駒井先生が手がけた作品は油彩、水彩、銅版画、リトグラフ、木版画、モノタイプなど多岐にわたりますが、総数がいったいどのくらいになるのか、実はいまだによくわかりません。
正確なレゾネがないからですが、これも繰り返し展覧会が行われていくうちには段々と究明されていくでしょう。
いままで最も大規模な展覧会だったのは、1980年に上野の東京都美術館で開催された「駒井哲郎銅版画展」ですが、その図録には409点が収録されています。うち銅版画は357点。
このとき、駒井哲郎の銅版画を可能なかぎり集め展示しようと関係者が尽力したことは、その展覧会名からもあきらかですが、美術館はもちろん遺族のもとにもない作品が少なくありませんでした。
そのため「出品作品の一部はこの展覧会の為遺族の許可をえて関係者の刷った後刷りの作品です。」(同図録凡例より)という注記からわかるように、没後の後刷りがされました。
ちょっとわき道にそれますが、このときの図録は古書価も高く、駒井哲郎研究には欠かせない便利な文献ですが、残念な欠陥がある。大部な図録なのに「ページ」の記載がない!
だから引用しても「何ページから」という記載ができない。不便です。
それはともかく、当時現物がなかった作品は遺族のもとにあった原版から後刷りしたので、全部をカバーできたはず、と思うのは素人の・・・・
実は「原版」そのものが失われてしまったものが少なくない。
駒井哲郎先生は、この連載の<「束の間の幻影」はいったい何枚刷られたか>の項でご説明したとおり、生前ご自分の作品を何回も刷る(セカンド・エディション)ことを躊躇しなかった。むしろ諸般の事情(経済的など〜)から積極的に後刷りをしたふしもあります。
また見込みのある弟子に原版を預け、勉強のためか後刷りさせたこともたびたびありました。
特に評価の高かった(需要の多かった)1940〜50年代の初期名作のうち、例えば「丸の内風景(1938)」「足場(1942)」「束の間の幻影(1951)」等はその後何度も刷られ(セカンドエディション)、市場にも出ます。版も遺族のもとに残されています。
ところがある種の作品についてはほとんど市場に出てきません。ここで具体的な作品名を挙げたいのですが、駒井作品を商売にしている以上、企業秘密というものがある。
申し訳ありませんが、これは勘弁してください。
なぜ市場に出てこないか。「原版」そのものが失われてしまった可能性が非常に高いのですね。したがって、ある種の作品に関しては、駒井先生自身の後刷りももちろんありません。
つい先日、名編集者としてならしたM先生にお会いする機会があり、そのことをお話したところ、「そういえば 駒井さんに名作●●●●●について取材したことがあり、版はどうしたかと尋ねたら、駒井さんが呑んじまった、といってたなあ」というたいへん貴重な証言をいただきました。
えっ呑んじまった?
いまの人にはおわかりにならないでしょうが、私も子どもの頃、銅線(あか)を拾って集め屑屋にもっていくと、結構なお小遣いになった記憶があります。
製版された<銅版>を売るということはあの当時ならあり得ました。
駒井先生はいつも呑み代に困っていたので、ご自分の銅版の原版を作品としてではなく、ただの物体として売り払ってしまったということでしょう。
〜ん、なんともったいないことを・・・・