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平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき
第4回 2020年09月14日
その4 『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』――太田道灌の江戸城

文・写真 平嶋彰彦


 2006年8月に定年退職になった。『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編)が最後の仕事だった。「1966年の開館から40周年を迎える今、その革新的な建築技術・デザインとそれを具現したひたむきな情熱の原点を解読する」はこの本の帯の一節で、私が書いた。仕事を受けた時は編集だけのつもりだったが、いろいろな成り行きから写真も撮ることになった。連載その2でも書いたが、会社勤めの締め括りに現役のカメラマンであるのが夢だったから、誤解を恐れず言うなら、棚から牡丹餅みたいな話で、私にとっては忘れがたい仕事の一つとなった。
 表紙カバーには、パレスサイドビルを皇居北桔橋門から平川濠越しに撮ったカットを使った(ph1)。この門をくぐるとすぐ目の前が皇居本丸の天守台である。撮影はその年の5月3日。朝起きると雨上がりの空が抜けるような青さだった。憲法記念日で祝日だったが、こんな天気を逃したら後で悔やむことになると自分に言い聞かせ、不承不承ながら撮影に出かけることにした。案の定で、撮影は午前中で一段落したが、午後になると靄がかかってしまい、その日以降、ビルの特徴である白亜の円筒を際立たせる天候条件は一日もなかった。

書影背表紙書影裏
ph1 『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日新聞社、2006)。カバー表は、北桔橋門から平川濠越しに見たパレスサイドビル。カバー裏は、ビル屋上に飾られた伝書バトの像。

 カバーの裏に使ったのは、屋上の庇で羽根を休め、皇居と東京の市街を見守るアルミ製鋳物の伝書鳩のカットである。西洋建築にも日本建築にもよくある魔除けの呪物だが、たいていは鬼や妖怪の類を守護神として飾っている。恐ろしくも何ともないハトというのは奇抜と言えば奇抜で、自由闊達な毎日新聞社になんとなく似つかわしいと思った。
 新聞社はどこもそうだが、伝書鳩がニュース速報の花形として長いあいだ活躍した。それに加え戦後になると、ピース(たばこ)のオリーブの枝をくわえたハトというデザインの影響が大きいと思うが、ハトは平和の象徴であるというイメージがひろまった。(註1)。パレスサイドビルはベトナム戦争が泥沼化した時代の建築である。ハト(伝書鳩)というモチーフには、武器ではなくペンによる平和を実現しようとする新聞社ならではのメッセージが込められていたように思われた。
 改めて資料を見直すと、パレスサイドビルは奇抜と言えば奇抜だらけだった。以下に紹介するのはその極めつけとも言える。巻頭の見開きに竣工当時の航空写真を使っている。撮影は建築写真の第一人者として知られる村井修。東正面玄関の車寄せに庇があるが、上から見下ろすと、なんと言うことか、庇の表面は白地に真っ赤な日の丸のデザインになっている。パレスサイドビルの設計は林昌二(日建設計)であるが、林は藤岡洋保(東京工業大学大学院教授)との対談で、その理由を次のように述べている。
 「あの頃は敗戦が悔しくて、上から見ると四角を白く塗って、真ん中の丸を真っ赤にしたんです。そうしたらそのちょうど上の2階にリーダースダイジェスト東京支社の社長室があって、トンプソンさんという人がびっくり仰天したらしいんです(笑)。でも塗り替えろとは言われなかった」(註2)
 リーダースダイジェスト東京支社の旧社屋は1951年の竣工で、アントニン・レーモンドが設計した。レーモンドはフランク・ロイド・ライトの弟子で、1919年に帝国ホテルの建設のため来日。そのまま日本に滞在し、聖路加病院や東京女子大チャペルなどを手がけた。1938年にいったん米国へ戻り、1941年には東京の設計事務所を閉鎖するが、戦後の1948年に再来日し、建築活動を続けた(註3)。
 林昌二は中学生のとき、空襲で家を焼失した戦争体験があった。米軍は日本本土を空襲するために焼夷弾を使用した。木造家屋を効率よく焼き払うこの爆弾の開発には、日本の住宅事情に詳しかったアントニン・レーモンドの協力があった、と林は言及している(註4)。
 そのレーモンドはリーダースダイジェスト旧社屋の建替計画を知ると、
 「自分の怒りを表現すべき言葉が見当たりません」
 と抗議文をパレスサイドビルの施主である3社に送った。これにたいする林昌二の言葉はこうである(註5)。
 「レーモンドは先生でありライバルでもあった。それが私たちの跳躍台になり、パレスサイドビルが建てられたのではないかと思う。リーダースダイジェスト社屋とはDNAを共有している。パレスサイドビルはリーダースダイジェスト社屋の“同地転生”である」
 パレスサイドビル正面の全面ガラスのカーテンウォールをリーダースダイジェスト旧社屋の写真と見比べれば、レーモンドのデザインを継承しつつ、さらに飛躍させようとしているのは素人目にも確認できる。屋上に造られた庭園もまた、旧リーダースダイジェスト社屋にあったイサム・ノグチが造った庭園を強く意識したもので、英国風の植栽で整備された芝生に置かれた自然石もノグチの庭園にあったものをそのまま利用している。
 私は28歳のときから40年余りパレスサイドビルに通った。建築は門外漢だから、オフィスビルとしての良し悪しは分からない。しかし、どことなく堅苦しく気取った名前にもかかわらず、人を威圧する雰囲気をまったくと言っていいほど感じさせない。そこが私のパレスサイドビルの好きなところだった。

