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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第23回 2023年01月14日
その23 神田川・日本橋川—水都遊覧記

文・写真 平嶋彰彦


 連載その4にも書いたが、神田川の旧名は平川という。太田道灌が江戸城を築いた室町時代のころは、河口は大手町1丁目のあたりにあり、日比谷入江と呼ばれた干潟の海に流れを注いでいた。平川の名は皇居平川門に残っていて、私が40年あまり勤めた毎日新聞社(パレスサイドビル)はその真向かいにある(註1)。
 江戸時代の1620(元和6)年、平川(神田川)は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。いっぽうの日本橋川もこの天下普請にともない開削された人工的な河川とみられるが、その具体的な形成過程は史料的に必ずしも明らかでないという。江戸時代には、日本橋川の三崎橋から俎橋付近までは埋め立てられて堀留になっていたが、1903(明治36)年に流路として約300年ぶりによみがえることになった(註2)。
 1964(昭和35)年の東京オリンピックのときに首都高速道路ができたが、その少なからぬ部分が既存の河川の流路を利用して建設された。日本橋川はその典型であり、口惜しいことに、神田川との分岐点から河口までのほぼ全流域が、高速道路に蓋をされるような形で視界を遮られている。

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ph1 日本橋川。現在の日本橋は1911年に架け替えられた。橋の総合的な意匠は妻木頼黄による。真上を首都高速都心環状線。南詰めに小型船舶発着場がある。2012.09.15

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ph2 日本橋川。常盤橋。1877年に架け替えられた西欧式の石橋。2011年の東日本大震災のあと、9年にわたる修復工事を行い、建造当時の姿を復元した。左端は辰野金吾設計の日本銀行。2012.09.15左端は辰野金吾設計の日本銀行。2012.09.15

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ph3 日本橋川。江戸城側の土手に積まれた石垣。対岸には石垣は確認されない。災害時に、被害が城内に及ぶのを防ぐためだといわれている。2012.09.15

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ph4 日本橋川。一ツ橋。両端にも水路を設けている。奥に見えるのは錦橋。画面の範囲外だが、傍にパレスサイドビルがある。2012.09.15

 2012(平成24)年9月15日、神田川と日本橋川を船で廻る小さな旅をした。今回の連載エッセイに載せた写真20点はそのときに撮影したものである。
 会社勤めを辞めて間もなく、早稲田大学写真部の旧友たちと街歩きをはじめた。この水辺遊覧はその第17回目。参加したのは多久彰紀、宇野敏雄、福田和久、伊勢淳二、柏木久育と私の6人。現在の会員は9人。その後、菊池武範、笹井温迪、鈴木淑子が加わり、街歩きの会は2022年12月現在で109回を数える。
 10年前になるこの年、7月も8月も炎天下を歩いているのだが、天気予報では猛暑はまだしばらく続くという。たしか柏木君からの提案だったと思うが、小型水上バスで東京の川廻りをすることになった。私たちが乗ったカワセミという船名の水上バスは、東京都公園協会の水辺ラインに所属していた。災害時の緊急対策を目的に造られた船舶なのだが、平常時には遊覧船として運用されているのだという。
 水上バスの発着場は日本橋の南詰にあった。集合時間の30分前に着くと、すでに福田君と柏木君が待っていた。乗船はならんだ順番だということで、柏木君が一番札を手に入れていた。周りを見渡すと川廻りの遊覧客と思われる人だかりがあちこちにできている。団体の遊覧客を引率する旅行代理店の人や通りすがりの人にチラシを配る人もいる。この日は3連休の初日だったからかもしれないが、東京の水辺に遊ぶ観光が静かなブームになっているように思われた。
 水辺ラインの遊覧コースは、東京スカイツリーを廻るものなど、他にもいくつかあったが、私たちが選んだのは日本橋川と神田川を一回りするコース。日本橋川をさかのぼり、三崎橋で神田川へ、それより神田川をくだり柳橋から隅田川へ、さらに日本橋川の河口へ向い、これをさかのぼり出発点の日本橋へもどる、というものだった。所要時間は約80分。

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ph5 日本橋川。南堀留橋。奥は俎橋。江戸時代には、このあたりから三崎橋までは埋め立てられていたが、1903年になって、水路として復活した。2012.09.15

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ph6 日本橋川と神田川の分岐点。三崎橋の千代田清掃事務所三崎町中継所。収集した不燃ごみを艀船に積み替え、東京湾の埋立処分場へ運ぶ。奥は小石川橋。2012.09.15

