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植田実のエッセイ 本との関係2

大学に入ったころ

 環境が変わった。というのも何人もの人々を新たに知ることになったからであり、つまり私が大学に入ってのことである。とくにいちばん強烈に、その最初の出会いの瞬間が記憶に残っているのは、今でいう部活の「早稲田詩人」の、新入部員を迎えた総会においてである。集まった1年生は私を含めて10人あまり、居並ぶ先輩たちはそれよりちょっと多めだったかもしれない。さいごに、いかにもボス格の、穏やかな笑顔の学生と、それとは対照的な鋭い眼つきの学生が連れだって部屋に入ってきた。これほど眼光の強い男を見たことがなかった。おまけに学生服のボタンを全部外したまま羽織っているので、いちだんと立ってみえる詰襟に埋もれた、削げた頬が蒼白い。ヤクザかこの人は、と思ったくらいの威圧感で、こんなところに来て大丈夫なのかと狼狽した。(当時の大学生はほとんど制服を着ていた。大隈講堂を背にしてクラス全員の並ぶ入学記念写真を見ると、文学部長の谷崎精二先生の横にいる私ひとりがジャンパー姿である。上の学生のようにボタンを外している者もまずなかった)。
 まず先輩たちの自己紹介があった。そして例の学生が「寺山修司です」と、ボソリと名乗ったのに驚かされた。
 高校時代は同人誌づくりに身を入れすぎたためか、私は先生たちの予想を裏切って入試にあっけなく落ちた。浪人となり、JR代々木駅近くの予備校に通って今度は受験勉強が面白くなり、全国模擬入試コンクールでは東大志望の学生を抜いて1位を獲得するほど夢中になった。早朝、まだ開門していない予備校の塀を乗り越えて教室に侵入し、一番前の席で勉強していて掃除のおばさんに叱られたことがあるくらい。映画館には大学に入るまで行かないと決めていたから、余計な本も手にしなかったはずだ。しかしある日、代々木駅前の金港堂書店の店頭で手にした短歌雑誌で、新人賞を受賞したという作品を立ち読みして圧倒されてしまった。俳句や短歌には関心がなかったので、なぜそんな雑誌に目がとまったかは分からない。表紙に新人賞発表の文字があったのだろう。「チェホフ祭」という受賞作品名も出ていたとすればその斬新さに魅かれたのかもしれない。
 そうしてはじめて知った作者名の本人が、いきなり目の前に現れたわけで、東京とはこんな出会いがありうる都市という実感が急に迫ってきたと同時に、大学とはそれが当たり前の場と納得したのかもしれない。寺山は私と同い年だが、ストレートで教育学部国文学科に受かっているので1年先輩になる。
 新入部員の自己紹介はそのあとだった。私の番がまわってきたとき、意中の人に出会ったよろこびを話した記憶があるからだ。しかしその後寺山が部室に来ることはほとんどなかった。寺山の年譜を見ると、新人賞受賞の年に混合性腎臓炎のために立川の病院に入院、退院後さらにネフローゼ発病とある。翌年、新宿の社会保険中央病院に入院するが、(おそらく夏以降に)病状悪化し、面会謝絶となる。
 「早稲田詩人」で知り合った同期の女子学生と、JR新大久保から歩いてまもなくの、上の病院に今度は寝巻姿の寺山を見舞いに行き、そこではじめてゆっくりと言葉を交すことができた。前回に触れた私の手づくりの詩集に目を通してもらったのは、その病床においてであったのか定かではないが、枕元においてあった彼のノートの表紙にお気に入りの女たちの顔写真がいくつも貼られており、一緒に見舞いに行った彼女の写真もそのなかにあって、寺山のチェックの素早さには唖然とした。また新聞の新刊書籍案内の広告もまめにスクラップされていて、好きなときに本屋に行くことができない寺山の心情がそこに表れていた。私もときたま心覚えに新聞の書籍広告を切り取ることが今でもあるが、そのたびに寺山のスクラップ・ノートを思い出すように頭の回路ができてしまっている。ネフローゼという病名もこのとき知った。
 たしか一日の塩分摂取量がきびしく制限されていて、小指ほどの小瓶に許された微量の塩が入っているのを見せてくれた。しかし創作意欲は衰えず、この年結成した詩劇グループ「ガラスの髭」(命名ももちろん寺山による)が、大学祭に「早稲田詩人」の主催する「緑の詩祭」で公演するための戯曲『忘れた領分』を書き上げている。ガリ版刷りのこの本は手元にある。私も補欠的な役割でこの詩劇グループに入り、本の読み合わせをやったからだ。つまり「ガラスの髭」には「早稲田詩人」の部員が何人か参加した。加えて他の大学の学生や詩人や演劇人も入っていて、そちらのほうで本格的な陣容となっていた。舞台装置は野中ユリ。母の野中曜子の名のほうがよく知られていた頃である。当日、私は展示作品の表装の上がりを蒲田まで取りに行かされていたので肝心の芝居を見ていない。その上演前に、芥川賞を受賞したばかりの石原慎太郎の講演があり、彼はそのあと客席で『忘れた領分』を観客として見ている。その様子が後に彼の小説に、ある程度の脚色はあるかもしれないが、なまなましく描かれている。小説のタイトルは忘れてしまったし内容を読み返したこともないが、詩祭のパンフレットに石原が寄せた短い手書き原稿は眼にやきついている。たいへんな悪筆で、読みにくい文字は赤インクで補筆されていた。石原の弟さんがいつもそのように手を入れているという話だった。『太陽の季節』が映画になり、裕次郎がチョイ役でデビューするのはその翌年である。
 7、8年ほど前だったか、その存在が知られず、寺山の戯曲全集にも入っていなかった『忘れた領分』発見のことが新聞で大々的に報じられて、素朴なガリ版の資料的価値にあらためて気がついたのである。

2006.7.11 植田 実


   

寺山修司作『忘れた領分』
手書きの表紙とガリ版刷りの本文の一部
発行日:1955年
サイズほか:約 26.0×19.0 cm、24頁


植田実のエッセイ



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