 昨年の2月、皇居東御苑を訪れることがあった。大学写真部の旧友たちと続けている東京の街歩きで、パレスサイドビルの向かいにある平川門から入り、二の丸・本丸をめぐって、大手門に出るというコースだった。二の丸から本丸に通じる坂が2つあるのだが、灯台下暗しというか、不勉強というか、坂の名前と由緒はこのとき始めて知った。
 その1つが梅林坂で、ちょうど外国人観光客たちが満開に咲く梅の花を背景に記念写真を撮っているところだった(ph2)。家に帰ってから千代田区観光協会のHPをみると、梅の木は1967年の東御苑の開園に併せ植樹されたもので、坂名は1478(文明10)年に太田道灌が菅原道真を祀り、梅の木数百株を植えた故事によるという。そこで戸田茂睡の『紫の一本』(1681〜83・天和年間成立)にあたってみると、次のように書かれている。
 「梅林坂 御城の内に在。此所に昔天神の社在り。是は太田道灌、武州入間郡川越御吉野の天神を勧請せらる」(註6)。

202009平嶋彰彦ph3ph2 梅林坂。満開を迎えた梅の花と外国人観光客。2019年2月26日。

 もう1つが汐見坂である(ph3)。汐見というからには、ここから海が見えたに違いない。『紫の一本』で改めて調べてみると、この坂にも言及があり、思った通りで、戸田茂睡はこんなふうに書いている。
 「塩見坂 梅林坂の上切手御門の内之此所より海よくみへ、塩のさしくるときは波たゞこゝもとによるやうなるゆえ塩見坂といふ。今は家居にかくれて海みえず」
 「塩見坂」は汐見坂のこと。「家居」は、大手町から日比谷までの一帯に大名屋敷が建ち並ぶ、いわゆる大名小路のことを指す。『江戸切絵図』(1849・嘉永2年)をみると、大名小路北西のはずれに御舂屋がある。現在地図に照らし合わせると、その跡地にパレスサイドビルが建っているのが分かる(註7)。

