井桁裕子のエッセイ−私の人形制作 第34回 「Self portrait doll と金木犀」3 2012年4月20日 |
Self portrait dollの展示などしていた頃、不思議な「友達」ができました。
彼女は、砂糖菓子のように愛くるしい外見とは裏腹に、突如、断固とした自己主張を展開するところがありました。 「人とうまく付き合う」などという考えは始めから無いようでした。 「可愛いから甘やかされてわがままな性格なんだ」という単純な判断で、私も彼女をほとんど嫌っていたのです。 親しくなってからも「この人これじゃ女の友だちができない気がする....」と時折思いました。 高校時代は運動部の紅一点のマネージャーだったそうで、魅力的過ぎる彼女を巡っていろんな問題が巻き起こったようでした。 そのほぼ自慢といえる過去を聞いた私は「昔から困ったヤツだったんだなぁ」などと密かに納得したのでした。 しかし、彼女をそう思う私自身も人のことは言えず、彼女とはまた違う形で世の中の人々とも自分自身ともうまくいかない人生を歩んでいました。 こういう変人同士が仲良くなるのはなかなか難しいものですが、私の作った「壁」をやすやすと越えてきたのは彼女の方でした。 その日、ちょっと死角になっているいつもの場所で、私は呼吸を整える為に座っていました。 20代の頃、私はよく過呼吸の発作を起こしていたのでした。 彼女は私に具合を尋ね、見せたい物があると言って何かリーフレットのコピーを差し出しました。 そこには詩のような宣言文のような言葉が書かれていました。 記憶しているのは、おおむねこのような内容でした。 傷つけられながら今まで生き延びて来たあなたたち もう下を向くのはやめよう あなたたちは過酷な状況を生き延びて来た そのことに誇りを持とう 私たちは尊敬を込めて、あなたたちを「サバイバー」と呼ぶ それは、幼児期に虐待を受けた人の相互支援サークルの紹介リーフレットでした。 「私、今ここに通っているの。いろんな人が来てるよ。もしイゲチャンにも必要だったらと思って。」 .....私たちは、みじめな被害者ではなく、ここまでの人生を闘って生き抜いた勝者である..... そこに書かれていた「サバイバー」という言葉、その考え方は小さな衝撃でした。 しかし、それまでろくに話をしたこともなかった彼女が、なぜ突然私にこの集まりを薦めたのか、不思議に思いました。 彼女は幼い頃に、近所の林に連れて行かれ、幼児ポルノのような写真を撮られました。 撮ったのは父親で、写真は父親が自分の友人に売っていたのだそうです。 彼女は、その事の意味を知って以来ずっとそこから逃れられず苦しみ続けてきたのでした。 その、始まりから間違ってしまった自分のあり方を修正しようとする態度が、人間関係で軋轢を生んでいるらしい事が私にも見えてきました。 彼女が、周囲がとまどうほど自分の権利を激しく主張するのは、もう二度と自分を他の人の思いのままにさせはしないという、マグマのような怒りの発露だったのでした。 彼女は小さな子どもを一人抱えて、もうすぐ離婚するということでした。 私はそのサークルには連絡をとりませんでしたが、「サバイバー」という観念は深く心に残りました。 やがて時が過ぎてお互いに連絡が途絶えてしまいましたが、彼女がどこかで私と同じように生き延びていることを信じています。 * 当時は、「アダルトチルドレン」とか「自分探し」といった言葉が世間に出回りだした頃でした。 もともとは精神医学の分野などで使われた切実な言葉だったかと思いますが、今ではそんなことを言うと鼻で笑われてしまうほど手垢がついてしまいました。 90年代は、鬱病や摂食障害、睡眠障害など、それまで一般に認知されてこなかった精神障害について多くの本が出版され関心を呼びました。 意識されていなかった問題に名前がついて、同じような苦悩を持つ人々が経験を共有できるようになったのはとても前向きな事でした。 あの「完全自殺マニュアル」が出版されたのも1993年ですが、私はこれは主に男性読者を想定して書かれている気がしました。 私たちよりも年配の方たちがよく「自分たちの若い頃は生きるのに精一杯で、くよくよ悩んだりしてる暇はなかった」というような事を言われます。 