ときの忘れもの ギャラリー 版画
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駒井哲郎を追いかけて 第21回〜第30回
<第11回〜第20回          第31回〜第40回>
14日(日)は群馬県伊香保のハラミュージアムアークで、建築家・磯崎新先生の喜寿のお祝いの会が盛大に催されました。歴代のアトリエOBたちを中心に、磯崎建築にかかわってきた150人もの人が大集合。
私たちも例によって植田実先生はじめ磯崎新連刊画文集「百二十の見えない都市」の制作サポートチーム兼露天風呂愛好会で連れ立って参加してきました。そのご報告は後ほどするとして、先日、行ってきた名古屋ボストン美術館「一俳人のコレクションによる 駒井哲郎銅版画展〜イメージと言葉の共振〜」(9月28日まで)について、記憶の鮮明なうちにご報告します。もちろんきちんとメモをとってきましたので、データは正確です。

名古屋B駒井哲郎展表駒井哲郎展_名古屋B裏


駒井哲郎名古屋B美展図録
駒井哲郎先生と親交のあった馬場駿吉氏の個人コレクションの展示です。
展覧会の概要は、同館のホームページをご覧いただきたいのですが、私は展示されている実物を同館学芸員のご厚意でいただいた出品リストを参照しながら、一点一点じっくりと拝見し、サインや限定番号などについて詳細にメモをしながら見てきました(さすがに疲れた)。
一部展示換えがあったようで、私が行った9月7日に展示してあったのは以下の作品です。
出品番号、タイトル、制作年、限定番号の順に記載しました。
<美->とは、1979年刊行の美術出版社のレゾネ『駒井哲郎版画作品集』の記載番号。
<都->とは、1980年東京都美術館の『駒井哲郎銅版画展』図録の出品番号です。

1.束の間の幻影 1951年 Epreuve d'Artiste 美-39、都-36
2.孤独な鳥 1948年 18/20 美-17、都-16
3.肖像 1948年 Epreuve d'Artiste 美-19、都-18
5.人形と小動物 1951年 Epreuve d'Artiste 美-43、都-41
6.時間の迷路 1952年 Epreuve d'Artiste 美-54、都-52
7.月のたまもの 1952年 4/27 美-56、都-54
8.廃墟 1954年 Epreuve d'Artiste 美-74、都-73
9.教会の横 1955年 13/25 美-83、都-84
10.ある空虚 1957年 16/20 美-88、都-88
11.夜の森 1958年 15/25 美-101、都-99
12.樹 1958年 Epreuve d'Artiste 美-90、都-90
13.鳥と果実 1959年 Epreuve d'Artiste 美-120、都-119
15.「13」 1959年 Epreuve d'Artiste 美-114、都-113
17.貝 1961年 5/8 美-162、都-165
19.三匹の小魚 1958年 Epreuve d'Artiste 美-108、都-105
21.二つの球 1973年 2/20 美-302、都-310
  *レゾネ、及び都美図録には<Ed.75>としか記載されていません。
   季刊雑誌『版画芸術』特装版のために限定75部刷られたのですが、
   この馬場コレクションのおかげで、他に限定20部が存在したことが
   あきらかになりました。
23.審判 1962年 5/14 美-169、都-169
25.機械 1958年頃 美-113、都-109
  *出品リストには<Epreuve d'Artiste>と記載されていますが、
   マットで隠されているのか、展示の実物にはその文字は見えません
   でしたが、作品右上に<A monsieur Baba>と記載されていました。
26.人形 1966年 25/50 美-211、都-215
27.一樹 1960年 2/12 美-144、都-145
28.大きな樹 1971年 197/200 美-288、都-295
29.蛇 1973年 V/V 美-296、都-303
31.賭 1958年 美-96、都-63
  *今回の収穫のひとつで、カラー作品の初期を飾るものです。
   残念ながら、プレートマークがマットで隠されており、
   サインも限定番号も見ることができませんでした。
   出品リストにも何の記載もありません。
32.喰う女 1960年 Ep.d'essai 美-132、都-131
  *Ep.d'essai とは試刷りのことです。
33.実 1961年 2/12 美-149、都-151
34.笑う人 1961年 2/15 美-150、都-153
35.蟹 1961年 2/15 美-153、都-156
36.人のようなネコ 1961年 2/15 美-152、都-155
37.顔の軌跡 1961年 2/10 美-159、都-159
38.小さな人 1962年頃 2/15 美-161、都-176
39.妖し 1961年 16/20 美-156、都-157
41.枝おろし 1966年 Epreuve d'Artiste 4/7 美-203、都-208
  *安東次男との詩画集『人それを呼んで反歌という』の中の
   一点です。出品リストには限定番号の記載はありませんが、
   実物には、詩画集の中の作家保存版の一部である
   <Epreuve d'Artiste 4/7>が記載されていました。
42.庭の小虫 1961年 15/20 美-206、都-150
  *出品リストには<6/20>と記載されていますが、実物には
   <15/20>と記入されていました。リストの誤記か、又は
   同じ作品がもう一点あるのでしょうか。
43.蝕果実 1960年 Epreuve d'Artiste 美-128、都-127
  *安東次男との詩画集『からんどりえ』の中の一点ですが、
   もともとは「Juin 球根たち」という題名だったものを
   前回29回で論じたように、後に別刷りした際に「蝕果実」
   と改題されました。
44.Juin 球根たち(詩画集のための試刷り) 1960年 Epreuve d'Artiste 美-128、都-127
45.安東次男『からんどりえ』(CALENDRIER) 1960年 美-123〜131、都-122〜130
  *詩画集本体の展示で、奥付けは見えませんでしたが、出品
   リストには<37/37>と記載されています。
46.小山正孝『愛しあふ男女』 1957年 15/152 美-84、都-85
  *この連載の20回21回で詳しく論じましたが、
   やはりこの作品の限定部数の分母は152部のようですね。
47.岡安恒武『GOLGOTHA』 1953年 14/15(50) 美-67、都-65
  *これについても、第2回で論じましたが、
   やっと限定番号とサインの記入された実物(Ed.15)を
   見ることができました。
48.ロオトレアモン、訳 青柳瑞穂『マルドロオルの歌』1952年 美-48〜53、都-46〜51
  *詩画集本体の展示で、奥付けは見えませんでしたが、出品
   リストには<44/350>と記載されています。
49.『銅版画のマチエール』 1976年 125/125 
  *これはノーサインです。レゾネにも都美図録にも未掲載の作品です。
51.暑中見舞(手) 1961年 Epreuve d'Artiste 美-354、都-354
53.芸大アトリエC-126展 カレンダーのための小品 1973年 15/28
  *良く知られた作品ですが。レゾネにも都美図録にも未掲載です。
   カレンダーの他に、別刷りが28部あったのでしょう。
54.『断面』フロントピース 1964年 Epreuve d'Artiste 美-176、都-184
55.風景 1954年 Ep.pour Shunkichi Baba 美-75、都-74
56.馬場駿吉『断面』 1964年 特装版(1/50)、並装版(500部) 美-176、都-184
59.『断面』フロントピース 1964年 Epreuve d'Artiste 美-176、都-184
60.小さな幻影 1950年 Epreuve d'Artiste 美-24、都-24
61.二樹 1970年 13/200 美-278、都-285
62.思い出 1948年 14/20 美-18、都-17
  *これも今回の収穫の一つでした。この作品については、
   レゾネには<限定20部 E.A.>とあり、都美図録には、
   <Ed26 E・A>とあり、混乱していました。
   この作品にはセカンド・エディションがないはずなので、
   都美図録のEd.26は誤記でしょうね。
   因みに、都美収蔵作品は<16/20>、埼玉近美収蔵作品は
   <Epreuve d'Artiste>です。
63.海底の祭 1951年 Epreuve d'Artiste 美-40、都-38
64.岩礁にて 1970年 124/500  美-239、都-247