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ph7 神田川。水道橋。白山通りのJR水道橋駅のすぐ傍。水道橋の地名は、神田上水の水道の樋が橋の東側を渡っていたことに因む。2012.09.15

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ph8 神田川。川めぐりの小型水上バス。水道橋とお茶の水橋の間。神田川は1620年に平川の放水路として開削。1660年に舟が通れるように拡幅工事が行われた。2012.09.15

 思い起こせば、長谷川堯の『都市回廊—あるいは建築の中世主義』を面白いからぜひ読んでください、と薦めてくれたのもたしか柏木君である。私の3年後輩になるが、早稲田の写真部には珍しい博学の怪人である。『昭和二十年東京地図』(『東京ラビリンス』)の取材を始める直前だった。『都市回廊』は、建築の知識に疎い私には、どこか馬の耳に念仏の感があった。しかし、分からないながらも、目を覚まされるような考察が随所に散りばめられていた。次に引用する文章もその一つである(註3)。
 妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通りぬける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定したのではないか、という点に思いあたるのだ。
 「妻木」は妻木頼黄で、辰野金吾とならぶ明治建築界の巨匠である。「この橋」は日本橋のこと。現在の日本橋の橋梁は1911(明治44)年に竣工した。その総合的なデザインを手がけたのが妻木頼黄であった(註4)。
 橋は水路と陸路の交錯する所に架かる。橋は陸路の端と端を結ぶと同時に、水路を陸路に連結する。陸路が流通の主流になるのは明治以降である。それまでは海や川あるいは湖などに開かれた水路が交通の主流を占めた。日本橋に白亜のアーチ橋がかけ替えられたころは、江戸時代からの魚河岸がまだ健在だった。また、江戸橋から鎧橋・茅場橋にいたる川沿いには、諸国からのまたは諸国への物資を取り扱う多くの倉庫がならんでいた。諸国の範囲は日本六十六カ国ばかりではなく、西欧の先進国をはじめとする国際社会も含まれた。
 パリの凱旋門はシャン・ゼリゼの大通りの端に位置するエトワール広場にある。妻木頼黄はこの凱旋門に日本橋を見立てたのではないか、と長谷川堯はみている。日本橋は五街道の起点である。常識的に考えれば、中央通り(通り町筋)がパリのシャン・ゼリゼに相当する。しかし、妻木は陸路の中央通りではなく、日本橋川に水上のシャン・ゼリゼを幻視した。そして川面からの視座による橋梁の総合的な意匠を密かに構想した、というように長谷川堯は解析しているのである。
 私の家は父親も祖父も船乗りだった。中学のころは、私も船乗りになるつもりでいた。高校へ進学してもいいといわれたので、水産高校の機関科を受験することを考えたが、父親から止めたほうがいいと反対された。海の仕事は斜陽産業でこれから先は見通しが暗い。船乗りは留守が多いから嫁の来手も少ない。それが理由だった。父親は東京港でタグボートの船長をしていた。1960(昭和35)年ごろの話である。
 宮本常一が1960年代の山口県柳井市の街並みに言及した印象深い記述がある(註5 )。柳井は宮本の郷里である周防大島の本州側の対岸に位置する港町である。町内を柳井川が流れ、その河口に古くから美しい街並みが形成されていた。
 この川(柳井川)は満潮時になると海水がさしてくる。町屋は川の上に張り出してたてられたものもあり、ここでは家がまだ川を背にしていない。家が川に向いあっているところでは川はきれいである。そういうところでは川へゴミをすてない。ところが家々が川を背にすると、容赦なくゴミを川に捨てはじめる。ここ1年あまり私はこの町をおとずれていない。いまも川が美しいだろうかと思ってみる。町は表通りが厚化粧をしはじめると裏側はたいていよごれて来るものである。そして昔みたような清潔な感じがきえる。
 街並みの背景には、そこに住む人間の暮らしと生活がある。海や川が生き生きと機能していれば、必然的に建物もそれに向けて表情を整えるようになる。宮本常一は生涯を民俗学の旅に費やしたことで知られるが、旅の途中でこれはと感じるものがあれば、努めて写真に撮るようにしていた。10万カットに及ぶ写真の被写体は実に様々である。しかし、海であれ山であれ、水辺の景観となると尋常ではないこだわりを示した。柳井は東京と比べれば規模の小さな町であるが、宮本常一のこの指摘は消失した日本橋川に沿った街並みにも通じているように思われる。

