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山口由美のエッセイ

◆第202回 ナミビア:室内の砂丘 尾形一郎 尾形優写真展 2011年5月30日[月]―6月11日[土]


2010年6月の「ウルトラバロック 尾形一郎 尾形優 写真展」は、私たちにとっては写真の力をあらためて確信し、これからは写真だと覚悟をきめた画期的な個展でした。そして2011年の個展は、より大胆な構想で、5月末から6月にかけて銀座・ギャラリーせいほうと、青山・ときの忘れものの二会場で同時開催。
それに伴い、尾形さんと一緒にナミビアの砂漠を旅した山口由美さんに原稿を依頼しました。全4回です。どうぞご愛読ください。


■山口由美 Yumi YAMAGUCHI
1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。旅をテーマにノンフィクションやエッセイなどを執筆。曾祖父は、箱根富士屋ホテルの創業者・山口仙之助。
著書に、『帝国ホテル・ライト館の謎』(集英社新書)、『長崎グラバー邸 父子二代』(集英社新書)、『増補版 箱根富士屋ホテル物語』(千早書房)、『旅する理由』(同)、『消えた宿泊名簿―ホテルが語る戦争の記憶―』(新潮社)等がある。


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山口由美のエッセイ「ナミビア「室内の砂丘」を旅する」
第1回 赤い砂丘から「室内の砂丘」へ  2011年6月8日
「室内の砂丘」を見た人は、まずそれを絵画と疑う。次いで、写真であったとしても虚構の空間に違いないと思い、ついに現実の空間であると知っても、砂丘だけは、人の作為に違いない、と言う。
 なぜ虚構に見えるのか。
 その理由の少なくともひとつは、作品の舞台となったナミビアの砂漠、それ自体にあるのではないかと私は思う。
 私が初めてナミビアに行ったのは、1990年代初め、独立してまもない頃だった。その時、南アフリカのダーバンで旅行業界の展示会に参加していた私は、会場で衝撃的な砂漠の写真を見たのである。
 この世のものとは思えない、言葉を失う程に美しい、赤い砂丘の写真だった。私は、見えない力に導かれるようにして、その場で、帰国のフライトを遅らせ、ナミビアの首都、ウィントフック行きのチケットを手配した。写真が飾られていたブースには、スワコプムントという大西洋岸の町で旅行会社を運営する、サンタクロースを思わせる風貌の男がいて、ガイドとして案内すると言う。日本人のジャーナリストが来るなんてまたとないことだからと、彼もまた興奮していた。
 そうして行ったのが、ナミブ砂漠の心臓部にある赤い砂丘、ソーサスフレイである。日本では、いまだにほとんど知られていないが、いまはいいホテルも増えて、欧米では一部の知的好奇心の強い人たちの間で、ハネムーンの行き先として人気がある。だが、当時は、キャンプしか泊まるところはなかった。
 砂丘は、あきらかに目の前に存在しているのに、絵画を見ているような不思議な感覚があった。虚構の風景に見えるのは、南半球特有の強い光のせいなのか、乾いた空気のせいなのか。理由はわからないけれど、その圧倒的な存在感に私は立ちすくんだ。
 この体験がなかったなら、私は尾形一郎にナミビアのことを語ることはなかっただろう。彼が南アフリカの書店で「室内の砂丘」の舞台となる土地の写真に出会うのは、その後のことである。
 やがて、尾形優と一郎は、さらなるリサーチをしてナミビアに出かけるようになる。そして、私が衝撃を受けた赤い砂丘、ソーサスフレイよりもっと凄いもの、「室内の砂丘」の舞台と邂逅するのである。
 赤い砂丘に連なる非現実的な風景の砂漠が、人の欲望と出会った場所、それが「室内の砂丘」の世界だった。(続く)
(やまぐち ゆみ)