202009平嶋彰彦ph3 汐見坂=新規入稿ph3 汐見坂。江戸時代の初めまでは、ここから間近に海が見えた。2019年2月26日。

 海が見えなくなったのは、埋め立てたからである。太田道灌が江戸城を築いた1457(長禄元)年のころ、城内から間近に海が見渡せたことは知っていたが、汐見坂の坂名が今でも残っているのは新鮮な驚きだった。後代の史料になるが、『江戸名所図会』(巻之六、「自得山静勝寺」、1836・天保7年)によれば、太田道灌は寛正年間(1460〜66)に上洛したとき、天皇から平生の眺望を問われると、次の歌を詠んで応答した(註8)。
 「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞみる」
 「庵」は江戸城内にあった道灌の居館のことで、静勝軒とも呼ばれたという。「海」は日比谷入江と称された遠浅の海岸線。浜松町・新橋から日比谷公園をへて、パレスサイドビルに隣接する丸紅ビルのあたりまで食い込んでいた。道灌にとって日比谷入江と富士の眺望は一番の自慢だったに違いない。
 日比谷入江は徳川家康が関東に入府すると埋め立てられ、1628(寛永5)年までに市街地(宅地)化された。パレスサイドビルの正面に平川濠と平川門があるが、平川は神田川の旧名で、現在は駿河台をへて浅草橋の先から隅田川に合流する川筋だが、もとは平川門の辺りで日比谷入江に注いでいたという(註9)。
 徳川幕府は日比谷入江を埋め立てる一方で、軍事的戦略と経済的流通の両面の観点から、江戸城を中心に濠と運河を縦横に開削した。林昌二の言葉を借りるなら、家康の江戸は道灌の江戸の“同地転生”であり、残された絵画や写真の史料を見れば、東洋のベニスと呼ばれるにふさわしい水辺の都市空間だったことが分かる。
 汐見坂近くの展望台に立つと、パレスサイドビルが一望にされた(ph4)。今から400年ほど前には、この辺りが日比谷入江の最奥部だったのである。画面手前が白鳥濠。その奥にみえる急斜面が汐見坂である。坂の正面方向を真っすぐたどると大手濠。その対岸の高層ビルの林立する一画に将門塚(大手町1-2-1)がある。

202009平嶋彰彦ph4ph4 本丸展望台から見たパレスサイドビルの眺望。2019年2月26日。

 将門塚の辺りには、現在は駿河台にある神田神社(神田明神)の旧社地があった(註10)。神田神社について、次のような記述が『永享記』にある(註11)。
 「神国[田]の牛頭天王、安房洲崎明神と一体にて、武州神奈川・品川・江戸、何[連]も此の神を祝ひ奉る。或る人の云く、平親王将門の霊を、神田明神と崇め奉るとかや」
 この記事によれば、神田明神の祭神は牛頭天王で、安房洲崎明神(天比理刀当ス)と本地垂迹の関係にあり、併せて平将門を祀っていたことになる。
 安房洲崎明神は航海の守護神で、所在地は東京湾の出入口である館山市洲崎。神奈川(現在の横浜市神奈川区南部)、品川、江戸に安房洲崎明神が勧請されたのは、そこが武蔵国における海上交通の要衝だったからだとみられる。ということは、神田明神の旧社地の辺りは、諸国からの廻船が集散離合する湊になっていたことを示唆する。中世のころの江戸城の位置は学術的には実証されていないというが、「松原つづき海近く」と道灌が詠んだ水辺の景観は、現在の大手濠辺りのことではなかったかと想像される。
 
(註1)タバコのピースが、オリーブの枝をくわえるハトのデザインで売り出されたのは1951年。このデザインの美しさは鮮烈で、タバコは吸わなくても小さいころから、ピースが平和を意味することは知っていた。
(註2)「デザインや技術、モノづくりに対する高い志を結晶させた大規模複合ビルの先駆」(『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収、毎日新聞社、2006)
(註3)「RAYMOND」(株式会社レーモンド設計事務所HP)。
(註4)『建築家 林昌二毒本』(新建築社、2004)
(註5)「アントニン・レーモンドを超えて」(土屋繁、『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収)
(註6)『紫の一本』(上巻、1714・正徳4年発行本、国会図書館デジタルコレクション)。御吉野は三芳野。
(註7)「御江戸大名小路絵図」(『江戸切絵図』所収、尾張屋版、1849・嘉永2年、国会図書館デジタルコレクション)。御舂屋は「江戸幕府営中の諸士に給する領米をつく所」(『精選版 日本国語大辞典』)
(註8)『新訂 江戸名所図会5』(ちくま学芸文庫、1997)
(註9)「江戸の上水」(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』所収、鈴木理生編、柏書房、2003)
(註10)「神田神社」(『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』所収、平凡社、2002)
(註11)『永享記』は永享の乱(1438年)とそれ以後の関東の動乱を描いた軍記物語。作者、成立年代は不明。『続群書類従』所収。

ひらしま あきひこ

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は毎月14日に更新します。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。


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