ときの忘れもの ギャラリー 版画
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杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」
第39回 2019年06月10日
リスボンの布


週末の前後に休みを取って、リスボンへ小旅行をしてきました。

学生時代にバルセロナから出発してスペインを横断し、ポルトガルを縦断して再びスペインを通り過ぎて向かいのモロッコへと、長い休みを使って旅行したのはもう10年近く前のこと。その際にリスボンへも立ち寄って、ポルトガルの建築家といえばこの人。と言われるくらいに知られているアルヴァロ シザやソウト デ モウラの建築、スイスのメンドリジオ建築アカデミーで教授しているアイレス マテウスの建築など中心に見て回りました。(こうして有名な建築に的を絞ってまわることは効率が良いようで、その途中にある無名な、しかし時に学ぶ所の多い建築を通り過ぎがちなのですが。。) 当時、建築を眺めて不思議に思ったところは記憶として残っていても、その他の箇所や建物全体としての記憶は断片的で、街の風景もまた、部分的にしか完成させていないパズルのように細部ばかりが鮮明で、全体像をうまく思い出すことができません。ともすれば、そうした旅の記憶の多くは、例えば友人に連れられてどこそこのスイーツを食べに行ったとか、朝市場へ行って塩漬けの魚を見たとか、ビーチの夕日がことさら綺麗だったとか。そういった月並みな土産話になってしまいます。もちろん、そんな記憶も楽しいものですが。

僕はできる限り今まで訪れたことのない街へ旅行し見たかった建築や風景を見る、そしてご当地メニュー笑で食事をする。ということを仮にも旅行のモットーとしてきたので、≪この街は必ずまた来たい≫と旅行から帰路に就く途中にどれだけ思っても、次の旅行先を決める際に挙がってくる訪れたことのない魅力的な目的地(未知の都市が連なる選択肢)の前には、かないっこありません。それは、俗に近代建築の名作と形容されるコルビュジエのサヴォワ邸、ミースのファンズワース邸、そしてライトの落水荘のいずれかを訪れる機会を3回与えられたとしたら、いくらコルビュジエのファンであってもサヴォワ邸だけを3回見に行く人はいないだろうという見解と同じです笑。好奇心とはそういうものなのかもしれません。

そう考えると歴史の教科書や雑誌で見た海外にある名建築も、多くの人がその人生のうちに体験できるのは一度きりかゼロか。というなんとも悲しい事実に行き着きます。建築は≪一点もの≫でそれが在る場所を動きません。そのためにいくら素晴らしいと何度も参照される建築の図面や写真を舐めるように見て、その建築家の文章を読んで設計趣旨を理解し。。と限られた情報から多くを学ぼうとすることはできても、建築空間をどう感じたかといういわば肝心のところが抜け落ちてしまっていることが多々あります。
だからこそ、前回の記事で少しだけ話したように、建築体験からできる限り多くを学び感じ取ろうとする時には、その限られた機会において、雑誌やネットにある写真や図面、説明文に回収されてない新しい発見を見過ごさないためにも、鑑賞者側に万全の準備が必要だと僕は強く思うのです。


さてリスボンも例に漏れず、また来ると言って去ってから数年が経ちましたが、もう一度リスボンへ、そしてシザのポルトガル館へ訪れることができました。


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この建物は1998年のリスボン万博のポルトガル館として設計されています。
二つの四角いボックスに見えるのは入り口が数カ所あるエントランスゲートで、その間を膜のようなものが覆い長手に80mもある屋外屋根付き広場を作っています。実はこれ、テキスタイルではなく厚さ20cmのコンクリートでできている。砂利とセメントと水を材料にでき上がる硬いコンクリートがこのように柔らかく架けてあるのを見ると、なんだか肩透かしを食らったような気持ちになります。たわんだような形態がさらにマントのような軽やかさを誇張しているのですが、これは雨を落とすためのカーブだとも説明されています。

僕が訪れた時には、若いカップルが抱擁している他はほとんど人気(ひとけ)がありませんでした。この広場が完全に上部の解放された場所ではなく、とても大きな屋根が架けられた外部空間であるために、そこに立つとなんだか不思議な気持ちにさせられます。あり得ないくらいの大きなコンクリートの屋根が地上から非常に高いところで架けられている。その下で人は米粒みたいに小さくて、この建築がどれだけ大きく簡単なアクション(大きな布をかけるような)でできているかがわかります。


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一方でゲートの壁いっぱいに手のひらサイズのタイルが貼られていて、そこへ近づくと途端に米粒が人間であることに気付かされます。余分な装飾がなく、少しのっぺりとしている簡素で巨大な建築は、体験している自分たちでさえもそのスケール感覚がわからなくなる。再びゲートをくぐれば、絵本でよくあるシーンのようにミニチュアの世界へ入ったような感覚にさせられます。

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実際ゲートには大きさの異なるエントランスがあり、一つは巨人用だと言われたら一瞬そうかと思ってしまうかのような。いや、いくらなんでもそれは言い過ぎでした笑


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足元も見てください。大理石のピンコロが敷き詰められて、そのツルツルとした表面に光が鈍く反射して鱗のような色合いを持ち、屋根で影になっている広場を少しだけ演出している。
また、ここでもスケールの行き来があります。見上げると大きく柔らかなコンクリートの屋根があって、相対的に自分の身体が小さくなったように感じ、足元の小さな石の集まりでできた舗装を見ると身体がいつもの大きさに戻る。。

このようにして、この建築は大きなアクションである≪2つのゲートとその間をつなぐコンクリートの膜≫と、小さな振る舞いである≪ピンコロ舗装と壁のタイル貼り≫で組み立てられている。近づいて見ても、遠くから見てもそれぞれの距離に見合った視線(ピント)を合わせられる対象がある。
なぜ大理石とタイル貼りなのか。そしてなぜタイルはその色なのか。という質問が飛んでこないような説得力がここにはある。もちろん、その質問の答えとして用意されているのは「ポルトガルは大理石の産地で、リスボンは海に近いために家々の外装を海風に耐久性のあるタイルで覆うのが一般的であった」ということかもしれない。でもそれは頭で説得させるための説明に過ぎないんじゃないか。この建築家はきっと、そうした説明を用意する傍ら、別の感覚をもって素材の選定をしている気がする。むしろ僕がその場で認識できたのは、身体の中にすっと抗なく入ってくるような自然さ。だからこのポルトガル館は、細部の説明を聞くことが野暮に感じるくらいに既に全体としてそこにあって、かつそれはあるべき姿であったというように形容できるかもしれません。
すぎやま こういちろう

■杉山幸一郎 Koichiro SUGIYAMA
日本大学高宮研究室、東京藝術大学大学院北川原研究室にて建築を学び、在学中にスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ピーターメルクリ スタジオ)に留学。大学院修了後、建築家として活動する。
2014年文化庁新進芸術家海外研修制度によりアトリエ ピーターズントー アンド パートナーにて研修、2015年から同アトリエ勤務。
2016年から同アトリエのワークショップチーフ、2017年からプロジェクトリーダー。
世の中に満ち溢れているけれどなかなか気づくことができないものを見落とさないように、感受性の幅を広げようと日々努力しています。




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