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駒井哲郎を追いかけて 第11回〜第20回
<第1回〜第10回          第21回〜第30回>

名作にみる謎の限定部数(前編)〜駒井哲郎を追いかけて第20回

駒井哲郎樹木ルドンによる素描駒井哲郎の名作「樹木 ルドンの素描による」は、伊達得夫の書肆ユリイカから出版された小山正孝との詩画集「愛しあふ男女」に挿入されたエッチングです。
自身「巴里から帰って来て仕事もなく、もちろん絵も売れなくて困っている時期がずいぶん永く続いたように思う。そんなある時、小山正孝の詩集に銅版画で挿絵をやらないかといって来てくれた・・・(中略)。早速、とびついて仕事をした。これが日本に帰ってからの最初の詩画集だった。」(ユリイカ1971年12月号)と回想しているように、フランス留学(1954〜55年)から帰国した後のスランプを脱出し、作家が新たな成熟期に向かう転機となった作品であり、一連の樹木連作の出発点となった作品です。
駒井先生の画集や、関連図書の多くに掲載されているので、駒井ファンなら一度は眼にしたことがあるのではないでしょうか。私も実物の作品だけは何度か扱いました。

ところが(これが重要なのですが)、この「樹木 ルドンの素描による」は単品で発表されたわけではなく、小山正孝との詩画集に挿入されたものです。
お恥ずかしいことながら私は、つい先日まで、この詩画集本体に触ったことがありませんでした。余りに有名なので、本体から離れて作品のみが流通してしまった結果でしょう。

駒井哲郎愛しあふ男女表紙

このたびようやく念願の小山正孝詩・駒井哲郎画「愛しあふ男女」を完全なる形で遂に手にすることができました。その結果、意外な事実が判明しました。




先ず、ねたをばらす前に、この作品が文献にどう記載されているかチェックしましょう。


文献(1)駒井哲郎先生の生前に刊行されたレゾネ『駒井哲郎銅版画作品集』(1973年 美術出版社 227点収録)
以下<>内が引用文です。
<64 樹木 ルドンの素描による
 エッチング 23.3×20.1cm 1956 限定125部>

文献(2)次に、没後に刊行されたレゾネ『駒井哲郎版画作品集』(1979年 美術出版社 366点収録)ではどうなっているか。
<84 樹木ルドンの素描による
 エッチング 23.3×20.1cm 1956 限定125部>
レゾネ番号がずれた以外は(1)とまったく同じです。

文献(3)それでは収録点数が最大の東京都美術館刊行の『駒井哲郎銅版画展』図録(1980年 409点収録)ではどうか。
<85 樹木 ルドンの素描による
 エッチング 23.3×20.1cm 1956 Ed125 E・A  
<愛しあう男女>小山正孝詩,駒井哲郎画,1957年ユリイカ刊行の挿画
 美ー84>
ほとんど同じで、E・A が加わったことと、本の題名が間違っているくらいですかね(正しくは、<愛しあふ男女>)。

つまり後者2冊とも(1)の生前レゾネを丸写ししたんでしょうね。
ところが、(3)の図録の巻末(以前指摘しましたが、この貴重資料の図録にはノンブルがないので、引用箇所を明示できない)の年譜には面白い記述があります。
1957年の項に<小山正孝詩集 愛し合ふ男女(書肆ユリイカ 限定152部)>とあります。
またまたタイトルが間違っているのはご愛嬌ですが、とにかくここで初めて152部という限定部数の分母が出てきました。
本文には125部、年譜には152部と記載されている。いったいこれはどうしたのでしょう。

文献(4)次に、『駒井哲郎ブックワーク』(1982年 形象社)を見てみましょう。
94ページに「愛しあふ男女」の表紙と挿画の図版が掲載されており、以下の説明がされています。
<愛しあふ男女 小山正孝著 昭和三二年(一九五七) ユリイカ刊
 『愛しあふ男女』の挿画五点とオリジナル・エッチング「樹木 ルドンの素描による」一点入り。限定一五二部。B四判のカルトン入り。>
この「駒井哲郎ブックワーク」に掲載された図版の左下の限定番号を虫眼鏡で見ると確かに105/152となっています。
〜ん、
 