さすがに駒井先生の信頼を得て、同時代的に収集されただけあって粒ぞろいで感銘を受けました。
特に、限定番号については、私はたいへん勉強になりました。
番号入りの作品について、2番が多いことは、ある物語を感じさせます。限定番号とはもちろんその作品の戸籍みたいなものですが、これがあるおかげで、たとえばその1番を誰が買ったかということを追跡調査することも可能です。これについては次回以降に詳しく論じましょう。
特筆すべきは、エプルーブ作品ですが、ほとんどが<Epreuve d'Artiste>と駒井先生の几帳面な細かな字で記載されていることです。<E.A.>または<Ep.>などと略されて記載された作品はただの一点もありませんでした(一点だけ、Ep.pour Shunkichi Babaとあり)。
駒井先生の番号入りとエプルーブ(Epreuve d'Artiste)の区別については、非常に微妙かつ困難な問題があり、これを論じると日が暮れるどころではない。
しかし、おいおいと私の知っていることは書いていきましょう。
とにかく、点数は少なくても、非常に質の高い、見ごたえのある展覧会でした。


駒井哲郎の作品タイトル〜駒井哲郎を追いかけて第29回


「双葉」と「斬られた首」
前回、驚きの初期木版画の発掘についてご報告しました。あれ以降、いろいろ判明したこともあるのですが、日々の雑事に追われてしまい、この連載もすっかり間が空いてしまいました。
木版画についてはもう少し追求してからとして、今回はちょっとくだけたというか、駒井作品に特有の「タイトル変更」について、書いてみましょう。
私たちは駒井哲郎作品を追いかけているので、いつも知り合いの画商さんたちに声をかけておき「珍しいものがあったら知らせて」とお願いしています。
先日も「双葉」という作品の情報がもたらされました。
「双葉?」聞いたことないなあ、もしかしたら新発見かと期待したのですが、入ってきたのは駒井ファンならよくご存知の<からんどりえ>の中の一点でした。
安東次男との詩画集で<人それを呼んで反歌という>とともに駒井作品の代表作といっていいでしょう。
先ずは、その実物をご紹介しましょう。
駒井哲郎斬られた首
駒井哲郎「<からんどりえ>フロントピース Mai 斬られた首」
本作品画面中央下には「Feuillage」との記載あり
 1960年 銅版 
 イメージサイズ:30.0×24.8cm
 紙サイズ:45.3×38.3cm
 Ed.37(他にEA,及び別刷りあり)、本作品はEd.9(2/9)
 サイン有り
 *レゾネNo.124(美術出版社)、都美カタログNo.123


