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井桁裕子−私の人形制作
第12回 「肖像は謎とともに・『プチ良秀』」 2010年6月10日
前回、あれで一区切りにしようと思ったのですが、どうもあれでは中途 半端で終われません。長くなりますが、もう少し続きを書きたいと思います。

前回書いたマリオ.Aさんは当時、国内外の現代美術に関する諸々について教えてくれる、先輩のような存在でした。ただ話だけでなく、自分の展示イベントに使う「マウリツィオ・カテランMaurizio Cattelan」の肖像人形を私に作らせ、某ギャラリーのZ氏に私を紹介してくれました。
私は、Z氏の画廊で個展をして、その後、現代美術館の展示も決まりました。
マリオさんの忠告は、「売れない作品など作ってせっかくのチャンスを棒に振らないように」という意味合いのことだったはずです。ところがもともと自分の人形では「世に出ない、出られない」と思っていた私は、その忠告は自分には的外れなものだと思っていました。
マリオ・ドールLove(右)とPain(左)
いずれにしてもマリオさんのアドバイスは役には立ちませんでした。
2004年の「球体関節人形展」のオープニングレセプションで、金田さんの肖像人形を見たZ氏は、大きな背中をかがめて内緒話のように 言ったのです。
「あんな、体に顔がついてるようなのどっかで見たことあるよ。アイデアが古いよ。もっと頑張ってくれないと。」
私はたとえばチャップマンブラザース(Jake and Dinos Chapman)の顔に性器の付いた全裸の少女像などと比べているのだろうと思い、あれの後輩に分類(?)されるのかと少し不安になりました。
結局、その後あまり会う機会が無いまま、Z氏とはなんとなくご縁がきれてしまいました。

私は、個人の病をその人の生命の一部として表現することで、個人を越えた何かを描けるのではないか、と思っていたのです。そして、この制作は金田さんの心意気に捧げたつもりでした。しかし彼がいなくなってしまうと、私はそれは自己満足ではないかと疑い始めました。
人形への真剣な感想も、美術館でのアンケートとして多く寄せられましたが、もしかしたらZ氏の感想のほうがいわゆる美術の見方としては普通なのではないか。
私は彼のプライバシーとともに、本当の命の瀬戸際を悪ふざけのように扱って、楽しく笑うつもりで心の準備をしている人々の眼の前に放り出したのかもしれません。一方、そうでない人にとっては、あざとくて無神経なものとして感じられるかもしれないのでした。
こういう事を私は予想できなかったのだろうか?それはあまりに、愚か過ぎる。


私は芥川龍之介の「地獄変」を思い出しました。
「堀川の大殿様」に仕える「良秀」という高慢で酷薄な嫌われ者の絵師の話です。良秀は不気味なほどの腕前を持ちながら、命ぜられた地獄絵の中心をどうしても描けず苦しみ、思い詰めたあげく、自分の目の前で牛車に女を乗せて焼いてもらえまいかと殿様に頼んでしまう。すると良秀を憎んだ「大殿様」は、その願いを聞き、良秀の溺愛する美しい一人娘を牛車とともに無残に焼き殺してしまうのでした。
私がその小説を読んだのは、何かと問題児だった12歳の頃でした。私は、通っていた絵画教室ではあちこちの児童絵画コンクールに入賞して、むやみにプライドが高くなってしまい、賞が金賞でなければがっかりするという子どもでした。思えばその態度はいろいろと恥ずかしく、私はまるで小さな「良秀」のようでした。しかし良秀の、その殺される娘より幼かった私は、当然ながらこの物語をおぞましいとしか思いませんでした。

「地獄変」の良秀は、最愛の娘が炎に包まれて焼け死ぬのを、恍惚とした異様な表情で見届けました。そして息をのむような凄まじい屏風絵を仕上げ、絵を献上した翌日の晩、首をつって死ぬのです。
一方大人になった「プチ良秀」の私は、良秀の法悦とはほど遠い不安な心境で、病と闘う金田さんを造形しました。
そして自分の半端な情熱にふさわしく、あてもなく社会生活から脱線しつつあるのでした。



それから4年の月日が流れて、2008年夏のことです。

私は金田さんの人形と久しぶりに向き合っていました。実家に置いてあった人形を、「お出かけ」の前に塗り直していたのです。あれほど苦しかった気持ちは、懐かしさに近いものになっていました。

お出かけ、とは以下のようなことです。
数ヶ月前にある人から、新しい画廊を始めたC氏を紹介されたのです。C氏は、なにやらひょうきんな物腰の仕事熱心な人でした。「香港のクリスティーズに出しましょう!なんか作品ないですか?」とそのC氏に言われたのです。訳もわからずびっくりした私ですが、C氏はおおいにやる気でした。
香港クリスティーズは11月とのことでした。
発表済みの出せる作品.....といったら、金田さんの肖像しか手元にはありません。そこで7月、私はその準備のために作品の手直しにかかっていたのでした。

「僕にまかせて、井桁さんは作品のことだけ考えてたらいいんです」
「アトリエなんてすぐ持てますよ!」
C氏はこんな甘い殺し文句(?)を言うのですが、そのような言葉でうっとりする私ではありません。
この時は、なんであれ金田さんの人形がもう一度日の目を見るのが、嬉しかったのです。
ただC氏の言う「日本人作家はバンバン売れる」というのが本当なら、「1.お金持ちが投資と勘違いして買ってしまう。2. やがて湿った倉庫でカビだらけ」といった事が私は心配でした。
そもそもC氏自身が私の作品についてはあまり理解していないらしいのでした。

運を天に任せるつもりで、私は肖像をどんな湿気にも負けないようにと願いながら油彩でしっかり塗り上げました。
「あの作品の本当の意味がわかった」という金田さんの残した言葉は、謎のまま残されていました。
肖像が、冒涜ではなかったのかという不安を隠したまま、私はまだお墓参りにも行かれていませんでした。お墓は浜松にありましたが、だいたい私はお墓などというものと金田さんを結びつけて考えられなかったのです。彼がまだどこかにいて、訪ねて行ったら会えるような、そういう気持ちで居たかったのです。
塗りおえた金田真一氏の肖像人形
7月の終わり、作業を終えて東京へ帰ると、私は映画を一本観ることになっていたのを思い出しました。「休暇」という映画でした。勧めてくれたのは2年前に映画「アリア」の人形制作の時に知り合った高橋雄弥さんでした。高橋さんとは当時とくに話題もなく、おだやかな好青年という印象でした。ちなみに彼とは、「掌の小説」というオムニバス映画の4つの中の一本「不死」という美しい作品の監督として、今年の春の公開時に再会したばかりです。

高橋さんは、「休暇」は自分が関わったからという意味だけじゃなくて、ぜひ多くの人に観て欲しい映画だ...と言うのでした。それは、他人の死を見つめ、それと引き替えに自分の人生を生きるというような、実に重い内容らしいのです。
(いげたひろこ)

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