1912年(明治45年) |
4月19日、東京府豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目27番地(現在の渋谷区渋谷1丁目6番1号)に佐藤勝身とハナの次男・佐藤俊介として生まれる。 |
1914年(大正3年) 2歳 |
父・勝身の林檎酒醸造の事業参画に伴い、一家で岩手県稗貫郡花巻川口町大字里川口第13地割170番地(現在の花巻市南川原町)に移る。後に、花巻川口町館町(現在の花巻市花城町一区)に移る。 |
1919年(大正8年) 7歳 |
4月、花巻川口町立花城尋常高等小学校(現在の花巻市立花巻小学校)に入学。 |
1922年(大正11年) 10歳 |
3月、父の関係した貯蓄銀行開設にともない、一家は郷里の盛岡市紺屋町に移る。
4月、岩手県師範学校附属小学校(現在の岩手大学教育学部附属小学校)に転校。 |
1925年(大正14年) 13歳 |
3月、附属小学校を卒業。
4月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。のちの彫刻家舟越保武と同学年。
入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴覚を失う。 |
1926年
(大正15年・昭和元年) 14歳 |
10月2日から再登校、中学1年生を繰り返す。
この頃、大正12年に設置された測候所下の、岩手郡浅岸村大字新庄第4地割字山王33番地(現在の盛岡市山王町)に移る。 |
1927年(昭和2年) 15歳 |
春、父・勝身から写真道具一式を贈られる。
3歳違いの兄・彬は、友人・古澤行夫(のちの漫画家・岸丈夫)のすすめにより、油彩道具一式を買い竣介に贈る。
6月から8月にかけて、《山王風景》や《山王山風景》を描く。
この頃、盛岡中学校の弓術倶楽部に属し、部活動に励む。 |
1928年(昭和3年) 16歳 |
春、盛岡中学校に絵画倶楽部が創立され、入部する。
12月17日、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載される。画業に専心することを決めた心情を述べる。 |
1929年(昭和4年) 17歳 |
3月、中学3年を修了して間もなく、盛岡中学校を中退する。
4月、兄・彬の東京外国語学校ドイツ語部入学を機に、母・ハナに付き添われて上京、現在の豊島区西池袋に住む。
太平洋画会研究所選科に入り、鶴田吾郎、阿以田治修などに指導を受ける。 |
1931年(昭和6年) 19歳 |
6月、石田新一、薗田猛、勝本勝義、田尻稲四郎らと太平洋近代芸術研究会を結成する。麻生三郎、寺田政明も参加。太平洋近代芸術研究会の研究会誌『線』を発行する。誌名は竣介が命名。
9月14日、会誌『線』第2号を発行し、同号で廃刊となる。
北豊島郡長崎町字並木1336番地(現在の豊島区長崎1丁目20番地)に転居。
この頃から谷中にある茶房リリオムに仲間たちと通い始める。
この頃、父・勝身が谷口雅春の主唱した「生長の家」の運動に傾倒し始め、兄・彬、竣介にも影響を与える。 |
1932年(昭和7年) 20歳 |
4月、太平洋近代芸術研究会の中心メンバーとともに赤荳会を結成。北豊島郡長崎町北荒井(現在の豊島区要町1丁目)の雀ヶ丘に貸しアトリエを共同で借り研究所とする。
この頃、靉光との交流も始まる。
5月8日、兵役免除を受ける。
9月頃、赤荳会内で衝突があり、会が解散する。解散後も、仲間はリリオムに集い、交流は続く。鶴岡政男、難波田龍起、麻生、寺田らも集まる。 |
1933年(昭和8年) 21歳 |
4月、第5回北斗会美術展に《肖像》など5点を出品。
8月、兄・彬が「生長の家」の機関誌『生命の芸術』の創刊に携わる。竣介も10月から1936年10月の最終号まで「でつさん」「人間風景」等の文章や挿絵を寄稿し、編集にも携わる。 |
1934年(昭和9) 22歳 |
2月4日、慶應義塾大学予科英文学教授の松本肇(後の夫人・禎子の父)死去。肇は生前『生命の芸術』を通して兄・彬と交流があったことから、この時、肇の次女・禎子を知る。
6月、第6回北斗会美術展に《風景A》など3点を出品。
夏、「生長の家」の出版物を販売する「光明思想普及会」設立に際して、父・勝身と母・ハナが上京し、一家は渋谷区原宿2丁目170番地8号(現在の渋谷区神宮前3丁目14-15番地)に移る。竣介も光明思想普及会の宣伝広告や編集の仕事を手伝う。
12月、NOVA美術協会の機関誌『NOVA』第2号に「画室の覚え書き」を寄稿。
鶴岡、難波田らとの交友を深める。 |
1935年(昭和10年) 23歳 |
1月、第5回NOVA美術協会展に《並木道》など3点を出品し、同人となる。『NOVA』第3号にも「画室の覚え書き」を寄稿。
9月、第22回二科展に《建物》を出品し、初入選を果たす。 |
1936年(昭和11年) 24歳 |
1月、第6回NOVA美術協会展に《洋館》とデッサンなど15点を出品。
2月3 日、松本禎子と結婚し、戸主として松本家に入籍、松本姓となる。淀橋区下落合4丁目(現在の新宿区中井)に新居を構え、義母・恒、義妹の泰子、栄子と同居する。
この頃、自宅のアトリエを「綜合工房」と名づける。
9月、光明思想普及会から退く。
同月、第23回二科展に《赤い建物》を出品。
10月、『生命の芸術』が10月号で廃刊となる。高見順、佐藤春夫、高村光太郎、長谷川利行、福沢一郎、靉光、麻生ら多くの作家、画家が随筆や素描を寄稿する。
