平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき 第22回 2022年11月14日 |
その22 本郷菊坂の樋口一葉と宮沢賢治
文・写真 平嶋彰彦 以下に引用するのは、でも取りあげた永井荷風の『日和下駄』(「第六 水 附渡船」)からの文章である。(註1)。 本郷の本妙寺坂の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折といえば必ず雨潦の氾濫に災害を被る処であった。 「藍染川」はこれまで書いてきたように、埋め立てられて現存しない。「本妙寺坂の溝川」も、暗渠化した年代ははっきしないが、やはり近代になって消失した川である。しかし、『日和下駄』の書かれた1914(大正3)年のころは、まだ開渠の状態で流れていて、大雨がふるとたちまちに氾濫して、川沿いの住宅地を水浸しにしたものとみられる。後述するように、この溝川は江戸時代には「大下水」と呼ばれた(註2)。 本妙寺は、明暦の大火(1657・明暦3年)の出火元である。そのすぐ傍にあったのが本妙寺坂だが、寺は1911(明治44)年に本郷から巣鴨へ移転した。幕府を震え上がらせたこの未曽有の大火は、本郷丸山の振袖火事と称された(註3)。 本郷丸山とは現在の菊坂通りとその周辺を含めた地域の俗称で、江戸時代には菊坂通りの本妙寺坂から胸突き坂までは丸山通りと呼ばれたという。(註4)。菊坂通りは、本郷通りの本郷4丁目から北西方向に緩やかに下る坂道で、約600m先で西片1丁目にいたる。 本郷3丁目の角に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳で知られるかねやすビルがある。菊坂通りの入口は、そこから目と鼻の先になる。かねやすは、近年まで営業していた洋品店だが、もともとは兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出して評判をとったのが始まりだといわれる。 1730(享保15)年に大火があり、湯島から本郷の一帯が焼失した。そのころ町奉行を務めていた大岡越前守忠相は、町を復興するさいの耐火対策として、本郷三丁目から南側は土蔵造りや塗屋にすることを命じた。それにたいして、本郷四丁目より北側はおかまいなしで、相変わらず板葺きや茅葺きの町屋が並んでいた、というのである(註5)。 この川柳について、たしか木村荘八だったと思うが、こんなことを書いていた。本郷のかねやすから日本橋までは3km弱、徒歩で1時間足らずの所要時間である。生活感覚からすると、本郷のあたりまでが通勤に無理のない範囲と考えられた。近代になると、交通手段がさまざま発達する。それにともない、住まいも職場から次第に遠ざかるようになった。しかし、通勤時間の目安をおよそ1時間とする生活感覚には、あまり大きな変化は見られないというのである。 私自身をふりかえれば、勤務先の毎日新聞社は千代田区の一ツ橋で、住まいは習志野市にあった。最寄り駅の津田沼駅までバスで6、7分、それより東西線の直通なら竹橋駅まで40分。歩きと待ち合わせを含め、通勤時間は1時間15分前後。報道カメラマンだから、勤務は不規則になる。交通の便を考えると、それ以上遠くには住みたくなかった。 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、中山道の本郷3丁目あたりまでは、街道の両側を町屋が占めているが、その外側を見ると、下級武士の屋敷や大縄地(組屋敷)が所狭しとひしめいている。 彼らの職場はおそらく江戸城とその周辺だったはずである。下級武士は、幕府の扶持だけでは暮らせなかった。そのため、屋敷や拝領地に借家をつくって、町人を住まわせる例も少なくなかったらしい(註6)。武家地の住人は武士ばかりとは限らなかったわけである。町人たちもまた仕事の関係で日本橋や神田などに出かけたものと思われる。 ph1 樋口一葉旧居のあたり。堀井戸が残る。文京区本郷4-32。2019.05.14 ph2 樋口一葉旧居のあたり。斜面に木造三階建て2棟が建つ。本郷4-32。2015.08.21 ph3 樋口一葉旧居のあたり。木造三階建て裏側の路地。本郷4-32。2009.11.10 菊坂通りの南側は崖地になっていて、その下の低地には住宅が立ち並ぶ。さらにその奥には上りの傾斜地が連なっている。規模は小さいが典型的な谷戸(谷津)の地形である。その谷底を流れていたのが、荷風のいう大雨が降ると氾濫する溝川だったとみられる。菊坂通りから南側の低地へ降りる階段が何カ所かある。