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駒井哲郎斬られた首タイトル
この作品は、レゾネに明記されている通り、<からんどりえ>のフロントピースとして制作されたもので「Mai 斬られた首」という、いささか物騒なタイトルがついています。
この連載の第11回や他の連載でも書いた通り、駒井先生はしばしばセカンド・エディションや、別バージョンを刷られました。そのたびに当初のものとは違ったタイトル(作品名)をつけることもしばしばでした。
ですから、いくつもの限定部数や、複数のタイトルが存在し、いったいその作品が「どういうタイトルで、全部でどのくらい刷られたか」という問題がコレクターや研究者にとっては悩みの種となっています。
ファースト・エディションの詩画集「からんどりえ」では、「Mai 斬られた首」というタイトルがつけられたものの、それを後にセカンド・エディション(増し刷り)するときに、駒井先生、ちょっと考えてしまったのかも知れませんね。
上の画像でお分かりの通り、セカンド・エディション(もしかしたらサード・エディションかも知れない)である本作品には限定番号が2/9と記載され、画面中央に駒井先生の自筆で「Feuillage」と当初のものとは異なるタイトルが記載されています。
手許のジュネス仏和辞典(大修館)でひくと、(1)葉の茂り、葉叢(はむら)(2)葉つきの小枝、とあります。
「双葉」という訳が正しいのかよくわかりませんが、セカンド・エディションの直接的目的が、売り切れてしまった作品を増し刷りして再び販売することにあったとすれば、そのタイトルは「Mai 斬られた首」より「Feuillage」の方が売りやすい、そう考えてしまうのは画商の不純な思いつきでしょうか・・・

駒井哲郎の初期木版画〜駒井哲郎を追いかけて第28回

駒井哲郎木版1駒井哲郎木版2 前回(第27回)私の生涯でもめったにない僥倖があり、駒井哲郎先生の珍しい木版画2点を入手したご報告をしました。
この2点はいったいどういう素性のものなのか。
私が最初にこの作品を手にしたのは、17年前の1991年、恩師の久保貞次郎先生からでした。その久保先生も亡くなり、その後どういう変遷を経て、再び私の手許に戻ってきたのか。
この数ヶ月、2点の木版画のことが寝ても覚めても頭を離れず、何とか駒井作品であることの具体的な証拠を見つけたいと、ずっと追跡を続けてきました。
2点の木版画は今までの駒井哲郎のカタログや画集、年譜などの文献類には私が目にした限りでは出てきません。
こういうときはめくら滅法動いてもろくなことはない。
仮説をたてそれにそった調査をする。
先ず、冷静にこの作品を凝視し、時代のあたりをつけました。
また私の手許にある文献資料に見当たらないということは、調査の進んでいない初期、すなわち戦前〜戦中〜戦後の極く最初の頃の作品と推定しました。
次に、この絵柄から考え、何かの挿絵に使われた、または挿絵のために制作されたものなのではと推定し、今まで調査から漏れている本(駒井先生が挿画を担当された)に狙いをしぼりました。
駒井先生が挿画を担当された仕事は膨大にあり(もちろんそれが生活を支えていたわけですが)、その多くは『駒井哲郎ブックワーク』(1982年 形象社)に収録されています。駒井家に残された本の装丁挿画はほぼ全てがこの『駒井哲郎ブックワーク』に入っています。
文献にもない、おそらくご遺族のところにもない(あっても今まで気づかない)、駒井研究者の多くが気づいていない挿画の仕事ではないかというのが、私なりの結論で、その線から古本屋のルートで片っ端からあたり、遂に見つけました。

河田清史編『象とさるとバラモンとーインドの昔話―』
    装幀挿画・駒井哲郎
    彰考書院 昭和23年7月10日発行
    柳田國男・川端康成・監修<世界昔ばなし文庫>
    編集責任・関敬吾・石田英一郎
表紙カットの他に、カラー口絵が1点、文中10点もの挿絵が入っています。
その11点の絵を見て、皆さんどう思われますか。
私はつくづく駒井先生は版画の人なのだなあ、という感慨を新たにしました。
因みにこの本『象とさるとバラモンとーインドの昔話―』の古書店からの購入価格は3,500円でした。
我ながらよくぞ見つけたものだ(と自画自賛)。
駒井哲郎象とさると・表紙駒井哲郎象とさると・奥付
表紙と奥付


駒井哲郎象とさると・装丁者駒井哲郎象とさると・挿画1


駒井哲郎象とさると・挿画2駒井哲郎象とさると・挿画3


駒井哲郎象とさると・挿画4駒井哲郎象とさると・挿画11


駒井哲郎象とさると・挿画5駒井哲郎象とさると・挿画6


駒井哲郎象とさると・挿画7駒井哲郎象とさると・挿画8


駒井哲郎象とさると・挿画9駒井哲郎象とさると・挿画10


ご覧になっていただけばおわかりの通り、実際の木版画と本に挿入された挿絵は少し違います。
木版にあった周囲を囲む装飾的な飾り縁が挿絵ではカットされています。その理由はわかりませんが、その分本の方が弱い印象です。
実物の木版画の方が完成度はもちろん高く、一点に加えられた手彩色も駒井先生の作品への意思が感じられ、単なる挿画として以上の作品として十分な魅力を湛えています。
戦後の混乱期に活字(書籍)への人びとの渇望は想像以上のものがあったと思います。その期待に沿うべく、この柳田國男・川端康成の監修による<世界昔ばなし文庫>が企図されたものと思われます。同じく刊行された他の本に駒井哲郎の挿画がないか、いま国会図書館やら上野の国際こども図書館の蔵書を調べていますが、まだ見つかりません。引き続き追跡します。


