ときの忘れもの ギャラリー 版画
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小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」
第4回 授乳と写真  2013年9月25日
(図1)
Are You Mom Enough?
(『TIME』2012年5月21日号表紙)

妊娠中は絶えず「お腹」が意識の中心を占めていましたが、出産後に毎日何度も授乳するようになり、娘が一歳になるまでの授乳期間は四六時中「胸」が意識の中心を占めるような状態でした。母乳が出るようになったことで、哺乳類としての自分の存在を意識するとともに、出産以前とは違う仕組みで自分の身体が機能していることを強く自覚するようにもなりました。PCになぞらえるなら、妊娠・出産を機に「OSおかあさん」という新しいオペレーティングシステムがインストールされて身体が作動するようになったのでは、と感じるほど授乳期の心身の変化は大きかったように思います。
授乳を止めることを「卒乳」や「断乳」と呼んだり、「乳離れ」という言葉が親からの自立を意味したりするように、授乳には育児の段階や、人の成長をはかる上で大きな意味合いを持たされています。また、子どもに栄養を与えるという側面にとどまらず、母親と子どもとの間に密接なつながりを築くという側面からも授乳が重要視されたりもします。そのため、子どもに授乳する母親に対しては、周囲の家族や社会からさまざまな視線を注がれたりすることもあります。
近年話題になった写真の一例として、2012年5月21日に発売されたアメリカの雑誌『TIME』誌の表紙(図1)を見てみましょう。白い空間の中にシンプルなタンクトップとパンツを纏ったスレンダーな体型の女性が、腰に手をあてて正面を見つめており、傍らには小さな椅子の上に立った男の子がおっぱいを飲むように女性の乳首をくわえた状態で、女性と同様にカメラの方に視線を向けています。この女性は、特集記事の中でウィリアム・シアーズ博士の提唱する「密着育児(長期の授乳や添い寝など、親子の密着を重視する育児法)」を実践する母親の一人として紹介されています。雑誌の刊行当時、写真に添えられた「Are you mom enough?(あなたは母親として十分ですか)」というやや挑発的な見出しと相まって、授乳の姿勢としては不自然な母親と三歳の息子のポーズや、演出の仕方が物議を醸したりもしたそうです。たしかに、母親のファッションモデルのような堂々とした態度と、母親に従うかのような息子の位置関係や表情も含め、この写真は見た目にも強いインパクトを具えており、大きな反響を呼んだことも頷けます(個人的には、男の子の履いている迷彩柄パンツが軍隊を連想させることもあり、余計に「服従」という印象を強く受けます)。
『TIME』のようなメジャーな雑誌で、授乳にフォーカスをあわせた特集記事が組まれる背景には、粉ミルクによる育児がいち早く進んだアメリカで、近年母乳育児の良さが改めて見直されているという事情があります。また、このような母乳育児への見直しと関連して、欧米では公共空間で授乳することの是非が、胸を露わにすることが猥褻行為にあたるのかどうかという観点から物議を醸し出しており、公共空間で授乳する権利を主張するためのデモが行われたりもしているそうです(詳しくはこちら)私自身も、授乳期は外出する時に、外出先に授乳室があるかどうかを事前に調べたり、多目的トイレを探して授乳したこともあります。授乳のために頻繁に胸を出すことが生活の一部になると同時に、そのことが周囲の人にどのように見られ得るのかということも配慮したり、判断したりする必要が出てくるので、自分の身体と社会の関わり方も変わってくるのだな、と実感もしました。

(図2)
授乳フォトの作例

(図3)
授乳フォトの作例

授乳に対する眼差しは、最近「授乳フォト(もしくは授乳写真)」と呼ばれる写真のあり方にもよく表れています。「授乳フォト」とは文字通り、母親が授乳している様子を、母親自身や家族が撮影するもので、専門の写真家(多くは女性の写真家のようです)に出張を依頼して撮影する場合もあるそうです。授乳期間という限られた時期の記念として、なるべくきれいな写真を残しておきたいという気持ちに応えるかたちで出現したジャンルとも言えますし、以前にも紹介した「マタニティ・フォト」の隆盛とも結びついているのでしょう。子どもが成長した後に、(図2)のような授乳中の赤ん坊の無心な表情を間近に捉えた写真を見ながら、懐かしさと愛おしさを感じるであろう、と想像できます。「授乳フォト」の出張撮影を謳うサイトには、母親の身体の一部を隠すために白いヴェールを被るという演出を施して撮影されたもの(図3)もよく見受けられます。授乳の光景を「絵になる」美しい場面として演出するために、(意図的であるかどうかは別として)聖母マリアとイエス・キリストの聖母子像のイメージや構図がベースに位置づけられているようにも見えます。

(図4)
ゲートルート・ケーセビア
「飼葉桶」(1899)

(図5)
ゲートルート・ケーセビア
「授乳」(1900)

