井桁裕子のエッセイ−私の人形制作 第28回 「壁の中の珍客」 2011年10月20日 |
秋も深まってきたこの頃です。
ある晩、自宅の電話をかけようとして受話器をあげると、なぜか電話が使えなくなっていました。 電話が壊れたのかと思いましたが、配線をひっぱると、どこまでもずるずる出てきます。 食器棚の裏側の電話用コンセントにつながっているはずの線は、なぜか途中でちぎれていたのです。 そういえば、昨夜、電気を消して何も動くものもないはずの室内でカリカリと音がしているのを、私は聞いていたのでした。 ついに、このアパートにもしっぽの長い彼らがやってきたらしい.....。 窯や食器棚をずらして裏を見ると案の定、黒い糞と、噛み切られて食べ残しのざるそばみたいになった電話線が落ちていました。 ご近所で猫を飼っているお宅によると猫が居ても駄目で、そちらでは風呂場の石けんが齧られたそうです。 以前から都心部のビルに巨大なクマネズミが出没するのは知られていますが、温暖化の影響で、一般家庭にも進出を広げているとのことでした。 しかし私の部屋では、石けんもお米も食べられた様子がありません。 電話線や壁の中を齧るのは適度な歯ごたえを求めてやっていると思われます。 もちろんほかにも齧られたら困る物が部屋にはいろいろあります。 昔から、ネズミが齧ると言ったらお餅やお雛様で、うちはお雛様系のもっと大きいモノが日々成長している場所なのでした。 ためしにGoogleで「ネズミ お雛様がかじられる」で検索すると、なんと3万4千件以上もヒットしました。 この数字には、日本中でお雛様の鼻が齧られ続けているといった勢いを感じます。 昔のお雛様の材料は純粋に桐粉とデンプン、仕上げはニカワと胡粉ですから、いかにもネズミ向きの歯応え満足な自然食と言えましょう。 ついでに「せっけん かじられる」で検索すると三倍も多く15万6千件のヒットで、お雛様よりセッケンのほうがずっと被害発見件数が多いとみられます。 ネズミにとっては石けんのほうがずっと高カロリーで、コッテリ系の味わいなのかもしれません。 私は近いうちに実家に帰らなくてはならず、その留守中に何が起こるか心配になりました。 本体の素材には上記のほかに木工ボンドを混ぜているのですが、その程度の添加物では気にせず齧ってくるかもしれません。 その後の数日間、物音はさらに活発化しました。 ある晩などは、私の目の前に出て来て横切って行くことさえあったのです。 まだ若く毛艶のいい小柄なネズミは、黒い目で私をじっと見つめた後、台所から走って来てこちらの部屋の押し入れに入り込み、やがてかけてある服を上って、天袋へ入って行きました。昔の作品などがしまってある場所です。 私は唖然として見ている事しかできませんでした。 この古い木造アパートは、近所の大きな建物の解体と建築工事の震動に2年間揺すられ続け、さらには3月以来続いた地震のせいで、ずいぶん傷んでいます。 このうえ鼠に齧られては....と私は不安になりました。 階下に住む友人に話すと、さっそくネズミ用の毒餌を買って来てくれました。 * 翌日、坪川監督から電話がありました。 いよいよ11月に、映画「ハーメルン」の撮影があるのです。 昨年、突然の豪雪に阻まれて中止になった撮影が、諸々の事情で突如再開となったのでした。 打ち合わせの日程の事や、近況などを聞いているうちに、あの音が.....。 私が猫だったら、片耳だけくるりと反対側を向くところです。 「今、台所のほうでごそごそやっている!!」などと実況中継を交えつつ毒餌をもらった話をしようとしたら、坪川さんは「あっ、大きい声で言わないほうが」とそれを遮りました。 「聞こえると、バレちゃうから。」 ネズミに知れると作戦失敗だと言うのです。まさか、と思いましたが、北海道の大自然とともに育った人の発言をあなどってはいけないのです。 そういえば、私が昔飼っていた猫も、話題が自分の話になると明らかに意識して挙動不審になっていたのを思い出しました。 階下の友人が差し入れてくれた毒餌は、まだそのままになっていました。 私は「殺生をするのはどうも....」といった曖昧な葛藤を抱えたまま、ついに箱を開け、小袋に入った毒餌を台所や押し入れの壁際に置きました。 翌日見ると、冷蔵庫の脇に置いた袋の一つが齧られ、中身をきれいに食べ終わっているのが発見されました。 私は、ひたとこちらを見つめたネズミの黒い目を思い出し、そうか、君、食べてしまったか....しかも完食、となんとなく悲しい気分になりつつ、そのままにしてまた翌日見てみました。 すると、食べ終わった小袋の上に、どこから持って来たのか、焼きそばの粉末ソースの使い残しの小袋が、袋の穴をふさぐかのようにそっとかぶせてありました。 その小さなインスタレーション作品の発表を最後に、その後、毒餌は残されたままになりました。 それを片付けて、私は実家に帰り2泊3日部屋を留守にしました。 床に置いてある物を齧るようなので、舞踏家・高橋理通子さんの大きな人形も仕事机の上に乗せて出かけました。 友人たちに尋ねたところ、アパート暮らしの人は聞けば誰しも一度はネズミと共存した過去を持っているようでした。 ネズミ算という言葉もあるほどで、情けは禁物な相手のようです。 とにかく今後事態は悪化すると覚悟を決めてアトリエ兼住居に帰ってきました。 しかし、その後それきり室内には怪しい音がしなくなりました。 どうも拍子抜けです。 あの毒餌が数日経ってから効き目を発揮したのでしょうか.....。 それともせっかく「展示」した作品を捨てたので怒って出て行ったのでしょうか。 来月初旬は、いよいよ「ハーメルン」の撮影で福島へ行ってきます。 ついに、そして今だからこそとも言える貴重な映画だと思います。 写真は、映画の中の人形劇シーンに登場する人形遣い、黒谷都さんです。 (写真:坪川拓史監督撮影、人形は「ユトロ」ちゃん。) 黒谷さんは、いわゆる一般的な人形劇のイメージを越えた、大人が鑑賞するにふさわしい芸術性の高い作品を作り続けてこられた方です。 観ていると、身体とモノの境界線が崩れる快感と感動があります。 京王線沿線の「せんがわ劇場」にて、来年は春に「人形演劇祭」が行われ、黒谷さんもプロデューサーとしてだけでなく出演される予定もあります。 ご関心のある方はぜひ今からチェックしておいてください。 しかし「ハーメルン」が動き出したとたんにネズミ騒動というのはあまりに出来過ぎです。 ちなみに映画にはネズミは出ませんので、あの伝説はあまり関係ないのですが....。 (いげたひろこ) 「井桁裕子のエッセイ−私の人形制作」バックナンバー 井桁裕子のページへ |
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