初期木版画遂にあらわれる〜駒井哲郎を追いかけて第27回


先週始まった「細江英公写真展ーガウディへの讃歌」はおかげさまで好評です。
本日で、Part1の展示が終了し、来週20日からはPart2が始まります。
Part2では、1978年以降に撮影され、1984年と1986年に開催された展覧会のためにプリントされ保存されて来た貴重なヴィンテージ・プリント20点を展示いたします。サイン及び年記も当時のものです。
印画紙がなくなり、フィルムカメラも徐々にデジカメに代わられていく現在、ゼラチンシルバープリントの価値、さらにいえば写真のヴィンテージプリントの希少性、重要性がますます注目をあびています。
一昨日15日にロンドンで開催されたクリスティーズの写真のオークションでは、アンドレ・ケルテス「おどけた踊り子(1926年)」のヴィンテージプリントが228,500ポンド(約4,570万円)で落札されました。同じ作品のモダンプリントを私どもも所蔵しており、ときの忘れものの前回の「アンドレ・ケルテス展」に出品しましたが(945,000円)、私たちの力不足もあり、いまだ売れていません。(ご興味のある方、お問合せ下さい)
“Paris,Magda,The satiric dancer,1926”
おどけた踊り子、パリ、1926年
1926, Printed later Gelatin Silver Print 24.7×19.9cm
Signed on the back

現状では、海外より、むしろ日本の方が、名作を安く買えるチャンスがあるといえるでしょう。ぜひご来廊下さい。

さて、しばらく間があいてしまった「駒井哲郎を追いかけて」ですが、決してさぼっていたわけではありません。私の生涯で最大最高といってもいい大発見に遭遇し、心ふるえる毎日を送っていました。事情を知る友人の某には「そんなに嬉しいことならなぜ早く書かないの」といわれていたくらいです。
画商の本望は、誰も知らなかった(気づかなかった)作品を入手し、その美を共有して下さる共犯者(コレクター)にめぐり合うことである、と私は思います。
そういうチャンスが私にも巡ってくるのでしょうか。
駒井哲郎木版1
駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
  木版+手彩色 28.0×20.2cm(紙:32.7×24.4cm)




 

駒井哲郎木版2
駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
  木版
  28.0×20.2cm(紙:42.2×30.0cm) 版上サイン

ご紹介する2点の作品を見て、駒井哲郎の作品だと思う人はまずいないでしょう。
前回(第26回)、京橋の白銅?画廊(Gallery Hakudohtei)で今年1月10日〜26日の会期で開催された「駒井哲郎展ー若き日の希少作品3点ー」に、新発掘の最初期の銅版画2点が出品公開されたことを2008年の大ニュースだと書きました。
同画廊さんに敬意を表するとともに、同じ画商として少し羨ましかったのも事実です。
あんな大発掘にめぐり会えるなんて、そうはありませんからね。
ところが、そんなめったにない幸運が、この私の上にも訪れたのです。
天は我を見放さなかった。

某月某日のお昼どき、友人の某画商さんから突然、写メールが送られてきた。次いでせっぱつまった携帯電話の声が「駒井さんの木版らしいのが出てきたのだけれど、俺にはよくわからん。直ぐに買うかどうか決めてくれ」、某交換会会場からの緊急秘密連絡でした。

私は、夢かと思いました。念じていればいつか作品の方からやってくる、そういうのは迷信だと思っていたのですが、真実だったのですね。
小さな写メールの画像を見た瞬間、それが一時私の手許にあった駒井作品であることを確信し、躊躇なく買い注文を出したのでした。もちろん上限ナシ、とにかく誰にも渡すわけにはいかない。
数時間後、友人が風呂敷に包んで木版画2点を持ってきたとき、私は金の算段とともに、17年前に撮影した2点のポジをスキャンして準備していました。間違いなく、1991年5月31日の夕刻、私が一度は手にした駒井哲郎先生の木版画でした。
どのような有為転変があったかわかりませんが、遂に私のところに戻って来た。

1991年5月31日の夕刻、銀座の資生堂ギャラリーで「没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展」のオープニングが盛大に催されました。
私のその頃、『資生堂ギャラリー七十五年史』の調査・編集作業に没頭しており、画商としての活動はまったくしていませんでした。というより画商として復活することはあり得ない、これからの人生は編集者として、現代版画センターの倒産後の借金返済のみを目的に生きていこうと思い定めていました。
編集者として資生堂ギャラリーで70数年にわたり開催された膨大な展覧会の調査作業を進める傍ら、当時のギャラリー企画のお手伝いもしていました。
私が参加したのは<資生堂ギャラリーとそのアーティスト達>というシリーズ企画でしたが、その第一回展が上記の駒井哲郎先生の回顧展でした。
オープニングには、ご遺族や埴谷雄高先生、先日亡くなった松永伍一先生など各界の錚々たる人々が出席されましたが、町田市立国際版画美術館の初代館長だった久保貞次郎先生も出席されていました。
私たち夫婦にとっては実質的な仲人であり、恩師であり、現代版画センターの倒産により多大なご迷惑をおかけした債権者のお一人でもありました。
その日、レセプション会場は芋を洗うがごとき混雑ぶりでしたが、久保先生は「綿貫君が久し振りに駒井君の展覧会に関係するというので、今日は珍しいものを持ってきました」といって駒井先生の初期木版画2点を無造作に紙挟みに挟んで私に渡したのでした。
1980年に東京都美術館で開催された「駒井哲郎銅版画展」に数点の木版画が出品されていましたから、木版画を制作されていたことは知っていたのですが、久保先生が持参された2点を見てそれが駒井作品だということに驚き以外の感想を言えませんでした。
あまりにも、私たちに馴染んでいた駒井先生の銅版の作風と違うからです。
久保先生は「ある画商さんからの預かりものだが、キミに見せたくてもってきた」といわれましたが、私は一目でその強烈なイメージに圧倒されました。
私はその作品を欲しかったのですが、上述のような生活では、ましてご迷惑をおかけしている久保先生に強く譲渡をお願いできませんでした。
しばらく私の手許にあったのですが、結局はお返ししました。
その後、改めて交渉しようと思っていたのですが、久保先生は病に倒れ、再び先生の元気な声を聞くことはできませんでした。その後、この2点がどういう運命をたどったのか、謎です。
でも作品の状態からするとどなたかによって大切にされていたようです。
幻想的な雰囲気、力強い刻線、駒井先生の初期を解明するために、非常に重要な作品の発掘であると確信します。