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ph9 神田川。お茶の水橋から見た聖橋。橋名は両岸の湯島聖堂とニコライ堂を結ぶことから。現在も進行中のお茶の水駅改良工事は、この川廻りの直後に始まった。2012.09.15

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ph10 神田川。聖橋。関東大震災後の復興橋梁の1つ。設計には山田守が携わった。水上バイクで川遊びをする人たちと行き交う。2012.09.15

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ph11 神田川。昌平橋の付近から見たJR総武線の鉄橋。奥に聖橋と丸ノ内線の鉄橋。右側の岸辺に列をなす建物は相生坂に面していて、その向いに湯島聖堂がある。2012.09.15

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ph12 神田川。万世橋の下からお茶も水方面の眺望。左手前はJR中央線の高架。もとは甲武鉄道始発駅の万世橋駅がここにあった。奥は昌平橋と総武線鉄橋。2012.09.15

 連載その5で『1960年代の東京』について書いている(註6)。著者の池田信は無名のアマチュア写真家である。本業は東京都の職員で、日比谷図書館の資料課長を務めていた。東京オリンピックを3年後に控えた1961(昭和36)年、休日になると決まったように東京の町中をひたすら歩いて写真に記録することを始めた。
 池田の没後、遺族から毎日新聞社に寄贈された撮影フィルムおよそ200本をそっくり見せてもらった。フィルムをたどると、池田が都心の川という川を隈なく歩き、橋という橋を漏らさず撮ろうとしていたことが分かった。日本橋川では首都高の建設工事が始まっているのだが、池田は河口の豊海橋から神田川の分岐点三崎橋までのほぼすべての橋と周りの景観を写真に収めていた。そればかりか、日本橋川の支流である箱崎川・亀島川・楓川・築地川・桜川(八丁堀)・京橋川・汐留川・浜町川などにも足を延ばしている。亀島川を除いた支流のすべてが埋め立てられてしまい現在は存在しない。
 この写真集は、写真選びから写真キャプションさらにページ構成まで、私一人で編集した。副題を「都電が走る水の都の記憶」にしているが、これは池田の写真から長谷川堯の『都市廻廊』を直ちに連想したからである。長谷川によれば、幕末に来日したA・アンベールは江戸の都市構造を水の都ベニスの憧憬と比較しながら論じている。近世における江戸の街並みは東洋のベニスとも称すべき水辺の都市空間に映ったのである(註7)。
 池田信には『みなと写真散歩』の自費出版がある。そのなかで、東京の街並みをなぜ写真撮るかについて、こんなふうに述べている(註8)
 オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。/昨日までの町は壊され、掘割は乾されて自動車が走り、川の上には高速道路ができて、(中略)、確かに東京はきれいになりました。そして昔を偲ぶよすがも見当たりません。
 オリンピックの名目のもとに、東京の河川とそれに沿った街並み、そういってよければ、水の都ともいうべき江戸・東京の文化が、理不尽に破壊されようとしていた。池田信は東京生まれの東京育ちだったから、心情的にそれを黙視するわけにはいかなかった。だからといって、なにができるわけでもない。せめて写真に記録しておこうとしたのである。

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ph13 神田川。万世橋。現在のRCアーチ橋は1930年に架け替えられた。旧橋は筋違門を壊した石で造られた眼鏡橋(万代橋)。いまよりやや上流にあった。2012.09.15

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ph14 神田川。美倉橋付近から秋葉原方面の眺望、正面は和泉橋。真上を首都高1号。左は柳原土手。右は佐久間河岸。いまはびっしりビルが建ちならぶ。2012.09.15

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ph15 神田川。浅草橋から柳橋のあたりには船宿が残り、屋形船や遊漁船の船溜まりになっている。奥州街道の入口。江戸時代には浅草見付門があった。2012.09.15

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ph16 神田川。柳橋。隅田川への合流点。現在の橋は1928年の竣工。南詰の記念碑に正岡子規の2句。「春の夜や女見返る柳橋」、「贅沢な人の涼みや柳橋」。2012.09.15