確かに戦後の社会の様々な大きな矛盾の中では個人的な「生き方」の問題など浮かび上がっては来なかったでしょう。 自分のことよりも社会をどうするかの方が主要な論点だったと思うのです。 80年代の狂躁的なバブルが崩壊し、それでもまだその後よりは余裕があった90年代、そんな時期だったからこそ社会や経済ではなく個人の不安が意識されやすかったのだと思います。 女性が見つめる心の闇、そして光の側にあったのがヌードでした。 雑誌「an-an」では、希望する一般女性読者を撮影した素晴らしいヌードの特集号がありました。 五味彬氏の「Yellows」も1993年に出版され、大きな話題となりました。 女性が、身体を自分自身として誇る気持ちに支えられて、それらのヌードは撮影されたのです。 生まれ持った身体は、男達の娯楽として品評されたり選んでもらうための卑屈なものではなく、もちろん出産のための「機械」でもない。生きる喜びをしっかり感じ取る肉体が、誰の為のものでもなく、自分そのものであることの証明に選ばれたのがヌードという表現でした。 今思えば、当時私が感じていたそういう状況の範囲の中でだけself portlate dollは成立していたのです。 ヌードが、何らかの意味で心身の自由と関係してとらえてもらえない状況の中では、裸の人形というのは無力の象徴と受け取られてしまいそうです。
今、国際的に話題になっている「抗議のヌード」があります。 欧州に亡命したイラン人女性たちが、女性抑圧と闘う意図で自らのヌード写真を印刷した「革命的カレンダー」を制作したのだそうです。 そのカレンダーへの支持を訴えた動画もYou Tubeで観られます。 ご存じの通りイランは、女性は厳重に体を覆い隠さなければならず、姦通罪などに対して石打ちによる死刑が宣告される国です。 (「亡命イラン人女性 、Iranian women in exile」などと検索するとニュースがいろいろ読めます。) 動画:「Nude Photo Revolutionary Calendar」 ニュース 女性の身体への宗教的、ポルノ的な扱いへの挑戦であるこの活動は、「革命的などではなく単にヌードで売っているだけ」といった批判もあり、国内外で激しい論争になっているようです。 言うまでもなく、これは彼女達自らの表現というのがポイントであって、誰か商売の元締めが居て女性達の裸が男性達に売られているのとは違います。 「そういう商売の自由」は今更勝ち取るようなものではありません。 ヌードになったイランの女性達は、まさにサバイバーです。 彼女達はただ生き残っているというだけではなく確実に多くの人を勇気づけています。 しかしその「自由」はどれほどの強さと賢さと犠牲をもって闘いとられているのでしょうか。 個人の自由を訴える主体的なヌードの真逆にあるのが幼児のポルノです。 一昨年、児童ポルノの規制問題で議論が巻き起こっていました。 あちこちで意味の無い「自主規制」が行われ、憤った人も多くいたと思います。 一方で、本来問題にされるべき幼い少女達のポルノ画像はネットでいくらでも出てきます。 私の懐かしい友人が苦しみ続けたような、おぞましい事は今も繰り返されているのです。 結局、昨年の震災以来、児童ポルノ問題は良くも悪くも忘れられている気がします。 「生きるのに精一杯で、くよくよ悩んだりしてる暇はない」時代がまたやってきているのかもしれません。 それはしかし、昔とはまた違うものだと思います。 「今」というのは結局どんな時代でも、それなりに精一杯のような気がするのです。 (続く。) 〜〜 今月27〜29日に行われる「アート京都」ときの忘れものブースにて、吉本大輔さんの肖像人形「枡形山の鬼」を展示します。 関西方面にこの作品を持っていくのは初めてです。私は初日しか居られないのが残念ですが、とても楽しみにしております。 (いげたひろこ) 「井桁裕子のエッセイ−私の人形制作」バックナンバー 井桁裕子のページへ |
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