低地に下りたところに菊坂通りと併行する形で狭い道がある。周りとの標高差から、これが溝川の流路跡ではないかと推測される。 その1ヶ所に大正末か昭和初期の築と思しき木造建築がある。菊坂通りからはふつうの二階建てだが、階段の脇の脇に立つと紛れもなく三階建てである(ph9)。菊坂通りとその下の道との間は急峻な崖地になっていて、その崖地に住居や商店などが、肩を寄せ合うように軒を連ねているのである。 本郷の観光名所になっている樋口一葉の旧居跡は、この階段からほど遠くない住宅地の一画にある(ph1)(註7)。路地の一つを入っていくと、奥まったところに手押しポンプの井戸が残っている。共同井戸と思われるが、これに洗い場がついている。周りを石畳で舗装していることもあるが、周りの住居の狭苦しさと比べ、なんとなくゆったりした雰囲気がある。耳をすませば、女たちの井戸端会議が聞こえてくるような気もする。 井戸の奥に石段の坂道がある。そこも急峻な崖地である。石段の両側に木造三階建ての古びた住宅が建っている(ph2)。左の住宅はICHIYO HOUSEの名で、Google地図にも載る。インターネットで検索すると、入居者募集の不動産広告があり、「築年数は約90年」、「大正時代に建築されたとか」を売り文句にしている。 石段を上ると、建物の裏側には植木鉢が並び、すぐ横には人の背丈の倍ほどもある石垣が聳え立つ(ph3)。石垣の上にも住宅が建っているのである。石垣の下には路地があり、20mほど先で鐙坂に通じている。その出口に金田一京助・春彦父子の旧居跡がある。鐙坂の名前は坂の形が鐙に似ているからとも、かつてこの付近に鐙を作る職人が住んでいたからともいわれる(註8)。 樋口一葉がこの菊坂通りと鐙坂に挟まれた谷間に借家住まいをしたのは、1890(明治23)年9月から1893年7月までの3年弱であるという。一家の暮らしは、父親の事業の失敗、さらに父親と長兄の死が重なり、それまでと一転して、困窮を極めることになった。母親と妹の三人暮らしのなか、一葉は一家の大黒柱となり、針仕事や洗張りなどで生計を立てようと労苦をいとわず働いた。その傍ら、中島歌子の「萩の舎」で歌を学んだり、上野の東京図書館で古今の名作を手当たり次第に読んだりしていたともいう。文学の師と仰いだ半井桃水と知り合ったのもそのころで、代表作の一つ『にごりえ』の結城朝之助は桃水をイメージしたものだといわれる(註9)。 手押しポンプが普及するのは明治30(1897)年ごろからとされるが、一葉が住んでいたころも、この井戸はあったにちがいない。洗張りは和服の洗濯方法で、のりをつけて伸子(しんし)張りや板張りをして乾燥させる。一葉は釣瓶で水を汲むと、井戸端で洗濯をし、傍の物干し場でそれを乾かしていたのではないだろうか(註10)。 ph4 炭団坂の下。井戸のある路地。近くに宮沢賢治旧居跡。本郷4-32。2022.05.03 ph5 炭団坂の下。通りを溝川が流れていた。近くに宮沢賢治旧居跡。本郷4-33。2015.08.21 ph6 鐙坂下の住宅地。銭湯菊水湯。取り壊されて今はない。本郷4-30。2009.11.10 ph7 鐙坂下の住宅地。物干し台と乳母車、そして自転車。本郷4-30。2015.08.21 ph8 鐙坂下の住宅地。丹精を尽くした軒下の花園。本郷4-30。2015.08.21 「御府内備考」の「菊坂町」の項に、次の記述がある(註11)。 一 大下水 幅弐間ゟ九尺まで 右は本郷弐丁目ゟ本郷四丁目迄菊坂町辺水吐にて、流末水道橋際え出、神田川え落申候、尤掘割の年月相知不申、 『日和下駄』にある本妙寺坂の溝川は、この「大下水」を指すものとみられる。「幅弐間ゟ九尺」をメートルに換算すると幅約3.6mから2.7m。本郷2丁目から本郷4丁目までの雨水や下水は、高きから低きに流れつつ寄せ集まり、菊坂町のあたりがその吐き出し口になっていた。そこで沿川一帯の治水対策として掘割を開削し、最後は水道橋の際から神田川へ流すようにしたものと思われる(註12)。 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」には、この「大下水」の流路は描かれていない。しかし、本妙寺の南側、すなわち本妙寺坂から西北方向に延びる帯状の細長い地所がある。そこは「明地」「アラツ」と記され、緑に彩られている(註13)。この「明地」に沿って、「大下水」の掘割が拓かれたものと推測される。 「アラツ」はなんのことかよく分からない。「ツ(津)」は、ふつうは港または港町を指すが、水の湧き出るところという意味もあるらしい(註14)。あるいは、大雨が降ると急激に水かさが増えて、たちまちに水害をもたらす危険な水辺ということかもしれない。 