 長谷川堯の『都市廻廊』は、1975(昭和50)年に相模書房から刊行された。その「あとがき」に、同じ年の2月に佃島の釣舟を借り、日本橋川と神田川を周遊した次のような感慨深い文章がある(註9)。首都高速道路が完成してから、ということは、池田の陸上からの水辺行脚の撮影から、およそ10年後になる。さらにいうなら、私たちが小型水上バスによる水辺遊覧をしたのは、長谷川が『都市廻廊』の「あとがき」書いてから、37年という時間が過ぎていることになる。
 そこ(永代橋)を左に折れて豊海橋を入ると昔ながらの日本橋川だ。(中略)茅場橋、鎧橋とくぐりぬけていくうちに、私には奥へむかって進んでいるという実感がたしかにあった。江戸橋へさしかかると頭上に鉄の自動車路が左から襲いかかり、私の秘かな奥行を犯しはじめる。高架自動車道路の円い橋脚が前と後を串ざしにして、日本橋は幽囚の身をかこちながら、私たちの不意の訪れを、ゆったりと翼をひろげて無表情にむかえた。(中略)
 舟は日本橋の大きなブロックの切り石のアーチの下をくぐりぬけてさらに行進する。薄ぐらい高架道路下を、一石橋、新常盤橋から、常盤橋、辰野金吾の日本銀行が右手にみえる。鎌倉橋から一ツ橋、右に如水会館をみてさらにいくと三崎橋を最後に、私の都市廻廊のひとつのシークエンスが終わる。つまりそこであの神田川に出会うのだ。黄色いカテドラル!(中略)私の都市くぐりの終着として場外売場とはいかにもふさわしい。(中略)
 三崎橋を右に折れて日本橋川(誤り。正しくは神田川)を下ると水道橋からお茶の水、山田守氏の設計したときく壮大な聖橋を高いところにみてさらに進むと、私の水の廻廊は再び柳橋へ出て終わりを結ぶことになる。

 私たちの小型水上バスによる水辺遊覧は、長谷川堯のそれと違って、日本橋が出発点であり、終着点だった。もう一つの違いは、長谷川堯の文章は進行方向の眺めを記述しているが、私の写真は船尾から後方を撮っている。したがって、長谷川堯の文と私の写真では左右が逆になる。
 「奥へむかって進んでいるという実感が」の「奥」は、水上のシャン・ゼリゼの端にある日本橋を指すのはいうまでもない(ph1)。「江戸橋へさしかかると頭上に鉄の自動車路が左から襲いかかり」というのは、首都高速都心環状線の江戸橋JCTのことで、道路が水面近くまでのしかかり、トンネルのように薄暗い。(ph20)。高架下を進むと常盤橋があり、「辰野金吾の日本銀行が右手にみえる」とある(ph2)。常盤橋は1877(明治10)年にそれまでの木造橋を架け替えた西洋建築の石橋である。2011年の東日本大震災で崩落の危険が生じたことから、約9年におよぶ修復工事を行い、建造当時の姿に復元した(註10)。
 さらに上流へ向かって進んでいくと、やがて「鎌倉橋から一ツ橋、右に如水会館」が見えてくる。私が勤めていた毎日新聞社は一ツ橋のすぐ傍のパレスサイドビルにあった(ph4)。「ときの忘れもの」の綿貫不二夫と出会ったのも、このビルである(註10)。如水会館は日本橋川を隔てた真向かいにある。建て替え前の旧館はパレスサイドビルの優美な姿と共に、私の会社員時代を彩る水の都の忘れがたい憧憬である。
 三崎橋は日本橋川と神田川の分岐点である。「都市くぐりの終着」が「黄色いカテドラル!」とは。まさかというか、さすがというべきか。私の目に止まったのは、その真向かいにある千代田清掃事務所三崎町中継所だった。千代田区と文京区で収集した不燃ごみをここで艀に積み替え、東京湾の埋立地にある処分場へ運ぶのである(ph6。註12)。
 三崎町から柳橋までの神田川には首都高速道路はない。それだけでも充分に清々しいのだが、川面から眺める東京は、ふだん見慣れている東京とはまるで別世界のような斬新さがある。なかでも「水道橋からお茶の水、山田守氏の設計したときく壮大な聖橋を高いところにみる」と長谷川堯のいう駿河台の大スペクタルは、小型水上バスによる水辺遊覧の圧巻といってもいい(ph8〜ph11)。

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ph17 隅田川。水上バス「さくら」と行き交う。正面は清洲橋。東詰は清澄。西詰は日本橋中洲、その奥に、この年の3月に完成したばかりの東京スカイツリー。2012.09.15

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ph18 日本橋川。豊海橋。隅田川への合流点。1927年の竣工。「橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり」(『断腸亭日乗』、永井荷風)。2012.09.15

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ph19 日本橋川。茅場橋付近から湊橋方面を見る。画面右は日本橋川と亀島川の分岐点。ここから上流は首都高速道路が真上に覆い被さってくる。2012.09.15