さて、この2点の木版画は、いつ、どのような経緯で制作され、それは制作当時人びとの前に果たして発表されたのでしょうか。
大枚はたいて作品を入手するのに成功しましたが、その出自を解き明かし、駒井作品であることの確固とした証拠を見つけなければ駒井哲郎を看板にしている画商として面目が立たない。
私がこの作品を駒井哲郎の真作だと確信したのは、上述の久保貞次郎先生とのことからですが、しかしそれ以外には何の証明書もお墨付きもない、文献資料にもかけらも痕跡がない、買ったはいいけれど、もしこれが駒井作品でなかったらどうしよう・・・・・
不安が全くなかったかというと・・・・・
自分を納得させ、顧客にも納得していただけるだけの証拠書類一式を求めて、私の探索の旅が始まりました。
そのご報告は次回に。


新発掘!初期作品2点〜駒井哲郎を追いかけて第26回


駒井哲郎船着場〜駒井哲郎
「船着場のある風景」
 etching
 13.0×15.1cm(紙:17.8×21.1cm)
 サイン無し

駒井哲郎港駒井哲郎
「港」
 etching
 12.1×18.1cm(紙:15.2×23.7cm)
 サイン無し

◆ご無沙汰してしまいました。連載を再開します。
2008年の駒井哲郎ファンにとっての大ニュースは、京橋の白銅?画廊(Gallery Hakudohtei)で1月10日〜26日の会期で開催された「駒井哲郎展ー若き日の希少作品3点ー」に、新発掘の最初期の銅版画2点が出品公開されたことでしょう。
「ついに出てきたか」というのが私の感慨です。
15歳のときから西田武雄について銅版画を習得した駒井哲郎先生ですが、初期の作品で公にされているもの(生前、没後の作品集や回顧展に出品・収録されたもの)があまりにも少なく、眠っているものが少なくないはずと、これは誰でもが想像できるからです。
今回の展覧会には、上に掲載した2点の新発掘作品を含む初期から晩年までの銅版画15点とモノタイプ1点の計16点が出品されました。没後、多くの画廊で数多く駒井哲郎展が開催されてきましたが、それらの中で、今回の白銅?画廊さんの展覧会はまさに歴史に残る快挙といっていいでしょう。
埋もれていた初期銅版画2点を掘り出したことはもちろんですが、それをきちんとした形で公開し、図録まで刊行したことの意義はいくら賞賛してもしたりません。

今回の展覧会で新発掘2点を購入された某氏のご厚意で、作品を詳細に調べさせていただきました。サインはありませんが、間違いなく最初期の作品です。

上述のように主催者の画廊によって32ページ(表紙含む)の図録が製作され、町田市立国際版画美術館学芸員の瀧沢恭司先生によるテキスト「駒井哲郎 最初期の銅版画について」が9ページにわたり掲載されています。
ご興味のある方はぜひこの瀧沢論文をお読みいただきたいのですが、駒井哲郎の初期作品について的を絞り詳細に論じたのは、今まであまりなく、私もたいへん勉強になりました。
以下、< >内は瀧沢論文の引用です。
瀧沢論文は<《孤独な鳥》を制作した1948年以前の版画を「初期銅版画」と見なすことと>して、<そのうち、召集される1944年までに駒井が制作した>作品を<「最初期の銅版画」−十代後半から二十代前半の制作>と定義しています。
駒井先生が戦後、日本版画協会(1948年から出品、28歳)や春陽会(1950年から出品、30歳)で活躍を始める以前を初期とすることには私も異論はありませんが、15歳から27歳までの13年間に制作された銅版画で実在が確認されているものが僅か10数点(瀧沢論文では12点のリストを掲載、他の文献その他を参照しても現在まで確認されているものは20点に満たない)というのはいくら何でも少な過ぎる、きっともっとあるに違いない、というのが私の推測です。
私が福原コレクションの特徴として「初期作品の重要性」をあげたのは、初期作品がもっと眠っているはずだ、その解明なくしては駒井版画の評価は確定しないと思っているからです。

