井桁裕子のエッセイ−私の人形制作 第29回 「映画「ハーメルン」/昭和村へ!」 2011年11月20日 |
思えばこの連載もしつこく続いております。
振り返れば昨年の同じ時期、私は奈良の「国際彫刻展」から急いで帰って、そのあとポーランドに行ったのでした。 本当は奈良のあと、映画の撮影に立ち合うため福島県の昭和村に行くはずだったのです。 しかしその年、物語の要となる黄金のイチョウはまだすっかり緑色、しかも早すぎる豪雪に見舞われ、撮影は苦渋の決断のすえ中止となってしまったのでした。 それから早や1年。 ついに今年、俳優さんが現地入りしての撮影が行われたのでした。 いろいろなことが流動的で、今年撮影すると私がはっきり聞いたのは8月末頃でした。 急な話でスタッフの人手が足りず、大変なことになりそうだ、とも聞いていました。 そのうえ、撮影場所の廃校まで、駅から山を越えてくるバスが1日に3本しかなく、車を運転して来る人以外はみんな新幹線の駅まで往復3時間かけて送り迎えをしないと出入りできないのです。 俳優さん達もぎりぎりの日程で参加されているし、山の天気は変わりやすく、まして日の短い11月です。 あらゆる意味で余裕の無い現場なのでした。 映画の中で、主人公が少年の頃に見た人形劇一座が出てくるシーンがあります。 その一部を今回のロケ「秋編」で撮影し、10日間の撮影の最終日、私も昭和村に行ってきました。 * 人形劇の部分について特筆したいのは、人形遣いの黒谷都さんが出演される事です。 http://web.me.com/kugutsume/Site/genre_Gray.html 前に2007年完成の映画「アリア」で人形を作らせてもらった時は、小松政夫さんがコメディアンらしい洒落た老パペティアーを演じられました。 それは胸に迫る大切なシーンとなりました。 しかし一方で私は、黒谷都さんの感覚的で繊細な世界、あの無意識を揺さぶるような不思議なモノとヒトとの交感の舞台が大好きでした。 あの技術と存在感がほかならぬ坪川監督の映像の中で観られたらどんなに素敵だろうとも思っていたのです。 それから2年を経て、2009年5月、ストライプハウスギャラリーで、黒谷さんと松沢香代さんのユニットKu in Kaによる「楽園」の上演が行われました。 http://striped-house.com/2009.05-1.html そこで初めて公演を見た坪川さんから黒谷さんへの出演依頼があり、黒谷さんもその場で快諾されました。 坪川さんを強引に公演に連れて来た甲斐があった.......私はその会話を聞きながら、あたまの上でくす玉が割れて紙吹雪と鳩が舞い「おめでとう」の垂れ幕が落ちてくる幻覚を見たのでした。 その後、ロケ先は会津地方に確定し、監督は現地に通い続けるようになっていきました。 福島県大沼郡昭和村、喰丸小学校。 このあたりは名前こそ「昭和」ですが実は古くからあるいくつかの集落で、合併によってこの名前になったのでした。 次の映画で人形劇が出てくるという話は実は2008年の夏くらいからありましたが、黒谷さんには舞台の人形を作る松沢さんをはじめとして不可欠なお仲間がいるので、私は素人の自分が関わるのは遠慮しようと思っていました。 が、結局いろいろ勉強しながら作るということで落ち着き、実際の作業期間は2010年、4月頃から長い猛暑の夏を越え秋風が吹きだす時期までとなりました。 その年はいくつもイベントが重なった事、また私にとっては未経験の分野でもあり、いろいろ使わない物も作ってしまったりして結局人形とその付属品に半年近くもかかってしまったのです。 資金問題その他で何度も企画中止の局面を越えて苦労を重ねている監督を横目に、必ずや撮影が行われると信じて試行錯誤を繰り返していくのはなかなか私なりに精神力が必要な日々だったのでした。 前にも書いた気がしますが、ただでさえ人形を作る作業中の私はあまりハッピーではなくて、出来上がってようやく晴れ晴れする、マラソンのような状態です。 普段は出来たあと写真を撮ったりするだけですが、今回は黒谷さんに動かしてもらえるのが何よりの楽しみだったのでした。 :写真は坪川拓史監督、撮影の合間の黒谷さん。 * 昨年秋の撮影中止の知らせの後、もう一度さらなるショックが襲ったのは翌年、まだ寒い3月でした。 あの日、私は自分の部屋にいました。 おかしい、なぜ止まらないんだと思いながら、激しい揺れの中でめちゃめちゃになっていく部屋を呆然と見ている事しかできませんでした。 津波の被害は、まだ初期の頃は想像を越えた事態が起こったとしかわかりませんでした。 福島第一原発の爆発の映像は、アパートの友人たちと寄り合ってテレビで見ました。 ただ心配事を言い合うだけでしたが、一人でなかったのはありがたいことでした。 原発近くの人々はどれだけ不安な状態におかれているかとも思いました。 私は10代の頃に読んだ「東京に原発を!」という広瀬隆氏の著書にあった、事故を想定したイラストつきのシミュレーションを思い出そうとしていました。 それを読んだのは、まだ青森県六ヶ所村で再処理工場施設の建設反対運動が行われていた頃でした。 福島第一だけでもこのような致命的な状態になるというのに、日本の人々の多くは延々と、原子力の「安全神話」を信じ込まされてきたのでした。 こんなことになってしまって、もう映画どころではないかもしれない....「ハーメルン」はどうなるのだろう? 多くの方々が被災し、まだ全貌すらつかめない被害状況の中で、その疑問はまだ言葉にするのも憚られる気がしました。 しばらく日が経ってから坪川さんと連絡がとれました。 状況さえ許すならもちろん撮影したいという意味の言葉を聞いて、何か希望のようなものが感じられてきました。 壊れそうだった木造の廃校は、あの地震でもまだ奇跡のように持ちこたえているというのでした。 実際、いわゆるクランクインは昨年で、すでに山の美しい雪景色なども撮影が行われて写真がウェブにアップされていました。 脚本はそれまで、架空の村として描かれていました。 とある集落に、一人の青年が、子どもの頃のあやまちをそっと心に抱えながら帰ってくるのです。 取り壊される予定の小学校に、もと校長先生が一人で居場所を守っています。 都市に暮らして国際競争力や経済成長を語るような視点からは見えない物語がそこにあります。 この村から人々を、子ども達を連れ去ってしまったのはなんだったのか。 震災後、物語の架空の村の名は、「昭和村」に変わりました。 そこに出てくる人々は、現実に存在する村の人々になりました。 「ハーメルン」は、昭和村の、現在の福島の物語になったのです。 (次回へ続く) :写真は、撮影に使用中の喰丸小学校内部、そして昭和村の夜空に浮かぶ満月。 (いげたひろこ) 「井桁裕子のエッセイ−私の人形制作」バックナンバー 井桁裕子のページへ |
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