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ph20 日本橋川。江戸橋から日本橋までの間。正面は江戸橋。首都高速都心環状線が川面近くまで迫る。画面左手には関東大地震まで、日本橋の魚河岸があった。2012.09.15

 私が東京に出てきたのは1965年で、東京オリンピック翌年になる。神田川が早稲田大学の近くを流れていたが、そのころは汚染がひどく悪臭が鼻をついた。長谷川堯が川廻りをした1975年に私は毎日新聞社に勤めていた。一ツ橋から見下ろすと、日本橋川に魚影は見られず、ドブネズミが岸辺に溜まったゴミの間を駆けまわっていた。
 あのころと比べれば、日本橋と神田川は驚くほどきれいになった。しかし、なにか物足りない気がするのはなぜだろうか。考えてみれば、小型水上バスと水上バイクのほかに、船を見かけたのは、三崎橋の清掃事務所中継所と浅草橋・柳橋付近の船溜まり、そして後述する豊海橋の船溜まりの 3 ヶ所だけであった(ph6、ph15、ph18)。
 『江戸名所図会』をみれば、神田川と日本橋川は行き交う舟であふれている。『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(鈴木理生編著)で調べると、江戸時代から明治時代までの神田川にはこの外にも、紅梅河岸・昌平河岸・佐久間河岸・柳原河岸・鞍地河岸・左衛門河岸が形成されていた。日本橋川についていえば、俎河岸・小出河岸・錦河岸・鎌倉河岸・裏河岸・西河岸・魚河岸・四日市河岸・末広河岸・鎧河岸・行徳河岸・兜河岸・茅場河岸など多くの河岸があった(註13)。
 私は船をみると胸が騒めく。生れ育った家からは貨物船や漁船の行き交う太平洋が見晴るかせた。先に書いたように、父親と祖父が船乗りだったせいもある。人生は片道切符で引き返せないが、もしかしたらもう一人の自分がそこにいるという想いがあるのである。
 小型水上バスは柳橋から隅田川へ出たあと、永代橋のあたりまで下り、そのすぐ北側の豊海橋をくぐった。そこが日本橋川の河口である。橋の周りは船溜まりになっていて、遊漁船やレジャーボートなどに混じってタグボートが係留されていた(ph18)。半世紀も前のことが昨日のことのように思わず目に浮かんだ、私の父親の乗っていたタグボートは、仕事のないときは芝浦埠頭の南端にある船溜まりに停泊していた。
 妻の両親の菩提寺は港区の芝1丁目にある。習志野の自宅から湾岸道路を経由して、春秋の彼岸や正月と盆の墓参りをする。誘われるように目をやると、その船溜まりの真上に現在はレインボーブリッジが覆い被さるように架かっている。

【註】
註1  平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その4 : ギャラリー  ときの忘れもの (livedoor.jp)
註2 『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』「江戸東京全河川解説」(鈴木理生編著、柏書房、2003)。『江戸はこうして造られた』「第二章 2徳川の江戸建設」(鈴木理生、ちくま学芸文庫、2000)
註3 『都市回廊—あるいは建築の中世主義』「第一章 りうりうと仕上がつたのでお芽出度い」(長谷川堯、中公文庫、1985)
註4  同上
註5『私の日本地図4 瀬戸内海T広島湾付近』(宮本常一、同友館、1968)
註6 『1960年代の東京—路面電車の走る水の都の記憶』(池田信、毎日新聞社、2008)。
註7 『都市廻廊—あるいは建築の中世主義』「第一章 水上のシャン・ゼリゼ」(長谷川堯、中公文庫、1985)
註8 『みなと写真散歩』(池田信。自費出版、1968)
註9 『都市廻廊—あるいは建築の中世主義』「あとがき」(長谷川堯、中公文庫、1985)
註10 千代田区ホームページ - 都内最古の石橋 常磐橋の修復完了〜江戸城枡形門のひとつ国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋、5月10日に通行開始!〜報道機関用ボート乗船のご案内(橋の裏側もご覧いただけます)(令和3年4月27日配信) (chiyoda.lg.jp)
註11 平嶋彰彦の「私の駒込名所図会」総集編 その2 : ギャラリー  ときの忘れもの (livedoor.jp)
註12  三崎町中継所 (chiyoda.main.jp)
註13 『新訂 江戸名所図絵T』(市古夏生・鈴木健一校訂、ちくま学芸文庫、1996)。『図説江戸・東京の川と水辺の事典』「第四章 江戸・東京の水系」(鈴木理生編著、柏書房、2003)

(ひらしま あきひこ)

 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年3月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

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