では最後に実物にあたりましょう。

駒井哲郎愛しあふ男女奥付
詩画集の奥付にはご覧のように、<限定150部の内 50 番>とはっきり記載されています。

駒井哲郎ルドン樹木限定番号ところが、中に挿入された実物の銅版画作品には作品左下に限定番号が鉛筆で記入されていますが、なんと<50/152>と書いてあります。

実物の詩画集本体の奥付には限定150部とありながら、挿入された作品には152という限定部数の分母が記入されている。
これじゃあ、混乱するはずですね。

レゾネなど文献4種類には、125部、152部という限定部数表記が混在し、
実物の詩画集には、150部、152部という限定部数表記が混在する、という世にも不思議な事態が今まで放置(?)されてきたわけですね。
これをどう考えるべきか、次回に熟考しましょう。
              2006.12.11 綿貫不二夫


福原義春氏の講演〜駒井哲郎を追いかけて第19回

福原氏講演061119 開館20周年を迎えた世田谷美術館ではいま「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展という好企画が開かれていますが、同時にいろいろなゲストを招いた20周年記念トークも行われています。
 先日11月19日には「わがコレクション:駒井哲郎」と題して福原義春さんの講演があり、私たちも聴講して参りました。
福原さんは資生堂の社長・会長を歴任、現在は名誉会長であり、同時に東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会会長(理事長)として文化関係でも活躍されています。美術品のコレクターとしても知られ、特に駒井哲郎のコレクションは質量ともに有数のものであり、その多くが世田谷美術館に寄託されています。
 ちょうど東京新聞の夕刊で「この道」という福原さんの自伝が長期連載されており、経営者としての辣腕ぶりも知ることができます。
 さて当日の福原さんのトークは、ご自身の慶應幼稚舎時代の回想から始まりました。
恩師の吉田小五郎先生から「あなた達の先輩に普通部を卒業後、美術学校に進んだ駒井哲郎という人がいる」と繰り返しいわれたと福原さんは語りだします。
この「繰り返しいわれた」というのが大事で、慶應の幼稚舎というところは1年から6年まで一人の教師が同じクラスを担任するのですね。
慶應大学史学科の講師も兼ねる大学者が平教員として小学校1年から6年までを継続して教える、子供達に決定的な影響を与えたに違いありません。「個性」を尊び、ただ漫然と慶應を出て社会人になることだけが人生ではない、ということを教えられたのでしょう。

 因みに吉田小五郎は、川上澄生のパトロンとして有名な瓢亭吉田正太郎の弟で、明治35年、新潟県柏崎で生まれ、慶応義塾大学文学部史学科に進み、幸田成友(露伴の弟)の薫陶を受け、キリシタン史を学ぶ。卒業後幼稚舎の教員になり、舎長10年、再び平教員となり定年を迎える。この間、人間味あるれる師弟の交流は深く、死後「回想の吉田小五郎」が教え子たちにより発刊された。著書には名著「キリシタン大名」を代表に、キリシタンものの翻訳などのほか、「犬・花・人間」「柏崎ものがたり」などの人間愛と英知にみちた随筆集がある。また、趣味豊かな美の追求者で草木を愛し、民芸に通じ、明治の石版や丹緑本などの収集家でもあった。昭和48年、郷里柏崎へ戻り、昭和58年夏、81歳で没。(広報かしわざきより引用)

 吉田先生の教えが福原さんに大きな影響を与えたことは、駒井哲郎先生のことを知り、後に1960年頃(資生堂の新人社員時代)、南画廊や版画友の会で駒井作品を購入するきっかけになったことでも明らかでしょう。「僕にもあの駒井さんの作品を買えるんだと思った」と述懐されています。