江戸時代の菊坂町の町域は、現在の菊坂通りと胸突坂それに梨木坂で形成される三角形の内側だった。そして、この「明地」の西北側半分は、菊坂通りを隔てて、菊坂町と隣接していた。本郷界隈に町家が出来たのは長禄年中(1457〜60)というから、太田道灌が江戸城を築いたころになる。その当時、このあたり一円に菊畑が広がっていて、その傍にあった坂を菊坂と呼ぶと共に、坂の上を菊坂台町、坂の下を菊坂町と呼ぶようになったという。菊坂は現在の胸突坂のことである。1853(嘉永6)年刊行の「小石川谷中本郷絵図」には「ム子ツキサカ」と記されている。菊坂に代わって胸突坂の呼称が一般的になるのは、そのころからではないだろうか。 菊畑の田園に町家が並ぶようになった時期は、草分人や古参の住人がいないこと、また古来の書留なども度々の類焼で焼失したことからはっきりしないようだが、1628(寛永5)年、菊坂町は「御中間方」の拝領地(組屋敷)になった。中間は、3組500余人から構成され、中間頭のもとで、城内の門番や将軍遠出の供奉などの雑務に従事した。拝領地の総面積は約4376坪。地主は41人。一軒の敷地を平均すれば約100坪余りになる(註15)。現在の住宅事情からすればかなり広いわけで、先にも書いたように、一部を借地に割くとか借家を作るなどして、町人に貸していた可能性がある。 『御府内備考』は、上記の「大下水」に架けられた「土橋」と「板橋」に言及したあと、さらに次のような興味深い一文を載せている(註16)。 一 当町向側往古大なだれの崕ケ地に有之候処、元禄九子年中当町に罷在候町人仁兵衛外拾五人、道奉行武島治郎左衛門様、伊勢平九郎様え奉願、右なだれ地長延弐百五間余、奥行三間又は四間半の処、町地築立可申旨、右地所永々町屋敷に被下置候様奉願候得者、翌丑年中願通被仰付、地所築立出来の上、同寅年中町方御支配に相成、本郷菊坂道造屋敷と相唱、沽券売放の儀も御免被仰付、右拾六人にて所持仕居候処、 「大なだれ」とは、崩れ落ちた土砂がむき出しになっている状態を指すらしい(註17)。そのような「崕ケ地」(崖地)が菊坂町の向かいにあり、長さは延べ「弐百五間」(約370m)、奥行きは「三間又は四間半」(約5.4または7.2m)だという。 上記のように、菊坂町は三つの坂に囲まれている。しかし、胸突坂と梨木坂の向い側には、約370mも続く崖地は存在しない。そこで、現在地図で、菊坂通りの本妙寺坂から胸突坂まで距離、すなわち『江戸切絵図』に描かれる「明地」の距離のことだが、これを測ると約330mになる。ということは、約40mの誤差はあるが、『御府内備考』のいう「大なだれの崕ケ地」は、本妙寺坂から胸突坂にいたる菊坂通りの崖地とみて間違いないと思われる。 1697(元禄10)年、菊坂町の町人16人が、その崖地を町地に築立する許可願いを道奉行に申し出た。願いは受理され、翌年に築立工事が完成した。さらに翌々年には、この地所は町奉行の支配となり、本郷菊坂道造屋敷と呼ばれた。土地売買の証文である沽券の授受も公許され、地所は築立に加わった町人16人が所持した。 道奉行は、町奉行の所轄で、江戸の道路、水路を管理した。崖地を宅地化する際には、土砂崩れや水害にたいする防災対策が図られたはずで、道奉行はそれを勘案したうえで、認可を与えたように思われる。 ところが、寛保年中(1741〜44)になって、この道造屋敷のうち15人分が、勘定奉行により取り上げられてしまった。詳しいことは分からないが、御蔵米廻船御用の請負にあたって、地所が家質(抵当)に入っていて、その廻船御用に不埒なことがあったからだという。そして、1744(延享元)年に、家質の入札が行われ、町内の一人が、その上納を請負うことになった。それ以来、この崖地は菊坂上納屋敷と呼ばれるようになった。 それだけでは終わらなかった。さらに約半世紀後の1799(寛政11)年、今度は町奉行所の裁決により、崖地の町屋を取り払われるばかりでなく、地所までも取り上げられてしまった。理由は「隠売女御吟味有之」ということだから、幕府禁制の私娼窟になっていて、かねてから風俗紊乱の取締対象として目をつけられていたものとみられる(註18)。 この菊坂上納屋敷は、翌1800年には普請奉行に引き渡され、ほとんどは旗本と小役人の拝領地になったという(註19)。拝領地に旗本や小役人が住んだとは考えにくい。拝領地を借地にするか借家を作るかして賃貸しをしたのではないかと想像される。 ph9 菊坂通り。下にも通りがある。崕地に木造三階建ての建物。本郷4-33。2015.08.21 ph10 菊坂通り。樋口一葉が通った質屋。