ともあれ、今回出てきた2点の<初出作品には、画廊主と駒井美子氏の協議によって《船着場のある風景》、《港》という題名が付けられた>とのことですがが、瀧沢論文は<今後の調査研究によってこれらの題名に根拠が与えられるか、適切な題名が付されるべきである。>としています。私も同感で、まだまだ文献その他でこれらの作品の正式な題名が確認できるかも知れないので、<説明的な題名は適当ではな>く、せめて題名の後ろに(仮題)としていただきたかったと思います。
また今回の図録では制作年を《船着場のある風景》を1935年、《港》を1935年頃と特定していますが、これについても瀧沢論文は<決め手となる客観的根拠を提示できない以上は、現時点では幅を持たせて1935-42とすべきであるように思われる。>と丁寧に指摘なさっています。
一度活字になったものは一人歩きしがちです。ましてやまだ解明されるべき点の多々ある駒井初期作品については、実物、作品の来歴(旧蔵者)、文献などにより実証的な検証がなされていき、最終的には完全なカタログレゾネの刊行によってきちんとした年代が確定されることを期待します。

瀧沢論文は今回の展示の意義について、<二点の初出作品が展示されることは驚きだが、それ以上に本展覧会で注目すべきことは、初出作品とともに、駒井が版を制作した時期かもしくはそれに近い時期に自刷りしたと考えられる、最初期の銅版画の新出の刷り三点が展示されることである。これら全ては一人の個人が所蔵するものであったらしい。今回、来歴が明らかにされないことも手伝って、これらが版の制作と同時期の刷りであることを限定できないが、周知の作品の刷りや署名と比較しても、概ねそのことを証明出来るだろう。>として、上述の新発掘のほかに出品された初期作品《滞船》《丸の内風景》《足場》の個々について、インクの色、刷りを検討し、さらに初期作品の<署名とエディションについて>、<モチーフ、造形空間、表現について>詳細に論じています。素人の私たちと専門の研究者の視点の設定、論証には格段の差があると思い知る労作です。

瀧沢論文では今回の新発掘作品について、<来歴が明らかにされない>とありましたが、テキスト依頼の際に、出所は瀧沢先生には伏されていたのでしょうか。それとも活字になることを慮って瀧沢先生の方で遠慮なさったのでしょうか・・・。
結論的にいえば、私がこの連載の第9回で紹介した新発掘の作品と旧蔵者は同じです。
詳しくは、それを読んでいただきたいのですが、先ず「R夫人」のモデルとも擬されたHさん旧蔵の初期作品が5点一括で出てきました(全てサイン付)。作品(新発掘ではないもの)に記載された献辞から旧蔵者は特定できました。それを世に出した画商さんはおそらくサインのあるものだけを買い取りされたのでしょう。
今回出てきた《船着場のある風景》《港》《滞船》《丸の内風景》《足場》にはいずれもサインがありませんから、その推測はそう的を外れていないと思います。

考えてみれば、駒井先生のノーサインの作品が出てくる可能性はそういくつもありません。
先ず考えられるのはご本人のところ(つまりはご遺族)ですが、今回は違います。
次に駒井先生の生前に版を預けられ刷りを担当したお弟子さんや版画工房(本来、ノーサインの作品が残されるのはおかしいのですが、尊敬のあまり先生に内緒で密かに手元に残したという例は少なくありません。私も実際それらのいくつかのノーサイン作品を譲って貰い所蔵しています。)からの流出ですが、今回の最初期の作品は駒井先生の10代から20代前半の時期の自刷りと思われるものですから、これもないでしょう。
だとすれば、少年〜青年期にかけての駒井先生がノーサインの作品をまとめて5点(もっとあったかも知れません)も贈る相手は限られてきます。
友人や知人へのちゃんとした献呈なら当然サインを入れるはずです。
お身内か、師匠の西田武雄か。
それとも「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送って、彼女の批評を乞い、彼女の批評によって励まされ、教示を懇願し」(中村稔、『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』加藤和平・駒井美子編の32頁)た相手のHさんではないか。

Hさんのことは、上掲の、『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』で公開されているのですから、今回の実物の発掘を、手紙などの文献と旧蔵者の調査によって、詳しい検証が積み重ねられることを切に期待する次第です。

今回の新発掘の作品は、駒井先生の魅力解明の大きな前進であると思います。
新発掘の功労者であり、貴重な図録を刊行された白銅?画廊さんに心より敬意を表します。

久保貞次郎先生のシール〜駒井哲郎を追いかけて第25回


久保貞次郎シール「駒井哲郎を追いかけて」の連載もすっかり間があいてしましました。このコーナーだけでなく、ウォーホルも瑛九も、連載が中断したままで、怠慢を心よりお詫びする次第です。

以前ときの忘れものの掲示板で、瑛九や北川民次の作品に貼ってある久保貞次郎先生のシールのことが話題になりました。
そのときは「お答えします」なんて返事したような気がしますが、いつもの例であっという間に時間がたってしまいました。公約違反ばかりですいません。
「駒井哲郎を追いかけて」もこのままだと年を越しちゃいそうなので、苦し紛れに、駒井哲郎先生の作品にかこつけて、上述の久保シールについて書きましょう。

久保貞次郎先生は、人名事典風にいえば「美術評論家、大学教授、コレクター」ということになりますが、私たちにとっては「大画商、大版元」であり、ユニークな教師でした。
久保先生の授業ぶりについては別掲のエッセイをお読みいただくとして、なぜに「大画商、大版元」というかですが、先生はご自分が集めた絵画はもちろん、支持する作家に版画を作らせ、全国の配下を通じてそれを頒布する(私もその配下の末席におりました)、語学堪能、実に有能な実務能力抜群の偉大なディーラー、パブリッシャーでした。