第2回 白地図の土地、ダイヤモンドエリアへ  2011年6月9日
私はすでにナミビアを知っていたから、砂漠のダイヤモンド鉱山の廃墟の話を聞かされたとき、直感的にどういうところであるかを理解し、行きたいと思った。予定を変更して、初めてナミビアに行った時のように。こうして、「室内の砂丘」のほとんどの作品が撮影された、2006年の尾形優と一郎の旅に私は同行したのである。
 最初のナミビアで私を案内してくれた男の町、スワコプムントから大西洋岸沿いに南下すると、「室内の砂丘」の拠点となる町、ルーデリッツがある。
 第一次世界大戦が終わるまで、ナミビアは、ドイツの植民地だった。沿岸のふたつの町は、ことさらにドイツ文化の影響がいまも色濃い。地ビールを売るビアホールのメニューにはソーセージやアイスバインが、朝食にはドイツ風の黒パンが並ぶ。
 だが、そこはアフリカであってドイツではない。ちょうど時代のリンクするゼツェッシオンの影響を受けた建物が、アフリカの原色を纏って荒涼とした風景の中に建つ。過酷な自然の植民地は、ドイツの、さながら日本にとっての旧満州のような土地だったのかもしれない。そこにダイヤモンドが発見されたのである。
 ルーデリッツに行く方法はいくつかあるが、その年、ケープタウンに用事があった私たちが選んだのは、自然のなりゆきとしてケープタウンからの定期便だった。
 旅の計画を立て始めた頃から、旅行会社の担当者から、この便はすぐに満席になるからと予約をせかされていた。現在もダイヤモンド鉱山が稼動する町、オランジェムントを経由する便だったからだ。
 オランジェムントで私たちは、ナミビアに入国した。独特の雰囲気が漂う白亜の空港ビル。町に入る者には、入国審査よりはるかに厳しい、ダイヤモンド会社のセキュリティーチェックがある。ダイヤモンドエリアを旅する私たちは、その後、しばしばデビアスとナミビア政府の合弁会社であるナムデブの係員に神経を尖らせることになる。
 地図を見れば、ここがどれほど特別な場所であるかはすぐわかる。オランジェムントとルーデリッツを結ぶ大西洋岸、道路も何も記されていない白地図の土地が、立ち入り禁止のダイヤモンドエリアなのである。
 「室内の砂丘」の舞台となったコールマンスコップ、エリザベスベイ、そしてポモマは、いすれもそのダイヤモンドエリアにある、鉱山町の廃墟である。(続く)
(やまぐち ゆみ)

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-1-2004」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-6-2004」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-9-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり


第3回 ハンス・シュミットさんの人生  2011年6月10日
ナミビアのダイヤモンドは、海洋ダイヤモンドと呼ばれ、もともとは海の中にあった。それが風に飛ばされて海岸に近い砂漠の上に降り積もった。20世紀前半、人々は、そうした砂の上のダイヤモンドを採取し、掘りつくすと、町を捨てた。その期間は、最も繁栄が長かったコールマンスコップで約20年、エリザベスベイで約5年、ポモマでは、ほんの数年のことでしかない。
 ダイヤモンドという欲望のために、砂漠に築かれた町。水はケープタウンから列車で運ばれた。繁栄の短さは、そのまま廃墟それ自体の空虚さにつながっている。
 そして、いまテクノロジーの進化によって、廃墟の周辺は、再びダイヤモンドの採れる土地となって封印され、訪れる者の旅を困難にする。海中からダイヤモンドを直接、採取できるようになったのだ。海中深く眠るダイヤモンドは傷が少なく、宝飾用として珍重される。私たちが許可証を必要とした理由である。
 鉱山町の廃墟には、欲望に翻弄された過去と現在が去来する。そのことを、あらためて実感させられたのが、ハンス・シュミットさんの人生だった。
 1927年生まれのハンスさんは、2歳の時、ドイツからナミビアにやって来た。父親が鉱山技術者の仕事を得たからだ。植民地の時代は終わっていたけれど、当時のドイツ人にとって、同時代、日本人にとっての旧満州がそうであったように、一旗あげようと人々がめざす土地だったのである。ハンスさんの一家はエリザベスベイで、繁栄の最後の5年間を暮らした。
 海に近いエリザベスベイは、冷たい風が吹きつける、荒涼とした廃墟だった。いまは、海洋ダイヤモンド採取の一大拠点になっている。だから、ひときわセキュリティーが厳しくて、私たちは、人と車と別々に、ダイヤモンドを感知するX線装置のような機械を何度も通らされた。
 ハンスさんは、ほとんど土台しか残っていない崩れた家の前に立って、「ここが私の家だよ」と言って笑った。
 ダイヤモンドエリアとして閉ざされた故郷に、彼は、こうしてガイドとして訪れる以外、来ることができない。打ち捨てられた廃墟は、石のひとつも拾うことが出来ない不自然な土地として、ここにある。その遠景に、現代の欲望の象徴である巨大なダイヤモンド工場が不気味にそびえていた。(続く)
(やまぐち ゆみ)

