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植田実のエッセイ 本との関係9

東京駅八重洲口から歩いて直ぐ

 大学を卒業して、槇書店という理工系の書籍を出している出版社に勤めることになった。在学中はまったく勉学の意欲を失い、サボりにサボっていたのが、ちゃんとしたところに入社できたのは兄のおかげである。『建築』というタイトルの月刊建築誌がこの年の秋に創刊されることになり、その準備にかかっていた編集部に、編集委員として参加した兄がついでに私を押し込んだのである。編集委員には、ほかに大谷幸夫、みねぎしやすお、山本学治、林昌二三輪正弘の名がある。三輪さんは兄と同じRIA建築総合研究所の人で顔見知りだったが、あとははじめて会う人たちである。編集長の平良敬一さんももちろん初対面である。小柄だが眼光鋭く、眉毛太く、物静かな話しかただが強い意志が感じられて、いかにも編集長という印象だった。自分の名字にあるこだわりを持っていると知るのに長い時間はかからなかった。沖縄の人である。
 『建築』は1960年9月号が創刊号。私も当然それに向けての取材や集稿や原稿整理に巻き込まれてゆくのだが、それと平行して槇書店の新入社員としての仕事も受けていた。
 槇書店は、東京駅近く、今は八重洲ブックセンターがある路地から、もう1本銀座寄りの路地あたりにあった小さな出版社で、社長を含めて5、6人で手堅い専門書をつくっていたと記憶する。それがどうして月刊建築誌に手を染めることになったのか、くわしい事情は分からないが、とにかく静かな出版社にはやや場違いの編集者や写真家がその一画を占領して毎日あわただしく動きはじめたのである。つまり、ここには従来の槇書店と、『建築』編集部とが同居していたといってもいい。私が見習いとして先ずやらされたのはここで刊行している図書の目録づくりである。といっても毎年同じ体裁で出されていて本文のフォーマットも決まっているから、新刊分をそれに加えるだけで済む。新入りに編集作業のイロハを教える配慮もあったにちがいない。
 ところが私は全頁のフォーマットをつくり直し、表紙まで変えてしまった。それまでのはたしか縦組だったのを横組にし、著者名と肩書きをスラッシュでつなぎ、欧文タイトル(翻訳書もあった)はフーツラ・メディウムにと、自分の好みでまとめてしまう。表紙の幾何学な(?)パターンまで自分でつくったが、いま手元に残されたそれを見ると何とも妙な気持になる。そこまでデザインすることはその後現在までほとんどないからだ。建築もデザインも学校で学ぶなんてことには興味がなかったくせに、どういうわけだかデザインにうるさく、出版社の図書目録はどれもダサいと思っていたような気もする。出来上がったものについては、槇書店の人たちも『建築』の人たちも、「ずいぶんモダンになったね」といってくれたのだが、褒め言葉だったのか冷かしだったのか。前以て周りの人たちにことわらずにひとりで勝手に事を進めてしまう私の悪癖は、社会に出ても直らない。
 新刊本の表紙まわりもやらされた。即刊本の体裁に合せてのことだから、デザインではなく進行管理をまたも体験させられたのである。1冊は『界面活性剤の合成と其応用』という、自分にはまったく縁のなかった領域の専門書である。けれども、「界面活性剤とはその分子の成立ちをみると疎水性原子団(親油性)と親水性原子団(親水性)からできていて、しかもその両原子団の間に、いわゆるHLBというバランスのとれた化合物である」といった解説は新鮮で身近かにさえ感じられた。今でも界面活性剤という用語は間歇的に記憶のなかから浮上してくる。
 もう1冊は『女子従業員の管理・・・・』とかいう、正確なタイトルを覚えていないのだが、こちらの本では大失敗をした。ハードカバー(本表紙)の背のタイトルに1字間違いがあるのを校正段階で見逃してしまったのである。ただ印刷するのならまだましだが、文字箔押し、つまり金型で表紙にプレスする仕様で、ミスを先輩が発見したときにはすでに金型がつくられてしまっていた。金型は当時は手間もかかるしお金もかかる。つくり直しは絶対にあってはならない工程である。「校正は周りの人たちにも眼を通してもらわないとね」と言われて、私ははじめて、あ、編集とは複数でやる仕事なんだと気がついた。本や雑誌の編集とはひたすらミスをみつける作業、正確さを何よりも優先する作業であると、つくる立場になって身にしみて知ったのである。編集者はその局面で無名性に徹することができる。今でも、他の編集者の担当であろうと、そこに校正刷りがあれば、私はできるだけ眼を通す習慣が染みついている。そのときは知らん顔をして、本が出来てから早速、校正ミスや表記の不統一を担当者に得意気に指摘する癖の編集者がいたりするが、そんなのとは一緒に仕事する気になれない。
 槇書店の当時の住所は、中央区八重洲5-5である。この頃の区分地図帳などを見ると八重洲は6丁目まであるが、現在は1、2丁目に統合されている。数年前にこの一帯を歩いてみたとき槇書店は見当たらなかったので、どこかに引っ越したと思っていた。ところが今回、手元の中央区住宅地図をそれとなく見ると、記憶していた場所に懐かしい名前がちゃんとある。見落していたのかと、昨日もう一度たしかめに行ったがやはりなかった。私の持っている地図は1997年発行だから10年前にはまだあったわけだ。近くの書店で新しい2001年発行の地図を見ると、その名前はもう消えていた。
 すべてが大きなビルに建てかわりつつあるなかで、もとの槇書店わきのさらに細い路地の一画だけが古い木造2階建てを意地を張るように残している。この建物をとくに覚えていないのは、あまりにも普通の街並みの一要素だったからか。それとも自分にとっては子どもの頃から馴染んでいた東京駅が勤め先のすぐ近くにあることにいつも心奪われていたからなのか。入社してまもない日の昼休み、1ブロック先にある京橋の明治屋に買いものに行ったことがある。多分初夏の青空の下で、上衣も会社に置いて、ワイシャツにネクタイ、手には何も持たないままだった。歩きはじめてすぐ、都心の風のなかにありながら自分の身の軽さに驚いた。私は走り出し、明治屋の店先まで走り続けた。サラリーマンなのだと感じた最初の瞬間である。 


2007.5.17 植田実


『専門図書目録1960槇書店』
サイズほか:18.0×12.6cm 中綴じ52頁 表紙ミューズコットン 2色刷
























植田実のエッセイ



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