以下のエピソードは以前にもどこかでご紹介したことがあるのですが、お許しください。
1984年3月27日の夜、湯島のホテル、東京ガーデンパレスで先生の著作集「久保貞次郎・美術の世界」の出版記念会が開催されました。
この著作集は叢文社が版元になって刊行が始まったのですが、この出版記念会の後に、叢文社が倒産してしまい、先生ご自身が「刊行会」という名前で出版を続行、完結されたものです。
この出版記念会の司会は私がしたのですが、挨拶に立った東京画廊の山本孝さんが「長年、久保先生にはお世話になっており、たくさんの作品を買わせていただきました。しかし久保先生にはいまだ一点もお買い上げいただいておりません。」という爆笑のスピーチをされました。
買わなかった理由ははっきりしていて、斎藤義重、関根伸夫、久野真、高松次郎といった東京画郎の作家たちには、久保先生は興味を示さなかった。どちらかというと南画廊、南天子画廊、飯田画廊あたりが先生の好みの作家を扱っていたわけです。
それにしても泣く子も黙る、天下の大画商、山本さんに絵を売りつけておきながら、ご自分は東京画郎からは一点も買っていなかったなんて、凄いですね。
それくらい、久保先生は、商売にたけていた。これは決して貶しているのではありません。
欧米の大画商を見ればわかるとおり、彼らはとんでもなく大金持ちです。資金力豊富、5年や10年平気で作品をもち続ける。私たちのような今月の給料をどうしようかと思い悩む貧乏画商など、画商の名に値しない。
日本の現代美術の画商さんたちが資金繰りに四苦八苦している時代に、久保先生は誰よりも資金力があり、即金で絵画を売り買いできる稀有な方でした。
私もお金に困ったらまず先生のところに作品を持って行き、それを買ってもらうのが常でした。

買うことはお金さえあればできる、久保先生の凄かったのは、それを大量に売りさばく独自の販売ルートを持っていたことです。
久保先生は本拠の栃木県真岡はもちろん、東京で頒布会を主催し、また全国の配下の教師たちに頒布会を開催させ、ご自分が集めた作品や、自らエディションした版画を大量に売りさばきました。
そのときに、作品に貼付したのが所謂「久保シール」です。
シールの形式は、一定していません。時代によって、変化しています。
北川民次の版画などは、ほとんど久保エディションでしたからそれ専用のシールをつくっていました。
変わらないのは、先生がご自身で印刷したガリ版だったことです。

掲載した写真は、1961年に真岡で頒布された駒井哲郎作品の額の裏です。
若い頃の久保先生は日本版画協会系統の作家は余りお好きではなかったようですが、駒井哲郎先生だけは別格で、高く評価し、創美のセミナーなどでは瑛九や池田満寿夫などと同じように駒井先生の水彩画を積極的に頒布されていました。
このシールで注目すべきは、朱印に「久保美術館」とあることです。私たちが真岡詣でを始めた1970年代にはギャラリーと称していた天井の高い、コレクションルームが、広いお屋敷の一角にありました。
そのギャラリー(私の記憶ではアトリエとも言っていました)を、1961年の時点では久保美術館と称していたのですね。

「駒井哲郎を追いかけて」の連載は、2007年は今回で終わりとします。来年はもっと心してかかります(例によって口先だけの公約か)。
ご意見、ご叱正のほどお願いいたします。


世田谷美術館「エチュード」〜駒井哲郎を追いかけて第24回


世田谷美駒井哲郎展示
◆前回(連載第23回)を書いたのが6月2日、あっという間に三ヶ月も経ってしまいました。
申し訳ありません。
世田谷美術館で9月1日から「福原信三と美術と資生堂」というちょっと変わった展覧会が始まりました(11月4日まで)。
オープニングレセプションで酒井忠康館長が「企業と美術をテーマとする展覧会ときけば、普通なら企業なりそのオーナー社長が集めた絵画のコレクションの展示だろうと思うだろう。しかし今回の<福原信三と美術と資生堂>展は違う。これまでの美術史的な概念では今日の時代の美術を包摂しきれなくなった。時代の美術の新しい断面を開示して、創造性に富んだ内容をもった展覧会を企画したいと思った。」という趣旨の挨拶をされていましたが、企業のコレクションではなく、企業の活動自体をテーマにした珍しい展覧会といえるでしょう。
この展覧会については後日詳しくご紹介するとして、この展覧会と同時に同館2階の収蔵品展示室で<夢からの贈り物 ルオー、ルドン、長谷川潔、駒井哲郎>という駒井ファンにはたまらない小展覧会が開催されています(12月2日まで)。
駒井哲郎は寄託されている福原コレクションから126点(他に美術館所蔵の3点が加わり全129点)が前期(〜9月30日まで)と後期(10月2日〜12月2日)にわけて展示されます。
ちょっとしたミニ回顧展です。見ごたえあります。

駒井哲郎エチュード
駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
「エチュード」
 1959年 銅版
 Image Size 26.2×36.0cm
 Sheet Size 37.7×47.2cm
 Ed.20(ep)  Signed

ご紹介した「エチュード」は後期に展示されます。

駒井作品の限定部数〜駒井哲郎を追いかけて第23回

駒井哲郎・記号の静物
駒井哲郎 Tetsuro KOMAI「記号の静物」
 1951 etching, drypoint
 9.4×8.4cm
 Ed.30 E.A Ed.25(2005)


「駒井哲郎を追いかけて」の連載が、つい日々の忙しさにかまけて中断してから5ヶ月が過ぎてしまいました。
いくらなんでもこれじゃあ忘れられてしまう。再開します!

