小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」 第8回 ベビーカーへの眼差し 2014年1月25日 |
保育園の送り迎えや週末の外出など、「子どもの搬送」を伴う移動は、育児の中で大きなウェイトを占めています。娘が生後3カ月を過ぎた頃からベビーカーを使って移動しており、歩けば道の幅や段差、傾斜が気になり、電車を利用する際には、改札口の幅や駅構内のエレベーター、多目的トイレの位置、ホームと車両の間の隙間、乗り換えの移動経路、混雑具合を気にかけ、車内では車両の隅に自分とベビーカーの場所を確保して、娘が騒がないように気をつけるといったふうに、一人で移動する時とは比較にならないほど、多くのことに注意を払います。 娘が2歳を過ぎた頃には、ベビーカーは、乗り物であると同時に遊び道具にもなってきました(幼児は動くもの、自分で動かせるものに執着します)。(図1)は買い物帰りに公園で娘を遊ばせている時に、娘がベビーカーを押している様子をとらえたものです。親の真似をしているつもりなのか、精一杯腕を伸ばしてハンドルを掴んで闇雲に進もうとする姿は可笑しくもあるのですが、前方が見えない状態で突進すると危ないので、止めさせるのに手を焼きます(時折路上でも押したがるので甚だ難儀です)。 娘の搬送手段(時には昼寝の場所、玩具)としてベビーカーを日常的に使っているので、実家の母に私が子どもの頃にどんなベビーカーを使っていたのか、私がベビーカーに乗っている写真が残っているかどうか訊いてみたところ、「ベビーカーは使っていなかった。買い物は近所で、子どもが家で寝ている間に済ませていた。そもそも、電車に乗って遠出する機会はほとんどなかった」という返答でした。たしかに、私が1970年代前半に幼少期を過ごした場所(出生は奈良県天理市、1歳3カ月からは広島県広島市)では、現在の首都圏での生活のように、母親が子どもを連れて遠出をしたり、子どもを電車に乗せて移動したりする機会は稀だったのでしょう。ちなみに、現在普及しているような折りたたみ式のベビーカーが普及するようになったのは1970年代に入ってからのことだそうです。ベビーカー一つとっても、娘と母の一世代の間にある育児環境やライフスタイルの違いを思い知らされます。 演出道具としての乳母車 長距離の移動にも適した折りたたみ式の機能的なベビーカーに慣れた立場から、折りたたみ式ではないベビーカーというと、手押し車に近い形の、「乳母車」という古風な呼び方が似つかわしいものが思い浮かびます。たとえば、映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)の有名な「オデッサの階段」シーンに登場するような、大きな車輪の上に籠が乗っかっていて、後ろにハンドルがついているタイプのものです。このような形の乳母車は19世紀後半から製造され、当初は非常に高価なものでしたが、1920年代には一般家庭に普及していきました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて肖像写真館で撮影された名刺版写真(カルト・ド・ヴィジット)で、幼い子どもを写したポートレート写真には、乳母車の中で赤ん坊を寝かせた状態や座らせた状態で捉えたものがあります(図版参照:The Cabinet Card Gallery)。(図2)のように赤ん坊を乳母車の中に座らせ、傍らの少女が乳母車の縁に手をかけてポーズをとって写っているのからも明らかなように、乳母車は幼い子どものポートレート写真を撮る上で好都合な小道具となり、乳母車にほどこされた華麗な装飾が、演出効果を高めているようにも見えます。赤ん坊の乗っている乳母車を子どもが押すようなポーズでとらえた写真(図3)では、花や森の木立のような情景を描いた背景が用いられ、床には藁草が敷かれるなど、子どもたちが外で遊んでいるような雰囲気を演出するような意図を見て取ることができます。人形の乗った手押し車を押す少女(図4)のように、子どもらしく遊ぶ姿を写真撮影のポーズに取り入れることができるという点で、人形用の小型の乳母車は便利な道具だったのかもしれません。