 話が横道にそれますが、私が編集を担当した「資生堂ギャラリー七十五年史」(1995年刊)の巻頭には当時社長だった福原さんの「刊行の辞」が掲載されており、そこには<私は尊敬する恩師である吉田小五郎先生から、常に幸田成友先生の「オリジナルに還れ」のことばを教えられてきた。引用によらず一次資料による研究こそもっとも正当な歴史に対する態度である。>と書かれています。
吉田小五郎先生、さらにその師である幸田成友先生の言葉までをも小学生の頭に浸み込ませた教育の凄さというか、優れた人格からの感化というのは驚きですね。

 そうやって先輩駒井哲郎のことを知り、サラリーマン・コレクターとしてぽつぽつと作品を買い続け、結果的に日本有数の福原コレクションが形成されます。
掲載した少しピンボケの写真、福原さんの後ろにプロジェクターで映された作品は「滞船」という小品(12×12cm)ですが、1935年の制作。15歳のときです。
最も初期の銅版画ですが、おそらく現存はこの福原コレクションただ一枚でしょう。
 
 トークの最後に「私の夢は、東京都現代美術館の銅版画コレクション、世田谷美術館のブックワークのコレクション(挿画、カット他)、そして私のモノタイプ、水彩などのカラー作品がまとめられ、完全なカタログレゾネが刊行されることです。」とおっしゃっていました。
 
 駒井ファンとして完全なカタログレゾネの刊行を私も切に願う次第です。
                 2006.11.23  綿貫不二夫


「沈黙の雄弁」所収の後刷り〜駒井哲郎を追いかけて第18回

駒井哲郎沈黙の雄弁表紙  この連載の2月18日の項で、ご紹介した「沈黙の雄弁」という本(特に特装版)について掲示板でご質問があったので、詳しくご説明します。
昨秋、駒井哲郎先生の命日にご遺族によって出版されました。
「駒井哲郎文集を編輯」したもので、縦245×横197×厚さ45mmの白い箱に入った667ページの分厚い本です。
掲載した図版の一番目は、この本の表紙と外箱です。
普及版と特装版の二種類があるのですが、表紙その他、中身もまったく同じです。
ただ一点、銅版画(後刷り)が挿入(綴じ込み)されているかだけの違いです。

駒井哲郎沈黙の雄弁奥付 次の図版は、この本の奥付です。普及版と特装版、いずれも全く同じです。
<沈黙の雄弁
  二〇〇五年十一月二十日発行
  著者  駒井哲郎
  著者  駒井美子
  発行者 大竹正次
     *
      製作 校倉書房
     非売品>

<>内が奥付の全文です。他に何も記載されていません。

駒井哲郎沈黙の雄弁特装版 私は当初、普及版をいただいたのですが、この本に特装版(銅版後刷りを挿入)があることを不勉強で知りませんでした。それも8種類もあるなんて(!・・・・)。
後日、特装版の存在を知り、慌てて入手しました。
三番目の図版が、その8種類の中の一冊です。左ページに挿入されているのは1958年制作の「海辺の貝」というメゾチント作品の後刷りです(レゾネ番号106)。
8種類の中では最も希少な作品です。


駒井哲郎沈黙の雄弁チラシ 本それ自体には、特装版のことも、挿入版画のことも、部数のことも一切記載がありません。
その代わりに中に二つ折りのチラシ(栞)が一枚入っておりました。
それが4番目の図版です。
そのまま正確に引用しますと、
<「沈黙の雄弁」は、特装版のみ限定200部が刊行された。
1冊につき各1葉ずつ納められている銅版画は全てで8種類あり、
それぞれ25部が摺られ、ナンバーが記され、アトリエマークがエンボスされている。
内訳は下記のとおり。
1.「Radio Activity in my room」
  エッチング・メゾチント・エングレービング 9.9×8.3cm 1949

