井桁裕子のエッセイ−私の人形制作 第20回 「ポーランドへの旅(後編)」 2011年2月20日 |
石畳の街は、新しい建物とかなり古そうな建物が同居しています。
外観の手入れが行き届いていなくても、それがさびれた感じには見えないのが不思議です。 東欧は、ほかには展示で行ったモスクワしか知りません。 数年前にモスクワに行ったときは、重厚長大で歴史ある建造物の、入り口のところにチープで派手なネオンサインが付けられていることがしばしばでした。 (写真はKGB御用達の「ペキンホテル」のカジノ看板。歴史ある三つ星ホテルなのに入り口に突然怪しい賭場を作ってしまった!) 空港も、モスクワの空港は茫漠たる広さの中、なぜかウェイトレスの少女がアメリカ国旗のエプロンをしている店があったりします。 一方、ポーランドではそういう「突然アメリカナイズ」というようなキッチュなものはまず見ませんでした。 古都クラクフにもマクドナルドがありました。クラクフは至る所が歴史的な建物なのですが、そこも古くからある石造りの建物です。 しかしそのマクドは建物を修復する費用を出すのと引き替えに出店を許されたとのことで、内部はしっとり古く居心地よく、ファーストフード特有の軽薄さがありません。 このセンスを支えるのは間違いなく自国の文化への強い誇りですが、マクドにしても、やたらに排除するわけではなく落ち着いてそれを楽しむ余裕があるという気がしました。 カトヴィツェでは、この地方をかつての炭坑の街から文化都市へと再生させる計画が進められています。 街を案内してもらいながら、「ここに公園を作るんだ」「この駅舎を建て替えるんだ」といった話をいろいろと聞きました。 2016年にヨーロッパの歴史的なイベントがあり、その中心都市にカトヴィツェも立候補しています。 キャンペーンの看板があちこちに下がっていました。(写真は小さな公園にあるその看板。かたわらに大きな顔のオブジェが!) しかし街で感じる人々の明るさは、こうした発展を目指す都市の勢いのせいばかりではなかったと思います。 大切にしてきたものを、努力してあるいはごく当たり前に、大切にしているのです。 「カトヴィツェは気に入った?」と聞かれて、「コハム、カトヴィツェ!」と私は言いました。 "私はカトヴィツェを愛しています!"文法的に正解だったかどうかちょっと怪しいですが、伝わったようです。 〜〜〜 ポーランドに来たら、必ず行かなくてはと思っていた場所があります。 アウシュビッツ強制収容所です。 ポーランドの地名としてはオシフィエンチムと呼びます。 そこはカトヴィツェから車でさほど遠くありません。 こちらに来る前、私は自分でいろいろしなくてはいけないと思って緊張していたのですが、結局至れり尽くせりで全部面倒をみてもらってしまいました。 オシフィエンチムにも始めに空港で出迎えてくださったジェゴスさんに連れて行って頂きました。 外国人はフランス語、英語などそれぞれのガイドに連れられて団体でバスに乗り、修学旅行の生徒のように案内してもらいます。 私は英語のガイドさんに付いて12人ほどの団体に混じることになりました。 アジア系の青年達が数人混じっていましたが、日本人はいませんでした。 まず、鉄条網で囲われた広大な場所の、整然と並んだバラック群へ。 バラックの内部は家畜小屋に似ていました。 しかし、サイズが牛でも豚でもなく人間のための寸法なのでした。 何も無い野原に延々と続く規則正しい鉄条網の柱、幾本も走るまっすぐな線路。 囚人達を運んできた貨車も残されていました。 ここがやがてすぐにいっぱいになって、さらに大規模なビルケナウ収容所が作られたといいます。 その線路の終点まで行くと、ガス室の破壊された瓦礫の山がありました。 ナチスが証拠隠滅のために爆破して去ったものでした。 ここでどれだけの人間が折り重なって死んだのか、もうそれを想像するよすがは残っていません。 大きな慰霊碑にはたくさんの花束が手向けられていました。 アジア系の見学者のなかに、線路好きらしい二人組カメラ小僧がいて、立派なカメラでしつこく線路の写真を撮っていました。 私も彼らに劣らぬ線路好きなので、もしこれがただの田舎の廃線だったら、その長くまっすぐなパースペクティブの撮影を楽しんだと思います。 私は、この場所で何か「楽しいこと」をする気になれず、そして撮影はどうしても楽しいものになってしまうので、結局写真は撮れませんでした。 次に有名な「働けば自由になる」というあの看板のある収容施設へ。 その内部に資料展示があるのです。 こちらの建物に、あの噂に聞いていた「切り取られた髪の毛の大きな山」や「めがねでできた山」などが保管されているのです。 義足だけを集めた場所もありました。また、使用された毒ガスの原料の空き缶も、よく溜めておいたと思うのですが、やはり山になって展示されていました。 シモンさんのマネージャーをつとめるSさんの「報告書」にも、アウシュビッツでの感想が書かれてありました。 フランス語のガイドさんについたとのことでしたが、語学に堪能なSさんでも「半分ほどしか理解できなかったが、すべての説明が理解できなくて幸せだと感じた」と述べられていました。 理解できない言葉、それはつまり普通の文学には出てこない残酷な語彙だったからなのでしょう。 ガイドさんの説明はかなりの情報量だったはずですが、都市名や簡単な単語しか聞き取れませんでした。 しかし、ほとんどの場所は見ればわかるものでした。 囚人達が「シャワーをあびるのかと勘違いした」というガス室、そのすぐ隣に焼却炉がありました。 おぞましいほど効率的に作られていたのです。しかし、焼却施設はその規模が足りなかった、という説明のようでした。 外の一つの壁の前に、慰霊のランプがたくさん置かれていました。 濃さを増していく夕闇を照らす光の波は、お墓で見たそれと同じように美しかったのです。 今思うと、この旅の象徴となったものの一つがこの鎮魂のランプでした。 私のアウシュビッツでの写真は、ありません。 ここに載せられるものがなくて少し残念ですが....。 〜〜〜 出発前、「旅なんて本で読めば同じだった」とF先生から言われたおかしな思い出が心によぎっていた私でした。 しかし実のところ旅は、迷子とか恥ずかしい言い間違いとか飲み過ぎとか腰痛とか重量オーバーとか、失敗がたくさんあるのが大きな違いでした。 そういえば、F先生はいつも反対のことを言って人を幻惑させる方だったのでした。 ならばいっそ「本で読んだほうがより良い」くらいのことを私に言うべきでした。 この旅に、私はこんな長旅でしか読めないと思われた本を一冊鞄に入れて行きました。 それは旅先に関わりのある本でしたが、それで終わらずに読書が連鎖して、今も時代と場所をはるかに広げながら旅は続いています。 ポーランドも奈良も、帰って来てから長い旅が始まるのでした。 実を言うと今回ポーランドで展示した「フジタドール」のモデルになってくださった方が、誰あろう、F先生だったのです。 人形がいろいろな所に私を連れて行ってくれます。 *
(いげたひろこ) 「井桁裕子のエッセイ−私の人形制作」バックナンバー 井桁裕子のページへ |
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