邪宗とみなし改宗を命じるが、感応寺住職の日遼はこれを拒み、八丈島に遠島になった。そればかりでなく、日蓮上人像をはじめ関連寺物は撤収されることになり、感応寺は廃絶の危機に瀕した。これを救ったのが、ほかならぬ寛永寺住職の公弁法親王で、親王は由緒ある感応寺がなくなるのを惜しみ、幕府と掛け合い、天台宗寺院として存続することを認めさせた、というのである(註31)。 『江戸砂子』のいう鶯谷の七ケ寺の宗派を調べると、明王院(真言宗豊山派)を除いた六ケ寺のすべてが日蓮宗である。また七面坂の延命院、さらに御殿坂の本行寺・経王寺もやはり日蓮宗である。日蓮宗は『法華経』を帰依する対象とし、「南無法蓮華経」のお題目を唱える。だとすれば、ウグイスは日蓮宗の隠喩になっていて、鶯谷とは「ホウホケキョウ」(南無法蓮華経)のお題目を唱える日蓮宗寺院が軒を連ねる 谷ということにならないだろうか。 ところで、鶯谷の地名と野鳥のウグイスはなんの関係もないかといえば、そうでもないらしい。『新修荒川区史』に次のような興味深い記述がある(註32) 鶯谷は谷中の初音町で、輪王寺宮が京の鶯をここに放ち、鶯の名所となったのである。元禄(1688−)の頃はよくウグイスが上野の森に育ち、根岸で軒並みに飼鳥を籠につるして鶯会を開いたこともある。 『江戸砂子』を踏まえた記述と思われる。元禄の頃によく鶯が上野の森で育ち、という箇所は疑問があるが、根岸ではおそらく昔から軒並みにウグイスを籠に吊るして飼っていたのだろう。そして、春先になると、その鳴き声を競わせる鶯会を催したのである。 ph14 谷中銀座。越後屋酒店。店頭でコップ酒の観光客。台東区谷中3-13。2012.11.18 ph15 谷中銀座。家族連れの外国人観光客。荒川区西日暮里3-15。2009.12.21 ph16 七面坂。坂名は坂上にある延命院七面堂にちなむ。荒川区西日暮里3-14。2022.03.30 子どものころにメジロを飼ったことがある。たいていの友だちが飼っていた。ウグイスと同じで、やはり鳴き声を楽しむのである。秋になると近くの山へメジロを捕まえに入った。サカキの群落があるところに、カゴに入れたオトリのメジロを吊るし、枝にトリモチを仕掛ける。トリモチはモチの木の皮を剥ぎ、水に1、2ケ月晒し、木槌で叩いて作った。 メジロだけでなく、よくウグイスが掛かった。秋の間は「ホウホケキョウ」ではなく「チャチャ、チャチャ」と鳴く。その鳴き声からチャチャと呼んでいた。メジロと比べると姿がずんぐりし、色も鮮やかな緑ではなく褐色にくすんでいる。おまけに、トリモチに掛かると、猛烈に暴れて、仕掛けを羽だらけにしてしまう。 そういえば、中学1年の職業家庭科の実習で、タケを使ってトリカゴを作らされた。その翌年、メジロを許可なく飼うことは、法律で禁止になったと担任の教師から告げられた。 半世紀以上も前のことだが、いまでも春先になると、ウグイスが里に下りてくる。実家の近くには小さな川があり、両岸をシノダケやアシが蔽っている。その藪のあたりからウグイスの初音が聞こえてくる。村中に響きわたるけたたましい鳴き声なのだが、探してみても姿形は一向に見あたらない。 江戸時代には、上野の山は一山が寛永寺の境内になっていた。適度に人の手が入った樹木の生い茂る森は、野鳥にとっては願ってもない生息環境ではなかっただろうか。谷中初音町は、上野山内から道灌山に連なる上野台地西側の麓にあり、谷底を藍染川が流れていた。その一方、上野台地東側にも谷底があり、石神井川から引いた音無川という農業用水が流れていた。その一帯が根岸の里である。谷中初音町も根岸の里も、自然環境は私の郷里となんとなく似ているような気がしてならない。 根岸で軒並みウグイスの鳥籠を吊るしていたというのは、野生のウグイスが近くでたくさん捕れたことを意味する。谷中初音町と同じように、ウグイスの名所だったのだろう。正岡子規は根岸に住んだ。家の前は鶯横丁と呼ばれていたという。『病牀六尺』には「我が草庵の門前は鶯横丁といふて名前こそやさしいが、随分嶮悪な小路」云々とあり、地元の産土である三島神社の祭礼には、「鶯も老て根岸の祭かな」の句を詠んでいる(註33)。 1912(明治45)年、京浜東北線の駅が根岸に置かれた。鶯谷駅と日暮里駅の間には、戊辰戦争で焼失したが、輪王寺宮(寛永寺住職)の別邸である御隠殿があった。駅前一帯のラブホテル街のけばけばしい景観から想像しにくいが、鶯谷の駅名がつけられたのは、かつて根岸の里がウグイスの名所で、もう一つの鶯谷だったからではないかと思われる。 【註】 註21 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002) 註22 同上 註23 (ndl.go.jp) 註24 『大日本地誌大系(二)御府内備考 第二巻』「巻之二十七・谷中之一」(雄山閣、1970)。 『精選版 日本国語大辞典精選版』(小学館)。『世界大百科事典 第2版』(平凡社) 註25 『江戸砂子』「補遺・再校江戸砂子校異 巻之三・〇鶯谷」(小池章太郎編、東京堂出版、1976) 註26 『江戸砂子』「補遺・再校江戸砂子校異 巻之三・〇野中の井の〔補〕(小池章太郎編、東京堂出版、1976) 註27 『落語「牡丹灯籠・お札はがし」の舞台を歩く』(WEBサイト) 註28 『江戸砂子』「巻之二 ㊆下谷・池の端・坂本・金杉・箕輪 〇根岸ノ里」(小池章太郎編、東京堂出版、1976) 註29 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館) 註30 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版) 註31 『天台宗東京教区公式サイト』「護国山尊重院 天王寺」 註32 『新修荒川区史 上』「第一章 第八節 東京の周辺部としての性格―郊村から都市へ」(荒川区、1955) 註33 『病牀六尺』「九」、「九十三」(青空文庫、2010) (ひらしま あきひこ) ・ は隔月・奇数月14日に更新します。次回は11月14日掲載予定です。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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