2.「記号の静物」
  エッチング・ドライポイント・ソフトグランドエッチング 9.4×8.8cm 1951

3.「海辺の貝」メゾチント 10.0×12.0cm 1958

4.「物語の朝と夜」メゾチント 10.0×12.0cm 1958

5.「一樹」エッチング 16.4×8.7cm 1960

6.「風船」エッチング 7.6×7.6cm 1960

7.「向かい合う魚」エッチング 6.7×11.6cm 1965

8.「大樹を見上げる魚」エッチング 12.8×8.2cm 1967>


引用した< >内の記述とともに8種類の図版が掲載されています。

このチラシ(栞)の裏面には、<栞作成 森井書店>と記載されています。
つまり、奥付にはない古書店さんが栞のみ制作したということなのでしょうか。
謎は残ります。

 瑛九やゴヤを持ち出すまでも無く、版画作品の没後の後刷りは、生前刷りのオリジナル版画の市場的価値を大きく左右します。
今まで、駒井哲郎先生の没後の後刷りは極く限られたものだけ(たとえば美術館収蔵のための)でしたが、この「沈黙の雄弁」特装版のように組織的な後刷りが出現すると、コレクターの皆さんにとっては、その正確な情報(いつ、誰が、どういう目的で、何部、後刷りしたか)が何より重要です。
そういう意味ではこのたった一枚の栞の役割は大きいですね。なくさないようにしましょう。


大コレクターが語る駒井哲郎〜駒井哲郎を追いかけて第17回

世田谷美・福原講演 松方コレクションを持ち出すまでもなく、あるコレクターが蒐集したコレクションが無傷のまま次の世代に引き渡されることはめったにないといっていい。
版画に関しても、戦前の名のあるコレクションはほとんど散逸してしまった。
蒐集した本人や遺族のその後の経済的事情や、個人ではいかんともし難い戦争などの時代の激動をくぐりぬけて「コレクション」が生き残るのは至難のことである。

 かつてO氏という駒井哲郎作品の大コレクターがいた。駒井作品のほとんどを所蔵していたが、やがてそれをすべて手放された。その中の銅版画だけはほぼ一括して東京都美術館に買い取られたが、希少なモノタイプの一群はその後散逸してしまった。
 
 資生堂の名誉会長であり、東京都写真美術館館長としても活躍する福原義春氏は、いまや個人コレクションとしては質量ともに最高の内容をほこる駒井哲郎作品群を所蔵している。
それらのほとんどは現在、世田谷美術館に寄託されている。「文化財は死蔵されるべきではない」という福原氏の信念からだが、福原氏自身が自らのコレクションについて語ることは余りなかった。
サラリーマン・コレクターの走りだった福原氏(昭和30年代、福原氏は「版画友の会」の会員だった!)が「わがコレクション:駒井哲郎」と題して講演をするという。今までのコレクターや美術界が公然とは評価してこなかったカラー作品をいち早く認め積極的に集めた一人の先鋭的コレクターの軌跡を知るまたとない機会である。
駒井ファンならずとも、美神に魅入られた人の語るコレクション哲学を聞いてみたい。

 11月19日(日)午後1時から、世田谷美術館の講堂で開催されます。


誰か「コスモス」を知らないか〜駒井哲郎を追いかけて第16回

駒井哲郎コスモス表紙蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代過ぎぬ

 歌人・宮柊二が創刊した雑誌「コスモス」の表紙を駒井哲郎先生は長く担当されていた。
1960年(昭和35年)から1977年(昭和52年)まで18年間にわたり216冊の表紙絵を寄稿した。
もちろん1976年に死去されているから、1977年の分は没後寄稿である。
創作版画の巨匠、恩地孝四郎が装丁の仕事で食っていたことは今では常識だが、駒井先生の活躍した1950年代〜1970年代も版画だけでは食えない時代であり(それは今も同じかも知れない。版画家といってもその多くは大学などの教師である)、装丁の仕事がある意味生活を支えていたに違いない。
 「駒井哲郎ブックワーク」(1982年、形象社)は、駒井先生の生涯にわたる装丁、装画目録で書誌も充実していて、駒井哲郎研究には必携の資料である。
私の机の周りには、いつも手の届く範囲に駒井哲郎関係の資料、書籍がおいてあるが、もっとも重宝しているのがこの「駒井哲郎ブックワーク」である。
編集された岩部定男さんには感謝してもしきれない。
美術出版社が生前没後の二度刊行したレゾネだけでは不十分であることは、このコーナーの読者ならご理解いただけると思うが、駒井哲郎の作品の全貌はいまだ明らかではない。
レゾネに未収録の作品が次々と発掘されているのだが、何か出てくるたびに私は先ず「駒井哲郎ブックワーク」に掲載された図版を虱潰しに点検する。
駒井哲郎先生がレゾネに収録しなかった作品でも、装丁や装画に使った作品が少なくないからである。

