ときの忘れもの ギャラリー 版画
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杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」
第38回 2019年05月10日
小さな住まい

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その小さな住まいはクールから西へ電車に揺られて30分くらいのところにあるThusis(トゥーシス)という街の高台にありました。

街と聞いて想像するような都市風景が駅前に広がっているかと思えば、それは少し違っていました。周りを山に囲まれた谷間にあるために、山岳地帯に住む農家の人たちが買い出しに集まってくる街。駅を背中に東側を向けば平たんな土地が広がり、反対側の西側に出れば背後の山をうねりながら上がっていく坂道があります。

実は今回ここに訪れたのは、ある女性建築家が設計した単身者のための住まいを見学するためです。駅前で出会った知人たちとともにタクシーに乗って数分。実は歩いて行けたんじゃないかと思うくらいに、想像していたよりも早く到着しました。スイスでは良い意味で破格の10フランを払い、蛇行する回り道の膨らんだところでタクシーから降ります。目的の敷地はその行って折り返し戻ってくる道に挟まれ、高い方から低い方への高低差は住宅二階建てぶんくらいありました。
この辺りは駅から比較的近く素晴らしい眺望があり、緑豊かで住みやすい環境も整っている。敷地の広さも十分でゆったりと住宅街が広がっています。周りにある家々は決まって敷地内に高低差があり、近接する道路から敷地にアクセスしてカーポートに車を止めます。車から降りると敷地内のステップを使って玄関へアプローチ。リビングからは向かいにそびえる山々が見え、この地域に住んでいる人なら、あれは〇〇山でこっちは××山で。。と当たり前のように説明される絶景がそこにはあります。だからこそ何のひねりもないような単純な建築空間の構成(各部屋の間取り)をしても、敷地が良いだけに気持ちの良さそうな建築が出来上がっています。

建築家というのは独特の嗅覚をもって敷地のポテンシャルを読み、凡庸でない方法でもって顕して見せてくれる人たちのことを言います笑。僕たちの訪れた住まいを設計した建築家もその例に漏れず、独特の回答を用意していました。

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それはアプローチからして少し変わっていました。低い方の道からではなく高い方の道からアプローチ。建物は一層でカーポートがあるのは屋上。車を降りて敷地内のステップを通ってエントランスへ向かいます。建物の大きさに関しても、この辺りでは3階建て以上が普通なので、その特異さが一層目を引きます。それは奇抜なデザインからくる特異さではなく、この敷地条件に対する建築のヴォリュームとその配置の特別さからきているものです。これくらいの土地の広さとこのロケーションがあれば、このくらいのヴォリュームの建物を作るのが不動産的観点からも普通。といった尺度でこのプロジェクトを見直すと、もしかしたら小さすぎるヴォリュームに違和感を持つ人がいるかもしれません。(それぞれクライアントには限られた予算があり、部屋数も必要以上に建てる理由はそもそもないのですが。。)

建築設計で重要なところは、建築が従来の絵画のフレームのように独立した世界の中で表現されるのではなく、既にそこにある周辺環境との相対的な視野も考慮に入れなければならないことです。周りにある建物は全然ダメだから自分が良いと思う通りにやって手本を見せたい。という建築家の強い思いは尊重するべきである一方で、周りが今このように存在しているのはそれだけの根拠があるということも忘れてはいけません。その理由を知り対処しない限りは、建築家の斬新で素晴らしいアイデアですらも、側から見れば一つの独りよがりな意見として、同じように全然ダメだ。と見なされてしまう危険性があるのです。

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建物の西側にある玄関ドアを開けるとそこには3つの部屋と1つのバスルームをつなぐ緩やかなエントランスホールがありました。そこから南に向かって壁が伸び、その東側をリビング、西側を寝室というように区切ってさらに外にまで延長していきます。この伸びていく壁によって、つまり部屋の内側と外側を同じ要素であるコンクリートの壁が連続していくことによって、リビングからテラスへと室内外の区切りを超えた大きな空間として認識することが容易になります。部屋を広く感じさせる設計の知恵です。
リビングは北隣りにあるキッチンと「くの字」をした間取りをとって緩やかにつながり、全面が東側の開けた風景に解放されている。この東側はもちろん傾斜の下がっていく方向です。とても素直な部屋の配置で、眺望やロケーションはばっちりだし、庭を作るだけの敷地も十分にある。。

見学している際に知り合ったフリムス(Flims)を拠点に活躍する建築家は、あくまで一般論として歯に衣着せぬ言い方でシャープな感想を言いました。スイスやスカンジナビア諸国などの山岳地域では自然がそれだけで美しく、建築家が何をどうしたってその中に立つ建築は映える。アプローチのための車道とその駐車場が見えない角度から写真を撮れば、メディアに載る建築の外観写真は失敗のしようがないし、建築が主に被写体となる内観写真であっても雄大な外の景色とともに写せば美しいに決まっている。(確かにそれは的を得ていると思う。) さらに彼は付け加えます。例えばこの駅の近くに90年代に建てられた10階建てくらいの中層集合住宅群があるけれど、好条件が揃っている住宅の可能性を考えるよりも、そうした集合住宅について正面から議論することが大切なんだ。あんな中途半端な中高層建築は建ててはいけないっていう条例を作らなきゃ。そんな風に語ります。なんだか久々に熱量のある建築家に出会ったな。と僕も気持ちが高ぶりました。