尾形一郎 尾形優
「Elizabeth Bay-3-2004」
2004年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-12-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10  サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-14-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-16-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10  サインあり


第4回 「室内の砂丘」のメッセージ  2011年6月11日
あらためて、エリザベスベイの朽ち果てた家の前に立ったハンス・シュミットさんの写真を見ると、どうにも重なってしまう風景がある。
 打ち捨てられた町と封印された土地。地震と津波に襲われ、そして、福島第一原発の事故によって封印された周辺の町である。
 自分の家に帰るのに宇宙服のような防護服を着る異常は、故郷に帰るのにダイヤモンド探査装置を通らなければいけない異常に重なる。巨大な富や利権に結びついていること、本来、それがなくとも人の生活が成り立つことにおいて、ダイヤモンドと原子力は共通しているのかもしれない。そして、人々は、それらを手にするために自然の条件を無視した。すなわち、地震と津波の危険のある海岸に原発を建て、砂漠の真ん中に建てた家に列車で水を運んだのである。
 いま一度、「室内の砂丘」の虚構性について考えてみたい。私は、理由のひとつが、ナミビアの砂漠そのものにあると書いたが、さらなる理由は、その砂漠が室内にある、という異常にほかならない。
 廃墟となり機密性を失った家に、外から風と砂が吹き込み、光が差し込んで、異常な状況を作り出す。そこにあるのは、砂漠にあるべきでないヨーロッパふうの家。ゼツェッシオンを思わせる装飾の壁紙と砂丘のコントラスト。そのありえない組み合わせが、「室内の砂丘」の虚構性の正体ではないか。
 だから、人は、それを作為と思い、虚構と信じる。それを出現させたのが、過酷な自然に抗い、砂漠に住んだ、人の欲望ということになる。
 自然に抗うこと。それは、20世紀以降の人類が、科学技術の発展をよりどころに疑いもしなかった考え方だ。ダイヤモンドエリアの鉱山町にも、そうした科学技術の恩恵があった。コールマンスコップには、当時、最先端の病院があり、アフリカで初めてのレントゲンが導入されていた。「室内の砂丘」の舞台となる町が生まれたのは、まさにそうした思想が台頭した時代なのである。
 自然に抗おうとした人たちの家が、廃墟となり、その中に砂丘が築かれている。それが決して虚構でなく、現実である事実。その事実に何を考えるかということが、自然を制御することの不可能さに気づき始めた私たちが、いま「室内の砂丘」と対峙することの意味なのかもしれない。(完)
(やまぐち ゆみ)

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-4-18-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-10-5-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

尾形一郎 尾形優
「Kolmanskop-17-5-2006」
2006年(2011年プリント)
ライトジェットプリント
イメージサイズ:40.2x32.1cm
シートサイズ:43.3x35.6cm
Ed.10 サインあり

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