 上に掲載したのは「コスモス」の表紙に使われた大判のアクアチント作品だが、私はまだこの作品に出会ったことがない。
出てきたら万金を積んでもゲットしたい。どなたかこの作品を知りませんか。



サイン入りは何枚あるか〜駒井哲郎を追いかけて第15回

駒井よごれていない一日1 駒井哲郎・金子光晴 詩画集『よごれていない一日』   
  詩/金子光晴 銅版/駒井哲郎、弥生書房刊、
  1970年、限定99部
  銅版11点入り、他に表紙2点も銅版(計13点)
  奥付に駒井哲郎、金子光晴の二人の署名、限定番号入り
  (美術出版社レゾネNo.266 〜276)


駒井汚れていない一日2  駒井汚れていない一日3
 この連載や別掲のエッセイでも何度も繰り返し書きましたが、駒井哲郎は実は優れた色彩画家であったというのが私の考えですが、まんざら少数意見でもないようで、平成20年度からの高校生の某教科書には駒井哲郎の色彩作品が収録されるとのことです。

 今回ご紹介するのは、カラー銅版画多数を挿入した詩画集『よごれていない一日』。
駒井哲郎先生が多くの文学者たちに愛され、多くのコラボレーションをなしたことは余りにも有名です。
『マルドロオルの歌』1951年 ロベール・ガンゾ作、平田文也訳 限定350部
『GOLGOTHA』1953年 岡安恒武詩 限定50部
『レスピューグ』1955年 ロオト・レアモン作、青柳瑞穂訳 限定100部
『愛しあう男女』1956年 小山正孝詩 限定125部
『からんどりえ』1960年 安東次男詩 限定37部
『ある青春』1963年 福永武彦詩 限定70部
『断面』1964年 馬場駿吉句 限定50部
『人それを呼んで反歌という』1965年 安東次男詩 限定60部
『鵜原抄』1966年 中村稔詩 限定30部
・・・・・
きりがないので、このへんで止めますが、とにかく駒井哲郎先生は文学者にもてた。
たくさんの詩画集等を残しました。
いずれも挿入された作品は秀作です。
まあ、ここまではいいのですが、画商として困ったことは、これらの発行形態がよくわからないことなのです。

 わからない点其の一/挿入された版画のそれぞれにサインを入れたのか、入れなかったのか。
入れたとして全部に入れたのか、一部に入れたのか。
入れなかったとして、では奥付に入れたのか、入れなかったのか。
同じ限定出版でも、たとえば上記の『GOLGOTHA』は限定50部ですが、サインが入ったのは15部のみで、残り35部にはサインは入れなかった。複雑です。

 わからない点其の二/本として出版した後に(または同時に)、駒井哲郎先生は別刷りを単品でつくっています。
例えば『マルドロオルの歌』は限定350部で、挿入された個々の作品にはサインが入っていません。そのために今でも駒井先生の記念碑的作品でありながら、しかも銅版6点も入っていながら僅か20数万円で買える。
ところが、この挿入された作品にはサイン入りの別刷りがあるのですね。これは高い。
でもこれらのサイン入り別刷りがいったい何枚あるのか、神のみぞ知る(否、天上の駒井先生のみぞ知る)。
前にも書きましたが、駒井先生は経済的な事情もあり、セカンド・エディションを刷ることを躊躇しませんでした。
さらにレゾネに掲載された公式発表の限定部数とは別に、APの名目での別刷りが多々あるのは、画商としてははなはだ困惑する次第です。

