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井桁裕子のエッセイ−私の人形制作
第30回 「映画「ハーメルン」/織り姫の住む村で」 2011年12月20日
12月、急に毎年おなじみの「年末」がやってきました。
変わりなく制作を続けていられる自分を申し訳ないように思ったり、そしてそんな個人のささやかな感傷には関わり無く、社会全体の環境も身の回りの小さな環境も後戻りできない大きな変化を抱えている、はちきれんばかりの日々をともかくも括ってしまう年末です。
先日、板橋区立美術館に「池袋モンパルナス展」を観に行きました。
泥沼の戦争へと突き進む時代、彼らの気持ちも私のように揺れただろうか、もっと図太く清々しかったろうか、などと思いながら茶色がかった絵肌を見つめました。
震災後、一つだけ良いことをあげるなら、それは、本当に大切な問題について多くの人がしらけずに受け止め話し合うようになったことではないかと思います。

前回、映画「ハーメルン」のロケで昭和村へ行った話の続きです。
11月10日に現地入りと決まったとき、行きの交通はともかく、帰りの話はわからないような雰囲気でした。
私は帰りが翌日に伸びても大丈夫なつもりで支度をしました。
2011年11月11日の11時11分、私はこの瞬間が楽しみでした。
東京と福島のどっちにいて、何をしているだろう?
これは「辻占」のようだと思いました。
辻占とは、道ばたに出て、偶然出会う事や人の言葉によって未来を占うというものだそうです。



人形劇のシーン、すなわち撮影最終日はくっきりとした快晴でした。
ロケ現場の校庭には銀杏の葉が散り敷いていました。
イチョウの見頃の時期は短いものですが、その最も良い10日間を計ったかのように撮影日程が組まれ、天候にもかなり恵まれていたのでした。
劇中の「人形劇一座」は楽団が3人と人形遣いが一人の小さな一座です。
私は撮影の合間に人形を運ぶくらいで、なるべく邪魔にならないようにウロウロしていました。
子ども達の観劇シーンでは、昭和村の小学生全員、39人が参加してくれました。
あっというまに日が落ちていってしまい、同時にどんどん寒くなるので、子ども達は待ち時間には毛布をかぶって頑張っていました。





撮影が終わると、夕刻を過ぎた空は真っ暗で、慌ただしく撤収です。
ほとんどのスタッフの皆さんはもう翌日から次の現場が待っていて、それぞれの車で帰ってしまいました。
あれこれ思いめぐらしながらずっとずっと待っていたその日が、ページをめくるように過ぎて行った気がしました。
撮影はいったん終わりですが、まだ春に続きがあります。
人形劇のシーンも春に続く予定ですが、残念ながらそれは昭和村ではないのでした。

帰りは、私は翌日まで待って車を出してもらう方が良さそうだったので、スタッフルームとして借りてあった「田舎暮らし体験住宅」に移って一晩泊まる事になりました。
行ってみると、そこの片付けきれていない自炊用の台所や大量の布団などから、過酷な撮影期間の二十数人の「生活」のあとが偲ばれたのでした。


翌日は、一転して雨でした。
私は午後に車で送ってもらうことになりましたが、それまでとくにすることもありません。
前日から校舎の2階に置かれたピアノの運び出しが大問題になっていて、私はかなり本気で手伝うつもりだったのですが、そういうわけにもいかないようでした。
宿泊施設の布団がたくさんあったのでせっせと畳んでみましたが、すぐ終わってしまいました。
地元の方が坪川監督を訪ねてこられ、たまたまお相手した私となぜか記念撮影したりして(人形抜きの私だけではつまらなくないかと思ったのですが)、しかしまだまだ時間があります。
せっかくなのだからお昼まで散歩に出てきたら、と勧められました。
散歩といっても道は一本しかなく、その道は昨日まで撮影が行われていた喰丸小学校に続いていました。
折りたたみ傘をさしながら、しばらくぶらぶら歩いても出会う人もなく、美しいはずの山々も低い雲に隠れていました。


