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井桁裕子−私の人形制作
第3回 「コミュニケーションと肖像人形」 2009年12月20日
人形を凝って作り始めると、そこにXXが宿る
XXを漢字2文字で埋めて下さいと言ったら、何を入れるか、回答を募集してみたいですが....。
「魂が宿る!」と言いたくなる人がきっといるのですが、それはオカルト方面に行っちゃいますので、やっぱり漢字2文字という限定でないといけません。

私が自分で人形を作り始めたのは、ただ可愛くてよくできた人形が売っていないから自分で作ろうとしたというのが始まりです。その後、自分の自画像としての人形を制作し、しばらく人形をお休みしました。しばらく写真を撮ったりして、やがて現実の人の顔を粘土で作るように
なりました。はじめは彫塑習作、といった感じで、顔だけ作ってみたり、何をどうしたいのかよくわからないまま作った生首を並べていました。

ある時、美貌の歌手Mさんにモデルをしてもらった折りに、体も作りたいので全身見せて欲しいと頼んだら快くOKしてくれました。私はそれをそのまま慣れ親しんだ球体関節の人形にしてしまい、まだなんとなくあやふやなまま、「面白い!」と思いました。人形というのは意思のない存在で、とりわけ球体関節のそれはハンス・ベルメールの流れを汲んだ物であるからしてどことなく冒涜的な感じがする。
そういう形の中に我が道を行く表現者の面影を組み込んでしまうというのはいかがなものか!?
井桁裕子
「歌う女」
1997年
しかし自分の意思がどれだけ自由であっても身体はひとつの物体であって本人にとっても自由ではないのです。今思えば、自分の意思でさえ自分の物でない場合がありますが、とにかくそれほど人は自由ではない。勝手に私が作った相手の顔も体も、本人にとってはきっと不本意なものに違いない。その点が他者とのコミュニケーションという意味でも似ているのです。

彼女(彼)の自分が描いている自己像と、私が見ている像。それはまったく違う物であるはず。
互いに向き合った角膜のはざまに蜃気楼のようにできあがる像が、肖像なのです。私はなるべく誠意をもって相手に接し、それでも決してその人には届かない。

私は相手の語ったことや、願望などを人形の中に作り込んでいくようになり、作品には、なにやら個人の秘密のエピソードを封じ込めなくては気が済まなくなっていきました。私は変質者のように相手の面影を渇望して、何ヶ月もかけてあらゆる断片をかき集めて、結局何も手に入らず、人形だけが残るのです。
私は、人形が悲しげに見えたり喜んで見えたりというのは、自分がそう感情移入しているせいだと思っています。問題は、生身の人間にたいしても同じ事をやっていて、人と心が通じているように感じているの自分の思い込みではないかと心配なことです。
小さい子どもを抱っこすると実に幸せで陶然としますが、もちろん子どもは人形ではなく、赤ちゃんだって機嫌を損ねたらタイヘンなことになるわけです。小さなかわいいものを猫かわいがりしたい、という欲望は常に健全に裏切られます。男性にとっての女性のことはもはや言うまでもないでしょう。生身の存在と人形と、どちらがどちらの代用品なのかと、皮肉なことを考えてみたりします。

人形を作っていて、その造形に宿ってしまうのは何か。
それはXXです。と、私の答えは決まっていますが、最後まで伏せ字にしておきましょう。
(いげた ひろこ)


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