20世紀初頭から活躍していたドイツの写真家アウグスト・ザンダー(August Sander, 1876−1964)が手がけたポートレート写真のシリーズ『二十世紀の人々』の中にも、乳母車に乗った子どもの姿を見て取ることができます。このシリーズは、ワイマール共和制期の社会の断面を示そうとしたもので、「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「街」「Last People(ホームレス、退役軍人、など)」と7つのセクションに分けられており、農村地帯の人々や家族のポートレート写真を纏めたセクションのなかに、(図5)「農村の子どもたち」(1913)が収められています。乳母車に座った赤ん坊の両脇に(顔つきの類似から判断して、おそらくは兄弟であろう)幼い少年たちが強張った表情で正面を向いて立ち、飼い犬や玩具の馬とともに農村の子どもたちの暮らしの一端を、屋外の情景とともにうかがい知ることができます。(図2,3,4)のような肖像写真館の中で演出をほどこして撮影された名刺版写真とは異なり、写し取られたもののディテールから農村の地域性や生活のリアリティを感じ取ることができます。 路上風景の中の乳母車 これまでに見てきたようなポートレート写真(図2,3,4,5)は、三脚に据えつけられた大型カメラで撮影されています。1920年代以降には、手持ちで撮影できる小型カメラが普及し、人々の動作や状況の変化に反応するようにしてスナップショットを撮ることができるようになると、都市空間の中で路上の人々の生活の営みに視線を注ぎ、周囲の情景も含めて撮影する写真家が活躍するようになります。路上で遊んだり、思いがけない動きをしたりする子どもたちは、そういった写真家の注意を惹きつける存在だったのでしょう。路上で乳母車を押して子どもを運ぶ様子が捉えられた写真からは、写真家の子どもに対する注意の向け方や、撮影された地域や時代における人々や子どもたちを取り囲む社会状況を伺い知ることができます。
たとえば、第二次世界大戦期に中欧・東欧のユダヤ人コミュニティを撮影したことで知られるローマン・ヴィシュニアク(Roman Vishniac、1897-1990)は、1920年代から30年代にかけてベルリンの路上で、行き交う人々の様子をスナップショットで捉えています。(図6)は、乳母車を押す女性や幼い子どもたちが楽しげにそぞろ歩き、商店が並ぶ賑やかな通りの情景を捉えたものですが、店先に掲げられたハーケンクロイツ(逆鉤十字)の旗が、ナチスが独裁体制を敷いていた当時の社会的状況を物語っています。 路上の子どもたちに視線を注いでいた同時代の特筆すべき写真家として、ヘレン・レヴィット(Helen Levitt, 1913−2009)が挙げられます。ニューヨークに生まれ育ったレヴィットが1930年代末から、ハーレムを含むニューヨークの街角で撮影したスナップショットには、幼い子どもたちの瞬発的な動作が生き生きと描き出されています。車道越しに向かいの歩道を撮った写真(図7)では、乳母車の脇に佇む男性と、歩道の縁にしゃがみ込む幼い女の子と傍らで覗き込むようにしている母親らしき女性が捉えられています。スカートをまくりあげ、オシッコをしている最中のようにも見える女の子の姿や、階段に座ったり佇んだりしている周囲の人たちの様子など、当時のおおらかな街の風情を伝えています。また、女性が乳母車の中に(何かを探すかのように)頭を突っ込み、中に座っている幼児がはしゃいだ顔で笑う様子をとらえた写真(図8)は、レヴィットが子どもの動作に反応する瞬発力を如実に表しています。 子どもが路上や街中で遊ぶ姿は、地域社会の状況や変化をとらえたドキュメンタリー写真の中にも登場します。たとえば、イギリスの写真家シャーリー・ベイカー(Shirley Baker, 1932-)は、1960年代からおよそ15年間にわたって、マンチェスター、サルフォードのスラムを撮影し、労働者階級の子どもたちが遊ぶ姿を生き生きと描き出しています(撮影された地域では、後に都市再開発のために老朽化した公共住宅が撤去され、人々は強制的に移動させられました。)大きな男性用の靴を履いて玩具の乳母車を押す少女(図9)や、ハイヒールを履いて人形を積んだ乳母車を押す少女(図10)の姿は、周囲の古びた建物や人気の少ない路上の情景とともに捉えられています。老朽化する都市空間の片隅を、無邪気に歩んで行く少女たちの姿は、変わりゆく社会の様相の一端を示しているかのようにも思われます。
(こばやし みか) ■小林美香 Mika KOBAYASHI 写真研究者。国内外の各種学校/機関で写真に関するレクチャー、 ワークショップ、展覧会を企画、雑誌に寄稿。 2007-08年にアメリカに滞在し、国際写 真センター(ICP)及びサンフランシスコ近代美術館で日本の写真を紹介する展覧会/研究活動に従事。 著書『写真を〈読む〉視点』(2005 年,青弓社)、訳書に『写真のキーワード 技術・表現・歴史』 (共訳 昭和堂、2001年)、『ReGeneration』 (赤々舎、2007年)、 『MAGNUM MAGNUM』(青幻舎、2007年)、『写真のエッセンス』(ピエブックス、2008年)などがある。 「小林美香のエッセイ」バックナンバー |
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