そういえば11月11日11時がもう迫っていました。
私は自分が出発前に「辻占」などと考えたのを思い出しました。占いはこのままでは何のご託宣(?)もないままに、雨の中見知らぬ旅先の一本道を一人あてどなくさまようという芳しからぬ結果になりそうでした。
昭和村そのものは素敵な場所なのであって、にもかかわらず私のあり方に何らかの間違いがあり、ここになにかもう私の未来まで続くあらゆる失敗の数々が表現されているかのようなまずい気分になってきました。
辻占なんて考えつかなきゃよかった、もう引き返して掃除かなにか勝手に手伝って過ごすぞ!と私は決心しました。
そしてふと向かい側を見ると、一軒の民家に目がとまりました。
入り口が開いていて、黒板にチョークで手書きした立て看板があります。
Toaru cafe(とあるカフェ)というのがそこの屋号で、「からむし織り」の体験ができると書かれています。
私は昨日、学校のすぐ隣のこのカフェの話を誰かに聞いて、黒谷さんと「行ってみたいですね」と話したことを思い出しました。
いつしか喰丸小学校の手前まで来ていたのです。


そこはカフェと言っても畳を敷いた普通の民家でした。
このあたりでは「織り姫」と呼ばれる、からむし織りの作家のお一人、齋藤環さんが迎えてくれました。
機織り機が置いてあり、手で草の繊維をもみながら根気よく糸を作っていくことなどお聞きしました。
二階に上がると宿泊もできるようになっていて、窓からは小学校のイチョウがよく見えました。
本棚があって、谷川俊太郎の「愛のパンセ」という本を選んで適当に開くと、「失恋とは、相手にきらわれるのは失恋ではなく、相手を恋する事ができなくなっている側のほうが本当に失恋というのだ、などと奇妙な事を言い張る友人がいる」という話のページでした。
「おお、これって辻占っぽいかも」などと思いつつ眺めていると、齋藤さんがお茶をいれてくださいました。

齋藤さんは、8年前に神奈川からこちらに移住されたとのことでした。
生活の中に自然に織りがある暮らしがしたかったので、昭和村の移住体験に応募して、そのまま決めたのだそうです。
昭和村にはそういった形で伝統を受け継ぐ「織り姫」が他にも何人も住まわれています。
そのように自分の居場所を定める話というのは、はたから聞いていると何か不思議な感じがするものです。
ここは豪雪地帯で、真冬は「この一階の入り口が雪に埋まってしまう」、そんな時期は出稼ぎに行かれるとのことでした。
もとは神奈川の方ですから、そういう生活全てを8年前から初めて体験しながら慣れて行かれたわけです。
斉藤さんにとっての「織りのある暮らし」の意味深さを思いました。

もう一人の若い女性は、台湾のかたでした。
雪かきなどのボランティアで来てくださっているというのでした。
台湾のような暖かい国からよくぞ雪国に来られたものだとも思うし、また、原発の問題もいまだ続く中で本当にありがたいことだと思いました。
震災被害はほとんどなかったこの村ですが、非常時でなくても海外からのボランティアを必要としているのだということを私はそれまで知りませんでした。

写真:齋藤さんと私と機織り機/「古民家ゲストハウス・とある宿

私はこのとき、2年後にはアパートの建て替えなのでそれまでに立ち退くようにと大家さんから告げられたばかりでした。
震災で傷んでしまったからと言われると、仕方がありません。
この前ネズミを追い出したら、今度は自分達が出て行く番になったのです。
十数年住んで馴染んだ便利な街、何よりも仲良くなった人々とお別れしなくてはならないのかといった事が、私の中でほかの深刻な社会問題とごちゃ混ぜになって、思い出すたびに気が沈む日々だったのです。
制作を続けながら暮らして行く、私の場合はどこにその答えがあるかまだわかりませんが、このように自分の居場所を自分で選んだ人の話を聞けたのは心強い気がしました。

淹れて頂いた珍しい紅茶はとてもいい香りで、私は最後の一口を飲み干しました。
齋藤さんが、あっ、と言って時計を見て微笑みました。
2011年11月11日、11時11分11秒が過ぎて行きました。

帰ってからひょんなことで知ったのですが、昔の地名でいう会津郡に、かつて「井桁村」という村があったのだそうです。
そこが井桁という名字のルーツらしいのです。
「ハーメルン」の笛吹き人形に連れて行かれた「見知らぬ旅先」は、思いもよらない過去の時間ともつながっていたのでした。



〜〜 東京に「応援団」ができました!こちらもぜひごらんください。
映画「ハーメルン」製作応援団東京支部開設!/響和堂Blog 『 湧玉 wakutama 』
http://kyowado.exblog.jp/17155083/
(いげたひろこ)

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