さて、そんな風に僕たちが立ち話をしながら見学していた住まいを再び見てみると、≪住宅≫と呼んでその言葉から家族の暮らしが想像できるほどの部屋数もないし、≪家≫と呼ぶほどにシンボリックな形もしていない。それは設計を始めるにあたって作られ、いざこれから要素を付加したり大きさを改良していこうとする前の≪プロトタイプ≫のようにシンプルです。それぞれの部屋が少しだけ離れて配置されながら、それでいてワンルームと言えそうなくらいにつながろうとしている。廊下はなく部屋はほとんど仕切られていないので場所どうしを緩やかに行き来ができる。素材は木材、コンクリート、ガラスと限定されていて、さらに建築を構成する要素がそれぞれに主張した形態をとっていない。それは予算が原因だと聞いたけれど、逆にその削ぎ落とした感じが簡潔さと素朴さを助長している。安易に使い古された建築言語(月並みな設計デザインの提案)で言葉遊びをしていないから、設計者の強い意志がダイレクトに伝わってくる。

実は躯体が完成し作り付け家具ができてきた頃に一度現場を見学しました。その建築家はコンクリートがそのまま仕上げ材料となった表現を好んで、異なるコンクリート型枠を使って仕上げの表情を変化させようとしていた。ただ、その中で一番大きな面積を占める壁の仕上がりが想像していたようにはうまくいかなかったらしい。この型枠はもう絶対に使わない。と当時は後悔とも取れる表情までしていました。そして残念ながら、コンクリートを削ったり表面にモルタルを塗ったりといった後処理をする予算も工期も残っていなかった。
でも実際に完成してオーナーが住み始めているところを見ると、そんなことはどこかに忘れてきてしまったかのように目に入ってこない。当時はなかったオーナー所有の家具がそこにあり、建設中に養生シートが被せてあって見えなかったテラッゾの床や木枠に嵌まった窓ガラスがそこにはあり。。そういった多くの要素が現れた空間では、一つ一つの細部が相対化されて一つの大きな全体として目の前に立ち現れてくる。それを僕たちは把握することになるのです。

そんな中で僕はキッチンの部屋がとりわけ気に入りました。部屋というのは不思議でそれが広いから、天井が高いからといって必ずしも心地よくはならないし、反対に狭いからといって息苦しくなるわけでもない。その絶妙なサイズ感と開口部の位置がほんの少し違うだけで、部屋に入ってくる光の時間や量が変わり、気持ちの良い部屋にもおかしな部屋にもなりかねてしまう。(詳しくはこちら)
そのキッチンの部屋はほぼ四角で壁に沿ってL字型にキッチンがあり、その斜向かいに冷蔵庫やオーブンなどを収納したキャビネットがあります。余った角の一つはリビングにつながり、もう一つは外へ出ていく勝手口。これといって特別なことはしていないようだし、図面に描けばなんてことない部屋です。だからこそ、なぜ良いと思ったのかを説明しようとすると難しく、細部を再び見渡して探っていかないとわからない。。加えて、ある部屋の雰囲気を感じ伝えようとする時にはその部屋だけではなく、その部屋にやってくるまでの空間体験を引き連れてくることもある。例えば、今いる部屋の大きさはそれ自体の広さだけではなく、隣にあるさっき通ってきた部屋と比べた相対的な感じ方があるかもしれない。

そしてまた意外と大切なのは、建築を体験する時の気の持ちようです笑。少し変に聞こえるかもしれませんが、誤解を恐れず言えば、空間に身をおいてそれを享受する場合にはそのための準備が必要です。それはアスリートが明日の試合に向けて、自身の体調をコントロールし、セットアップしていくのに少し似ている。
設計段階では建築の良し悪しを主に頭と目で判断します。たくさんある設計条件を読み込み、そして頭の中で整理して問題点を明快にし、模型などを使って空間を見ていく。
しかし実際には、そうして設計された空間は人の体験によって認識されます。そこでは、ともすれば今日の気分や体調の具合で建築を理解する、受け入れる際のニュアンスが変わってきてしまうことだってある。僕たち鑑賞者は、設計者のかけた労力と同じくらいの気合いをもってその建築を理解しようとしなければ、僕はもったいないと思う。建築を見にいくには万全の準備をして、できるだけリラックスして、感覚を研ぎ澄まして空間に身をおく。天気の良い日に体験する空間と、肌寒い中体験するのでは頭の中で思うことも当然のことながら変わってきます。なんだか論点がずれているようで、とても重要な要因です。
別の言い方をすれば、訪れる度に違った感覚を覚えたり、その感じ方の程度の差ができたりすること。それこそ建築が他のオブジェクトや芸術と比べて大きく違い、また面白いところなのかもしれません。
すぎやま こういちろう

■杉山幸一郎 Koichiro SUGIYAMA
日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーターズントー アンド パートナーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。
2016年から同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。


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