 最初に戻って詩画集『よごれていない一日』ですが、詩画集自体は限定99部で挿入された個々の作品にはサインはないようです。私の手元にあるのは18/99ですが、奥付にのみサインがあります。
美しいカラー銅版の秀作群です。
挿入された個々の作品にはサインがない、しかしそれとは別にサイン入りの別刷りはきっとあるでしょう。
困った・・・・


最初のカラー作品〜駒井哲郎を追いかけて第14回

駒井哲郎・分割された顔「白と黒の造形」
駒井哲郎を評するとき必ずいわれる言葉ですが、私は駒井先生はすばらしい色彩画家だったと思っています。これについては駒井哲郎展図録に執筆したエッセイでも何度か書いていますのでご覧ください。
では実際にカラー作品はどのくらい作られたのでしょうか。
1980年1月に東京都美術館で開催された大回顧展「駒井哲郎銅版画展」は今までで最も大規模な展示でしたが、その図録には銅版画357点が掲載されています。
うちカラー作品(手彩色を含む)は65点ほど。比率にして2割弱です。
この他にも駒井先生はたくさんのモノタイプや水彩を残しています。

カラー銅版は、1953(昭和28)年1月に銀座の資生堂ギャラリーでの初個展の際に「壁面が淋しいからと、あわてて作った」5点のカラー銅版が最初といわれています。
今回ご紹介する「分割された顔(分割されたる自画像)」(1953年 銅版 7.4×7.5cm)は、そのときの1点です。
この作品は駒井家にも残されていなくて、上述の1980年の東京都美術館の回顧展にも出品されなかったいわば幻の作品です。


モノタイプ作品はいったいどのくらい制作されたか〜駒井哲郎を追いかけて第13回

 駒井哲郎といえば「白と黒の造形」という著作名で知られる通り、モノクロームの世界こそが真骨頂と思われていますが、近年モノタイプなどの華麗な色彩にも注目が集まってきました。
 きっかけは、世田谷美術館資生堂ギャラリーで公開された福原コレクションのモノタイプを中心とする色彩の一大作品群でしょう。
 「白と黒」の作家だとばかり思われてきた駒井先生が実は優れた色彩画家でもあったことが証明されたわけですが、これはコレクターの眼による「第二の創造」といっていいでしょう。
生前、作家は自らの作品集にモノタイプは収録しませんでした。
没後、ある大コレクターから大量の駒井作品を購入した東京都美術館(現在は東京都現代美術館に移管)は、なぜかモノタイプを購入対象からはずしてしまいます。
東京都についで多くの駒井作品を収蔵する埼玉県立近代美術館にもモノタイプはほとんどありません。

だが評価は確実に変わりつつあります。
仄聞するところによれば、平成20年春から使用される某社の高校の美術教科書には、駒井哲郎のモノタイプ作品(カラー)が掲載されるそうです。
駒井哲郎への評価はもちろん、現代版画の歴史からいっても、画期的なことですね。

では駒井先生はいったいどのくらいモノタイプを制作されたのでしょうか。
本や雑誌の表紙などに使われたものは、「駒井哲郎ブックワーク」(形象社)に収録されているので見当はつきますが、モノタイプは一点きりの作品ですから、個展などで頒布されてしまうと記録が残らず、作品集の類にもあまり収録されていないので、総数がどのくらいかはよくわからないのです。
全貌解明はこれからの課題だと思います。

確実にいえることは、従来考えられてきた量よりもはるかに多くの制作がなされたということです。
以下に掲載する3点のモノタイプ(3番の埼玉県立近代美術館所蔵の「閉じた扉」は図録からの再録なのでモノクロだが、もちろん実物はカラー作品である)をご覧になるとおわかりになるでしょうが、駒井先生はひとつのモチーフをもとにいくつものモノタイプ作品を手がけられたようです。
これだけメジャーになった作家でもわからないことはごまんとある・・・・・
駒井哲郎モノタイプ
1)駒井哲郎「Une fenetre fermee(閉ざされた窓)」
  1975年 モノタイプ(カラー)17.0×16.3cm