19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍し、写真の芸術性を標榜し、ピクトリアリズム(絵画主義写真)運動を代表するグループ、フォト・セッションのメンバーでもあったガートルード・ケーセビア(Gertrude Ka"sebier1852--1934) の「飼葉桶」(1899)(図4)は、写真による聖母子像というべき作品です。題名が示すように、聖母マリアがイエス・キリストを馬小屋の中で出産し、飼葉桶を揺り籠にして寝かせたというキリスト降誕の物語をもとに演出が施されています。ケーセビアの友人の女性が聖母マリア役のモデルになり、ヴェールを被って布にくるまれた赤ん坊を抱えて(実際には赤ん坊を抱いていたわけではなかったようですが)俯くような姿勢で画面の中心に捉えられており、右上の窓から差し込む光が印象的な構図を作り出しています。「授乳」(1900)(図5)も(図4)と同様に、窓から差し込む光のもとで撮影されており、安らぎに満ちた室内の情景が描き出されています。

(図6)
ドロシア・ラング
「移民の母」(1936)

(図7)
ドロシア・ラング
「移民の母」(1936)

(図2)や(図3)のような「授乳フォト」や、ゲートルート・ケーセビアの作品(図4、5)は、授乳の場面を、室内での母子の親密な情景として描き出しており、室内は外の世界から切り離された、母子を守るための居心地の良い空間として表されています。この「居心地の良さ」は、屋外で撮影された授乳の場面と比較すると、際立ってきます。
写真史上最も有名な「お母さん(の写っている)写真」として、ドロシア・ラング(Drothea Lange 1895-1965)が、撮影した「移民の母」(1936)(図6、7)が挙げられます。これらの写真は、大恐慌の時代に困窮にあえぐ農村地帯を記録するFSA(農業保障局)のプロジェクトの一環として撮影されたもので、ドキュメンタリー写真の傑作として評価されています。子どもたちに囲まれた母親(フローレンス・オーウェンズ・トンプソンという当時32歳の女性で、7人の子どもの母親でした)が、テントの中で肘をついて呆然と遠くを見つめている様子を間近に捉えた写真(図6)は、当時の雑誌や新聞にも頻繁に掲載され、大恐慌という受難の時代を象徴的に表すものとして、人々の記憶に刻み込まれることになりました。一連の「移民の母」の写真は、現在アメリカ議会図書館の版画・写真閲覧室で管理されています。(図6)が最もよく知られていますが、(図7)のように距離を置いて撮影された写真もあります。(図7)は、子どもの一人に授乳する場面が捉えられており、母親の険しい表情や子どものぼろぼろの洋服や靴下とともに、母子が身を置いているテントのような空間の一部――家を失って移民労働者となった一家が、食料を買うために乗っていた車の車輪も売ってしまい身動きが取れない状態に陥っていたそうです――と背景に広がる平原を見て取ることができます。家を奪われ子どもと一緒に生きのびようとする母親の姿は、心の安らぎを得られない切羽詰まった状態、苦悩を伺わせます。

(図8)
ロバート・フランク
「メアリーとパブロ 1952年2月」

私自身のことを振り返ると、娘に授乳をする姿を一度だけ撮ってもらったことがあります。娘が生まれて間もない頃に、授乳のために乳首をくわえさせる角度や抱き方のコツがわからず、四苦八苦しながらようやく授乳できた時に、娘の抱き方と位置関係を把握するためだったので、いわゆる「授乳フォト」とはかけ離れたものでした。自分の授乳期の記憶をたどりつつ、さまざまな写真家のとらえた授乳の場面の写真を探した中で、最も自分が体験した授乳に近い感覚を呼び覚まされたのは、ロバート・フランクが撮った「メアリーとパブロ 1952年2月」(図8)です。当時の妻のメアリー(後に離婚)がマットレスの上に横たわり、左側の乳房を出して息子のパブロに授乳する前後の様子を捉えており、傍らには二匹の猫が戯れ、床には布のようなものが落ちています。窓際の近くで撮影され、窓から差し込む光でフランク自身の影を見て取ることができます。メアリーが眠そうな顔をして眩しそうにカメラの方に顔を向けている様子から、明け方に撮影されたものではないかと推測されます。この写真に共感するのは、「授乳フォト」や、ゲートルート・ケーセビアの作品(図4、5)が制作した絵画のような母子像、大恐慌時代の「移民の母」(図6、7)には描き出されていない「慢性的な睡眠不足状態」こそが、私の授乳期の記憶を占めているからかもしれません。
(こばやし みか)

小林美香 Mika KOBAYASHI
写真研究者。国内外の各種学校/機関で写真に関するレクチャー、 ワークショップ、展覧会を企画、雑誌に寄稿。
2007-08年にアメリカに滞在し、国際写 真センター(ICP)及びサンフランシスコ近代美術館で日本の写真を紹介する展覧会/研究活動に従事。
著書『写真を〈読む〉視点』(2005 年,青弓社)、訳書に『写真のキーワード 技術・表現・歴史』 (共訳 昭和堂、2001年)、『ReGeneration』 (赤々舎、2007年)、 『MAGNUM MAGNUM』(青幻舎、2007年)、『写真のエッセンス』(ピエブックス、2008年)などがある。

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