旧伊勢屋質店の店舗と土蔵。本郷5-9-4。2009.11.10 ph11 胸突坂。坂上の旅館鳳明館。本館(奥、本郷5-10)と別館(手前、本郷5-12)の間の通りは梨木坂。2022.05.03 ph12 胸突坂。古くはこの坂を菊坂と呼んだ。長禄(1457〜60)のころ、その辺り一帯で菊を栽培していたという。本郷5-33。2009.11.20 今年の5月3日、久しぶりに菊坂の界隈を歩いた。この日はJR駒込駅のつつじを撮影し、そのあと真砂の中央図書館で調べものをしたのだが、午後1時を過ぎたばかりなので、そのまま帰るのも惜しい気がしたのである(註20)。 図書館を北側に50mほど歩くと炭団坂である。この坂は、手すりのついた階段に整備されていて、歩きやすくなっているが、もとは切り立つような急斜面だったことから、往来する人たちが炭団のように転び落ちた。それが坂名の由来だという。案内板によれば、この坂の上に坪内逍遥が1884(明治17)年から3年ほど住んだ。またその跡地に造られた常磐会(旧松山藩の寄宿舎)には、1888年から正岡子規がやはり3年ほど寄宿している(註21)。 炭団坂を下りたところで道は二手に分岐する。まっすぐ30mほど歩くと道路に突き当たる。ここが大なだれの崖地で、突き当りの道路は本妙寺坂の溝川(大下水)の流路跡である(ph5)。私が惹かれるのは、こちらのまっすぐな道ではなく、脇道になっている狭い路地の方である。この一画の佇まいには、時の流れに取り残されたような静けさがある。途中に手押しポンプの井戸があるが、このときは、井戸端のシンピジウムやクンシュランが花を咲かせ、その傍にビニール傘が干してあった(ph4)。 菊坂町に住んだ文学者の一人に宮沢賢治がいる。下宿先は本郷菊坂町75番地(本郷4-35-4)にあった稲垣という家の二階で、部屋は4畳とも6畳ともいわれる(註22)。上記の井戸ポンプのある家から一軒を挟んだ北東側がその住所である。 写真を撮っているときは気がつかなかったが、写真を整理していて、近くに宮沢賢治旧居跡の案内板があったことを思い出した。Google地図で照合すると、賢治が下宿したその家のすぐ前を本妙寺坂の溝川が流れ、正面の大なだれの崖地には住居が建ち並んでいたことになる。場所は樋口一葉の旧宅跡から、直線距離にして80mほど東南にあたる。 宮沢賢治は盛岡高等農林学校のころから、日蓮の宗教思想に急速に傾倒するようになり、1920(大正9)年、田中智学の創設した国柱会に入会した。国柱会は純正日蓮主義を唱える在野の宗教団体である。翌1921年1月、宮沢賢治は御書(日蓮の著作、書状)と御本尊(日蓮の描いた十界勧請大曼荼羅)、それにコウモリ傘だけを持ち、花巻の家を飛び出すように夜行列車で上京した。 賢治は上野に着いた翌朝、鶯谷の国柱会館を訪ねた。応対に出た高知尾智耀理事に、下足番でもビラ張りでもするから、住込みで置いてもらえないかと頼みこむが、ただの家出人とみられ、体良く断られた。そこで東京で探した仕事が謄写版印刷のガリ版切りと校正だった。東大赤門前に、大学の講義録を販売する文信社がという小さな印刷所があった。賢治はこの印刷所に朝8時から夕方5時まで勤め、その傍ら上野公園などで行われる国柱会の路上布教に積極的に参加した。 宮沢賢治の在京期間は、わずか7カ月弱に過ぎなかった。8月中旬に、妹トシの肺炎が悪化したとの知らせを受け、花巻に帰らざるをえなくなったのである。トシは賢治の数少ない理解者であり人生の同志でもあった。このときに持ち帰ったズックの大トランクには、書きためた原稿がはち切れるほど詰め込まれていた。賢治はいつも腰に弁当のような風呂敷包みをぶらさげていた。中身は童話の原稿だった。仕事の合間をみつけ、ひたすら書きまくっていたのである(註22)。 以上は、『宮沢賢治 詩と修羅』(『毎日グラフ別冊』、1991)による(註23)。 この文学紀行では、花巻を中心にゆかりの地をたどり、写真に撮るのが私の仕事だった。宮沢賢治が37歳の生涯のなかで何度か上京しているのは資料で読んでいたが、東京は担当の範囲外だった。本郷菊坂の崖下に住んだことは、たまたま現地案内板を見つけて 初めて知った。画像データをパソコンでたどると2009年11月10日のことである。会社勤めを辞めておよそ3ヶ月後になる。今回の連載ではこの日に撮った写真を3カット載せているが、それ以降も写真の日付をみれば分かるように、本郷菊坂の界隈は、折に触れて何度か歩いている。しかし、宮沢賢治の旧居跡がその付近でも、とりわけ自分が愛着を感じていた路地のすぐ傍であることは、恥ずかしいことだが、今ごろになってようやく気づいた。