駒井哲郎「新潮」モノタイプ
2)駒井哲郎「雑誌新潮9月号表紙」
  1972年 モノタイプ(カラー)16.2×17.0cm

駒井哲郎「閉じた扉」
3)駒井哲郎「fenetre fermee(閉じた扉)」
  1972年 モノタイプ(カラー)11.5×8.2cm
  *埼玉県立近代美術館所蔵


人それを呼んで反歌という〜駒井哲郎を追いかけて第12回

駒井哲郎「年齢について」 先日ご紹介した「からんどりえ」とともに駒井哲郎先生の名声を高めたのが安東次男との詩画集「人それを呼んで反歌という」です。
掲載した作品は、その中の一点「PL.6 年齢について」(29×72cm)の別刷りです。
しかし、この詩画集というもの、なかなか実物を目にする機会がない。
私自身『人それを呼んで反歌という』を完璧な形で触ったのは数回しかありません。
ところが実物を見てもこの詩画集の全貌はわからないのです。

この詩画集は、安東先生の詩9篇と、駒井先生の銅版画16点からなっていますが、詩画集本体には、不親切な奥付があるだけです。
駒井哲郎「人それを〜」奥付  駒井哲郎「人それを〜」奥付2
   人それを呼んで反歌という  
     著者  安東次男・駒井哲郎
     発行者 竹内宏行
     発行所 エスパース画廊 
         東京都千代田区神田駿河台2-4 電話(291)0802
     発行  1966.9.15
     本文印刷 株式会社精興社
     用紙  B.F.K.RIVES

     TSUGUO ANDO(サイン) TETSURO KOMAI(サイン)
     人それを呼んで反歌という
     限定60部の内第41番

 以上が全文です。実に簡単ですね。これじゃあなんだかさっぱりわからない。
各作品のサインの有無、番外の部数、別刷りの有無、など一切記載がありません。
奥付には駒井と安東のお二人の署名がありますが、駒井の銅版画16点のそれぞれには、サインは入っていません。

 各作品には詩画集のほかに、サイン入り別刷りが2タイプ(詩入りの別刷りと、版画のみの別刷り)があることは知られていますが、それがいったい何枚あるのか、上記の奥付だけでは皆目わかりません。
レゾネや東京都美術館カタログも(もしかしたら編者も実物を確認していないのかしら)その辺の記述が曖昧でした。さらに誤記もあります。
 ずっともやもやしていたのですが、先年、私が某コレクターから拝借した詩画集(41/60)には、上記の本体奥付とは別に、12.9×24.5cmのぺらぺらのチラシ(カード)が挟み込んでありました。
不勉強で申し訳ないのですが、このチラシ自体の存在をそのとき初めて知りました。
駒井哲郎「人それを〜」チラシ
以下が、その全文です。

 「人それを呼んで反歌という・詩・安東次男・画・駒井哲郎・1966年9月15日発行・エスパース画廊・限定60部・内7部(T〜Z)には本詩画集を構成した銅版画別刷1組(16葉署名ならびに番号入り)付属,販価15万円・53部(8〜60)販価6万円・ほかに非売8部(銅版画別刷1組付属)・内7部(1〜7)はep. d'Artisteとし,1部はH.C.とする・またPL.4,9,11,12については,詩と併せて各5葉の別刷をつくる・本詩画集に使用した銅版は,画家より詩人に贈られたPL.1のそれを除き,いずれも刷了後刻線を以て消去した。」

このチラシの文章でようやく名作『人それを呼んで反歌という』の全体像を理解することができました。ややこしい文章なのですが、要約すると、
  1)詩画集(本)として制作されたのは、限定60部+ep7部+HC1部=68部
    ただし、この68部の作品それぞれには、サインも番号も記入されていない。