同月、以前から禎子と構想を温めていた月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊。発行所はアトリエ「綜合工房」。同誌には林芙美子、萩原朔太郎、高村光太郎らが文章を、藤田嗣治、福沢一郎、鶴岡らが素描を寄せ、原奎一郎は経済的にも援助する。また、自ら「雑記帳」等の文章や素描を手掛ける。 |
1937年(昭和12年) 25歳 |
1月、第7回NOVA美術協会展に《有楽町駅付近》や《婦人像》など21点を出品。
4月4日、長男・晉が誕生するも、翌日、死去する。
9月、第24回二科展に《郊外》を出品。
11月、赤荳会およびリリオムのメンバーと共に、黒豆会を結成し、毎月会合を開く。
12月、『雑記帳』を第14号をもって廃刊する。 |
1938年(昭和13年) 26歳 |
この年の前半に、柳瀬正夢『無産階級の画家ゲオルゲ・グロッス』(鉄塔書院、1929年刊)から人物像を模写し、研究する。
9月、第25回二科展に《街》《落合風景》の2点を出品。 |
1939年(昭和14年) 27歳 |
2月、第7回フォルム展に《建物》など5点を出品。
7月13日、次男・莞が誕生する。
9月、第26回二科展に《序説》を出品。
11月、第1回六藝会展に《夕方》を出品。 |
1940年(昭和15年) 28歳 |
3月、第2回九室会展に《N駅近く》《黒い花》の2点を出品、以後会員になる。
8月、第27回二科展に《お濠端》《都会》を出品し、特待を受ける。
10月、銀座・日動画廊で初個展となる松本俊介個展を開催し、30点を出品。
同月、紀元二千六百年奉祝美術展の第2部西洋画に《街にて》を出品。 |
1941年(昭和16年) 29歳 |
3月、『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し投稿した「生きてゐる画家」が同誌4月号に掲載される。
5月、盛岡で松本俊介・舟越保武ニ人展を開催し、《横浜風景》など30点を出品。
8月、第1回岩手美術連盟東京展に《盛岡風景》を出品(のち同展は盛岡へ巡回)。
9月、第28回二科展に《顔(自画像)》《画家の像》を出品、会友になる。 |
1942年(昭和17年) 30歳 |
2月、日動画廊で松本俊介第2回個人展を開催し、《議事堂のある風景》など35点を出品。
9月、第29回二科展に《立てる像》《小児像》の2点を出品。
10月、盛岡で澤田哲郎・舟越保武・松本俊介三人展を開催し、10点を出品。
この年、花巻時代の友人・砂賀光一の紹介で池袋の「レディ美容室」、蒲田の喫茶店「ブルーハワイ」、巣鴨のクラブ「世紀の翼」、五反田の「バー・ゴールドウィン」等の壁画制作の仕事をする。 |
1943年(昭和18年) 31歳 |
4月、麻生、靉光、寺田、鶴岡、大野五郎、糸園和三郎、井上長三郎と新人画会を結成し、第1回展に《鉄橋附近》など5点を出品。
9月、第30回二科展に《三人》を出品。
11月、第2回新人画会展に《並木道》などを出品。 |
1944年(昭和19年) 32歳 |
この頃、初めて「俊」から「竣」へサインの文字が変えられている。父・勝身のすすめであるという。
2月3日、理研科学映画(豊島区西巣鴨)に第三製作部描画課員として勤務、後に動画課へ移る。
5月9日、召集を受けた靉光の壮行会に出席。
9月、第3回新人画会展に《りんご》などを出品。 |
1945年(昭和20年) 33歳 |
3月下旬、空襲が激しくなり、家族を島根県松江市に疎開させ、義妹・栄子とアトリエに残る。
同月、空襲により、理研科学映画は神奈川県大船に移る。
4月、長女・洋子が誕生する。
9月、前月の終戦を受けて理研科学映画が解散する。
同月、盛岡出身の友人・池田平吾の経営する中学通信教育の会社、育英社を手伝う。
11月、盛岡で松本竣介・舟越保武ニ人展を開催し、《りんご》など数点を出品。 |
1946年(昭和21年) 34歳 |
1月、美術家組合を提唱する「全日本美術家に諮る」と題する文章を自費で印刷し、画家や知識人に郵送。
2月1日から育英社に毎日勤務するようになる。
3月、『美術』第3巻第3号に「全日本美術家組合の提唱」が掲載される。
4月21日、日本美術会の創立に参加。
11月、日動画廊で松本竣介・麻生三郎・舟越保武三人展を開催し、《少年像》など20点を出品。
同年から翌年にかけて、小川未明、林芙美子らの著書や雑誌の装幀、挿絵を手掛ける。 |
1947年(昭和22年) 35歳 |
1月、家族が疎開先から帰京。
同月、新人画会の麻生、鶴岡、井上と自由美術家協会に参加、会員になる。
6月、第1回美術団体連合展に《少女》など3点を出品。
7月、第11回自由美術家協会展に《人》《パイプ》など5点を出品。
10月、岐阜で松本竣介・麻生三郎二人展(舟越保武も出品)を開催。
同月、長女・洋子死去。
12月、育英社が解散。
同月、風邪をこじらせクルップ性肺炎にかかり、体調を崩す。 |
1948年(昭和23年) 36歳 |
2月、自由美術会員新作展に出品。
同月、次女・京子が誕生する。
5月、高熱をおして、絶筆《彫刻と女》《建物》《建物》の3点を完成させ、第2回美術団体連合展に出品。
6月8日、持病の気管支喘息による心臓衰弱のため自宅で死去。法名「浄心院釈竣亮居士」。
現在、島根県松江市奥谷町の真光寺に、妻・禎子(2011年11月死去)とともに眠る。 |