なんといったらいいのだろうか。犬も歩けば、善くも悪しくも、棒にあたるのである。 【註】 註1 『日和下駄』「第六 水 附渡船」(永井荷風、『荷風随筆集 上』所収、岩波文庫、2008)。 註2 『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970) 註3 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002) 註4 『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970) 註5 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002)。文京区 かねやすビル (bunkyo.lg.jp) 註6 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」(尾張屋板、1853・嘉永6年)。〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)。「拝領町屋敷」(『世界大百科事典』) 註7 「樋口一葉と明治の菊坂」(星野尚文)。文京ふるさと歴史館だより10号 (bunkyo.lg.jp) 註8 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(平凡社、2002)。『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970) 註9 「樋口一葉と明治の菊坂」(星野尚文)。文京ふるさと歴史館だより10号 (bunkyo.lg.jp) 註10 「井戸」(田村克己、日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館)。「洗張り」(『世界大百科事典 第2版』、平凡社) 註11 『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970) 註12 同上 註13 『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」(尾張屋板、1853・嘉永6年)。〔江戸切絵図〕. 本郷湯島絵図 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 註14「津」(『精選版 日本国語大辞典』、小学館) 註15 『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970)。「中間」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』、北原章男 、小学館。および『百科事典マイペディア』、平凡社)。両書によれば、中間は苗字帯刀を許されなかったというが、『御府内備考』に載る菊坂町の地主41人は苗字を名乗っている。 註16 同上 註17「傾・雪崩・頽」(『精選版 日本国語大辞典』、小学館) 註18 『御府内備考』「巻之三五 本郷四 菊坂町」(『大日本地誌大系』(二)所収、雄山閣、1970) 註19 同上 註20 平嶋彰彦の「私の駒込名所図会」総集編 その5(最終回) : ギャラリー ときの忘れもの (livedoor.jp) 註21 現地案内板「坪内逍遥旧居・常磐会跡」(文京区教育委員会) 註22 現地案内板「宮沢賢治旧居跡」(文京区教育委員会)。『宮沢賢治 詩と修羅』「宮沢賢治の生涯と文学(畑山博)」(『毎日グラフ別冊』、1991) 註23『宮沢賢治 詩と修羅』「これからの宗教は芸術です(クレジットはないが、筆者は編集部の西山正)」、「宮沢賢治の生涯と文学(畑山博)」(『毎日グラフ別冊』、1991) (ひらしま あきひこ) ・ は隔月・奇数月14日に更新します。 次回は2023年1月14日です。 ■ 1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「 」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『』(池田信、2008)、『』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。 2020年11月ときの忘れもので「」を開催。 「平嶋彰彦のエッセイ」バックナンバー 平嶋彰彦のページへ |
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