  2)別刷りAタイプ(版画のみ) 番号入り((T〜Z)7部+ep7部+HC1部=15部
    これらの作品には、それぞれにサインと番号が記入されている。

  3)別刷りBタイプ(版画と詩が一緒に刷られている)
    16点の内の、4点(PL.4,9,11,12)についてのみ5部が別刷りされた
    これらの作品には、それぞれにサインが記入されている。

 重要なことは、16点の原版のうち、1点を除き、「刷了後刻線を以て消去した」とあることです。
いわゆる「レイエ」ですが、駒井先生の版については非常に珍しいことで、他の多くの原版はそのまま残され、生前、没後に何度も後刷りされていることは周知の事実です。
駒井先生の評価(特に価格)が生前あまり高くならなかったのは、次から次へと別の限定番号でセカンド・エディション、サード・エディションが出てくることへの、画商たちの密かな反発がその理由の一つでした。
しかし、この『人それを呼んで反歌という』に限っては、一点以外は廃版になったわけですから、今後それが広く知られれば、評価の修正がおこることと思います。
 本来、作品としての価値(評価)と、刷られた部数の多寡は、別のもので、部数が多いからといって作品としての価値(評価)までもが低くなることはないと思いますが、しかし、データが不明なのは困ります。
つまり『人それを呼んで反歌という』の連作(16点中15点)は、ノーサインが各68部作られ、サイン入り別刷りは、15部、ないしは20部に過ぎないということがこれでわかります。ずいぶんと貴重かつ希少ですね。
 
 ただし、これは『人それを呼んで反歌という』の刊行後の経緯で、刊行前、則ち16点の版画に取りくんでいた試作段階でのエプルーブについては、若干のものが存在することは事実です。
版画はほんとに難しい・・・・


珍品「からんどりえ表紙別刷り」〜駒井哲郎を追いかけて第11回

駒井哲郎からんどりえ表紙 作品は買うところに集まると言われますがが、おかげさまで長年駒井作品を扱っていると(買い続けていると)、とんでもない(?)珍品に巡り合うことがあります。
先ずはこの図版をご覧ください。
 駒井哲郎「からんどりえ表紙・別刷り」 
 原版制作:1960年 別刷りの制作年は不祥
 26.5×44.6cm シュガーアクアチント+色刷り 
 限定5部(1/5) サインあり
 *レゾネNo.123

 駒井先生が原版に手を加え、あるいは色や用紙をかえて、様々な<別刷り>作品を制作されたことは良く知られています。
 「版」の必然ともいうべき別バージョン=別刷り作品は、駒井先生だけでなく他の版画作家にもあり、それ自体は珍しいことではありませんが、このような作例は私は初めてです。
 初見したとき、「えっ! これ駒井さん?」と絶句しました。
良く見れば見まごうことのない名作『からんどりえ表紙』なのに、右上に赤色で刷られた円形があまりに強烈で、一瞬新発見の作品かと思う程でした。
 これは<別刷り>作品というより、元となる版は同じでも、新たに赤の版を追加しており、全く別の作品といってもいいと思います。
 第一に、色彩(の使い方)があまりに他の駒井作品と異なります。駒井先生の他の色彩作品やモノタイプ作品のどれとも異なるタイプの色彩です。
 第二に、表現されたものが、安東次男先生との詩画集という世界とは遠く離れた印象です。極端な言い方をすると、他の作家が駒井作品の上に加筆した、一種ポップアートのような感じさえ私はします。
 作品には<1/5>と記載されていますが、ほんとうにこの作品を5部も刷ったのか、それはいつ刷られ、どのように発表(頒布)されたのか、今まで見たことのない作品なので謎としか言い様がありません。
 名作詩画集『からんどりえ』は、岡鹿之助先生と同様、駒井先生にとって大切な理解者であった安東次男先生との共作ですから、緊張もし、また作品の内容、刷りの色まで安東先生の意向が強く働いたといわれています。
 そういう点を踏まえると、同じ版を使ってこのような<実験的>な試みをした駒井先生の意図はいったい何だったのでしょうか、このあたりのことはこれからの研究課題ですね。

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