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井桁裕子のエッセイ−私の人形制作
第21回 「井桁裕子―私の人形制作 第21回」 2011年3月20日
ほんの少し前の平穏な日々が嘘のようです。
これを書いている今も、被災地では命に関わる状況が続いています。
苦闘されている方々を思い、言うべき言葉も見つかりません。
そして日本は世界で最初に核兵器の使用された国ですが、原子力発電においても世界でまれに見る事故を体験することになってしまいました。

このような時期にそぐわず申し訳ないのですが、なぜか思い出す事もあり、そのことをたどって書かせて頂こうと思います。
「升形山の鬼」のできるまでの話になると思います。
〜〜〜
2008年、私は長崎へ行きました。
長崎は私にとって何かと思い入れのある場所で、いつかきっと訪れたかった所でした。
その憧れと出掛けるきっかけの両方を作ってくださったのは銅版画家の渡辺千尋さんでした。
渡辺千尋さんは、厳しい姿勢を保ち続けた多才な作家であったと同時に、私にとっては舞踏家の吉本大輔さんを紹介してくださった方でもあります。
今思えばほんの数年、けして多くない交流だったのです。それだけに貴重な記憶となりました。
渡辺さんはポーランドとのご縁も深く、展覧会をしたというお話も伺いました。
(こう書いて思い出しましたが、ポーランドが憧れの地になったのも渡辺さんの影響があったのでした!)
故郷・長崎での回顧展があった1年後の2009年8月に、渡辺さんは食道癌のため64歳で急逝されました。

(写真は長崎での回顧展の会場で踊る吉本大輔さん、そして息をのんで見守る観客と渡辺さん。そして爆心地のモニュメント。)



渡辺さんとの出会いは2003年、小平市・鷹の台駅前の松明堂ホールでした。
私は金田さんの「闘病日誌」制作に8ヶ月も集中していて、久しぶりの遠出をし、門坂流氏の銅版画展を見に行ったのです。

線はすべて重なることなく、識別がやっとの細かさで存在します。
人の手が刻んだはずの線は個人を越え、永遠を思わせる大気の流れや空間を作り上げています。
それはビュランという鉄の刃で銅板を刻む、気の遠くなるような過酷な作業の集積なのです。
そこで初めてお会いした門坂さんとお話している間に、銅版画仲間の渡辺千尋さんが会場に現れたのでした。
黒々とした豊かな髪と口ひげのおかげでとても若々しい渡辺さんは、実は門坂さんより少し年上であるとのこと。
笑顔で「毒舌」を繰り出しては門坂さんを困らせるのでした。
展示会場にいた他の初めてのお客さん方も交えて数人で、会場の近くの焼鳥屋さんへ。

初対面とは思えないような愉快な晩でした。

その後、渡辺さんから貴重な銅版画集「象の風景」を送っていただきました。
(この作品群はチェコ国立版画美術館に収蔵されています。)
作品の描き出す「風景」はなぜかなんの関わりもない私の原風景と重なり、私は呼び起こされた郷愁を書かずにはいられず、長い長いお手紙を送りました。
すると渡辺さんはさらに著書「ざくろの空・頓珍漢(とんちんかん)人形伝」(河出書房新社)「殉教(マルチル)の刻印」(小学館)を送ってくださいました。

(版画作品:象の風景-無風地帯、書籍表紙)

頓珍漢人形とは、かつて長崎駅前の土産物屋で売られていた、手のひらにちょこんと乗るような小さな素焼きの人形です。
その人形を一人で作り続けた作家・久保田薫の足跡をたどり記録した評伝が「ざくろの空」です。
一人追い詰められてゆく作家の心の軌跡が、残された日記を頼りに生々しく描かれていました。


一方、「殉教の刻印」も舞台の始まりは長崎でした。
長崎に残されたキリシタンの銅版画「セビリアの聖母」を復刻したいという相談の電話を、渡辺さんは島原半島の有家(ありえ)町から受けたのでした。
初めは「復刻してくれる人に正確に伝え」るために調査を始めた渡辺さんでしたが、それが日本で初めて作られた銅版画、しかも自分の故郷で作られていたことを知り、衝撃を受けます。
「セビリアの聖母」の制作された1597年は「二十六聖人殉教事件」の起こった年でした。

関西で捕らえられた外国人宣教師と信徒達が長崎・西坂の丘へ連れてこら処刑されたのです。
調べてみれば、まさにその丘、彼らを祀る教会は渡辺さんの育った坂の上の家から日々眺めていた場所だったのでした。

(写真は西坂の丘にある二十六聖人記念館と教会、壁面には舟越保武制作の記念碑。紹介HPより)

その凄惨な虐殺を見つめながら聖母像に取り組んだ400年前の版画家の熱を、視線を、渡辺さんは身近に強く感じたのでした。
そして「事件のさなかに(彼は)聖母に何を託してビュランを握っていたのか」と問いながら復刻の大仕事に自ら取り組む決意をされたのでした。

(写真は記念館内のフランシスコ・ザビエル像、復刻版「セビリアの聖母」)

この本は銅版画の謎を調べながら復刻を進めていったドキュメンタリーですが、その中心をなすエピソードとして渡辺さんの旅があります。
初めは保管された原画を見る許可がおりず、それを見ないことにはどうしても取りかかれなかったのです。見なくても技術だけで復刻は可能なのだが、そこに踏み込むには何か強い動機、必然性が必要だったと書かれていました。
聖画としての宗教性には届かないならば、その存在に踏み込むために殉教者の歩いた道をたどってみよう...と思い立って、渡辺さんは奥様と一緒に大阪・堺から長崎の西坂まで800キロに及ぶ徒歩の旅をされたのでした。
版画が完成し、有家町の皆さんとともにローマ法王に献上しに行かれた後も、渡辺さんの旅は残された疑問を追ってスペインへと続きます。
歴史の謎をたどる旅は運命的にも見えますが、仕事をするうえでの渡辺さんの姿勢がそれを選んだと言えると思います。
小手先でなく心からの共感をもって事にあたろうとすると、自分の中に必然を求めてしまう。
しかし必然というのは一度その一端を自分の内に見つけてしまったら、それを捨て去ることが不可能になってしまうものだと思います。

表現はどんな状況でも人生とともにあるのでしょう。
「ざくろの空」の頓珍漢人形も、お土産屋で売られる安い商品でありながら、同時に久保田馨の喜び苦悩する命そのものの造形でした。
戦時中、物資の乏しくなりつつある頃、ほかの画家達が絵の具の買いだめに走る中、愛光(愛は雲偏)はそれをしなかったそうです。
奥さんがそれを尋ねると「絵は絵の具で描くものではない。泥でだって絵は描ける」と答えたのだそうです。
また、アウシュビッツでは、飢餓状態に陥り奪い合いになるような貴重なパンをとっておき、小さな指人形を作って子供達を楽しませた人がいたのだそうです。
このようなことを思いながら、結論めいたことは何も書けないのですが。


2006年12月、渡辺さんから手紙を頂きました。
「吉本大輔舞踏公演’06 エロスとタナトス」のチラシが入っていました。
友達の公演で、是非おすすめしたいとのことでした。
チラシのメインビジュアルは渡辺さんの版画でした。
私はそれまであまり舞踏と呼ばれるものを見たことがありませんでしたが、良い機会だから行こうと思ったのです。


次号へつづく。(いげたひろこ)

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