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植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」
第30回 「シャルロット・ペリアンと日本」展  2012年5月26日
「シャルロット・ペリアンと日本」展
会期:2012年4月14日(土)―6月10日(日)
会場:目黒区美術館

 いまの日本は、とくに女性たちが家具から食器・什器までのデザインに、身近に使うものとして関心を寄せているようだ。そんな情報誌がいくつも出されているし、テレビでも特集番組が組まれたりしている。彼女たちが選ぶのはプレーンですっきりしたものを下敷きとして、それに愛らしさ、品の良さ、あるいはポップな絵柄や色調が加味されている。和風一辺倒というひともいるが、好みの方向は同じといっていい。それはいいかえれば、日本の日常にモダンデザインの基本が十分に普及した現在であり、そこからさらに多様な個人的嗜好も表れてきてもいるが、モダンデザインというベースは変わっていないということだ。
 そうした動向の源となる時代はいつ頃なのか、またそれは自然淘汰の結果なのか、それともなんらかの人為的活動が働いたのか。
「シャルロット・ペリアンと日本」展を見ていると、そんな思いにかられる。
 ペリアンをパリのアトリエに訪ねて、インタビューしたことがある。彼女は1903年生まれ、99年逝去。インタビューは93年だから最晩年の頃である。その第一声は、私は1940年に日本に行きました。植田さんはもうお生まれになっていましたか、というのだった。生まれてはいたけれど、小学校にあがってもいないときである。その頃のわが家のなかの様子を思い出してみると、床の間の陶製の壺も座敷の座卓もなんというか江戸趣味の残滓ともいえるような装飾がほどこされており、私のごはん茶碗やふとんカバーにも山水画や武者絵が描かれていた。そこだけ洋風の応接間に入ってきていたマンドリンやゴルフの道具と、これらの調度品とのあいだには妙なズレがあった。それでもわが家は新興住宅地のなかにあって新しい流行を次々とはしたなく追いかけるほうだったから、新旧の割合は半々ぐらいだったかもしれない。たまに親につれられて訪ねた昔ながらの住宅、あるいは街では、とくに生活用具や装飾物にさらに色濃く怪しげな造形が無秩序のままに横溢していた記憶がある。
 1940年にペリアンが初来日したのは、商工省の「輸出工芸指導顧問」としてである。海外向けの工芸品の改良・指導を任されたわけで、日本全国をまわり、長い歳月を経てはじめて確かな技術に支えられ美しい意匠となった道具や衣服をモダン感覚とみなして再編する家具や什器をつくった。その試みは戦後まで継続され、たとえば1955年、東京での「芸術の統合への提案―ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン三人展」においてはいっそう洗練された、いわば日仏の手と眼が統合された家具や什器に至る流れとなる。その一部始終を今回展で見ることができる。
 だがこのなかで、裏の流れともいうべき記録がひっそりと展示されている。40年来日時のペリアンが、日本側から提出された輸出候補の工芸作品のなかでダメを出した事例の写真である。これを見た瞬間、自分が子どもだった頃の工芸品環境を俄かに思い出したのだった。つまりペリアンの役割は、商工省から委託された「指導顧問」の名において、モダンデザインにとっての悪しき流れを断ち切ることでもあった。一方で彼女は日本建築における「標準化」の成熟に驚嘆している。コルビュジエをはじめとする彼女の同志たちが追求していた理想が日本ではとうに出来上がっていたのだ。だからこそ日本において、工芸にもモダニズムの必然を確信したにちがいない。
 今回の企画は、ペリアン個人の作品だけをたどる回顧展ではない。ペリアンを手がかりとして、日本のデザイナー群像とその時代を再現する資料展に近い。出版物、書類、図面、写真も数多く展示されている。さきのインタビューからペリアンの発言を引用する。
 「いまの建築をめぐる気象条件というのはまるで地震のように揺れ動いています。直前のことがすぐ過去になってしまう。それがどんどん加速しています。21世紀のことをみんなが話していますが、どんな方向に行くのか分からないし、私自身、技術がどのように進んでいくのか、ということが非常に気になっています。(・・・・) これからどういう方向に向かうかは、誰も確信を持っていませんし、問題だらけであるという認識しかないと思います。それは、結局、我々はどのように生きて行きたいのかという、哲学的で一番肝心の問題につながっていくと思います。」(at1993年6月号)
 さきにペリアン来日時の活動をやや便宜的にモダンデザインという言葉で説明したが、現在までに至るその根元は上のような発言に要約されるといっていい。かつての怪しげな無秩序は「芸術の統合」によって淘汰されたのか。いや、モダンデザインは無秩序の途方もないエネルギーを現代生活へと導く「出口」のひとつにすぎなかったかもしれない。
さて、今回の展示を資料展だとも言ったけれど、それを生きいきと輝く魅力として見せているのは、やはりペリアンその人の魅力である。彼女のつくった家具に満ちみちている活力、また彼女のポートレート写真を見るだけでも強烈なオーラが伝わってくる。その魅力に引きこまれながら現在の自分たちの生活環境にまで考えが及ぶ、という意味でも必見の企画展である。
 ついでに言えば3年前に邦訳の出た『シャルロット・ペリアン自伝』(北代美和子訳 みすず書房)も必読の書だ。A5判2段組で450ページという大冊だが、このなかでも彼女は軽快に溌剌と動きまわり、しかも建築・デザイン史の貴重な資料としての重味も十分。
 ペリアンへのインタビューは、彼女の体調をおもんばかる周囲から30分と決められていた。しかし話すにつれどんどん元気になっていき、1時間半近くになってしまった。別れるとき、赤い表紙の作品集(今回も同じものが展示されている)をいただいた。サインを入れるときに私の名前からUの字が抜けていた。あわてて小さく書き足したが変な体裁になり、ちょっと困った顔になったので、こちらもあわてて、それで結構です、問題ありませんよと言ったら、私の名前の次にno proble`meと書いて笑い出した。
いまでもその、
 植田実へ 問題なし シャルロット・ペリアン 93年3月2日
のサインを見ると、ほんとうに生きていた人だなと思わずにはいられない。
(2012.5.22 うえだ まこと)

植田実 Makoto UYEDA
1935年東京生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学専攻卒業。『建築』編集スタッフ、その後、月刊『都市住宅』編集長、『GA HOUSES』編集長などを経て、現在フリーの編集者。住まいの図書館編集長、東京藝術大学美術学科建築科講師。著書に『ジャパン・ハウスー打放しコンクリート住宅の現在』(写真・下村純一、グラフィック社1988)、『真夜中の家ー絵本空間論』(住まいの図書館出版局1989)、『住宅という場所で』(共著、TOTO出版2000)、『アパートメントー世界の夢の集合住宅』(写真・平地勲、平凡社コロナ・ブックス2003)、『集合住宅物語』(写真・鬼海弘雄、みすず書房2004)、『植田実の編集現場ー建築を伝えるということ』(共著、ラトルズ2005)、『建築家 五十嵐正ー帯広で五百の建築をつくった』(写真・藤塚光政、西田書店2007)、『都市住宅クロニクル』全2巻(みすず書房2007)ほか。1971年度ADC(東京アートディレクターズクラブ)賞受賞、2003年度日本建築学会文化賞受賞。磯崎新画文集『百二十の見えない都市』(ときの忘れもの1998〜)に企画編集として参加。

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