他にも、「ウォーホルを偲んで」の連載が中断していますが、これは[KIKU][LOVE]連作を刷ってくれた刷り師の石田了一さんが、当時の日記がわりのメモを押入れの中から発掘してくれ、現在解読中です。もう少ししたら、原資料をもとに再開しましょう。
さらに先日開始したばかりの「瑛九のリトグラフについて」も何とかしなければ・・・・
ほんとに貧乏暇ナシで忙しいんです。

さて、駒井哲郎です。
掲載した銅版画作品「記号の静物」はつい最近入手した<後刷り>です。
作品左下に鉛筆で<24/25>と限定部数が記入されており、右下には丸で<K>を囲んだエンボスが捺してあります。
これは、この連載第18回でご紹介した、2005年の秋に刊行された「沈黙の雄弁」という本の特装版に挿入されています。
詳しくは、第18回の項を参照していただきたいのですが、特装版の総部数200部の中に、「Radio Activity in my room」「記号の静物」「海辺の貝」「物語の朝と夜」「一樹」「風船」「向かい合う魚」「大樹を見上げる魚」の8点が後刷りされ挿入されました。

駒井哲郎沈黙の雄弁表紙
駒井哲郎沈黙の雄弁チラシ








特装版に挟み込んであるチラシには、
<「沈黙の雄弁」は、特装版のみ限定200部が刊行された。
1冊につき各1葉ずつ納められている銅版画は全てで8種類あり、
それぞれ25部が摺られ、ナンバーが記され、アトリエマークがエンボスされている。>と記載されています。

版画作品の没後の後刷りは、生前刷りのオリジナル版画の市場的価値を大きく左右することは言うまでもありません。
しかし、この回では、後刷りについて述べるのではなく、生前の限定部数について少し論じたいと思います。

この連載で繰り返し書いてきましたが、駒井先生はファースト・エディションの後に、有名な(売れる)作品については、セカンド・エディションをすることがしばしばありました。
代表作1951年の「束の間の幻影」などは少なくとも4回以上、別の限定部数が刷られています(Ed.20,Ed.30,Ed.X,EA10)。

では、今回ご紹介する「記号の静物」はどうだったのでしょうか。
例によって参照するのは、1980年の東京都美術館「駒井哲郎銅版画展図録」(409点収録)です。
「記号の静物」の項に記載された全文は以下の通りです。
<エッチング、ドライポイント 
9.4×8.8cm 1951
Ed 30(1/30−5/30印刷) EA
第19回日本版画協会展 1951
美ー44 >

実に重要で微妙なことが書いてありますね。
つまり、上記の記載を素直に読めば、1951年に制作されたときの限定部数は30部が分母だったが、実際には5部だけが刷られた(1/30〜5/30)、他に番号入り以外に EA がある、ということになります。
となると、この「記号の静物」は生前には10部も刷られなかったことになり、没後の後刷りは実に貴重なものといわざるを得ない。
しかしこれは私の実感からするとおかしい。この作品は先生の晩年1970年代にはポピュラーなもので、私自身、何度も扱っています。決して珍しいものではありません。
1980年の展覧会当時、東京都美術館の学芸員がなにを根拠に<Ed 30(1/30−5/30印刷)>と記載したのかはわかりませんが、その背景には、駒井作品には、上述のようにセカンド・エディションもあれば、逆に分母の数だけ刷られなかったものもあるという、研究者の間では周知の事実があったことは間違いないでしょう。
それは、没後刊行のレゾネである「駒井哲郎作品集」(366点収録 1979年 美術出版社)に加藤清美先生が書いた以下の文章でもわかります。
<初期作品など、限定総数のすべてが市場に出たとは考えられないものもあり、また第一の限定数未満で打ち切られ、第二の限定に移った作品もあると思われる>

では、実際の作品にあたってみましょう。
先ず、埼玉県立近代美術館所蔵の「記号の静物」の限定番号は<3/30>でした(「駒井哲郎と現代版画家群像 果実の受胎」展図録48ページ参照 1994年 埼玉県立近代美術館)。
次に、この連載でしばしば取り上げている福原コレクションの「記号の静物」の限定番号は<10/30>です(「福原コレクション 駒井哲郎作品展 未だ果てぬ夢のかたちーー」図録30ページ参照 2003年 資生堂)。
さらに、2001年に不忍画廊で開催された「没後25年 駒井哲郎展」図録8ページにも「記号の静物」が掲載されており、その限定番号は<9/30>です。

三つの資料だけ参照してみても、この作品が番号入りが5部しか刷られなかったというわけではなさそうだということがお分かりになるでしょう。
東京都美術館の図録の記載が、加藤先生のいう<第一の限定>で、第二の限定(それも同じ30部)がその後あったのか、それとも誤記なのか、にわかには判断できません。

駒井作品の本質とはあまり関係のない些細なことではありますが、画商としては実に気になる。
真相やいかに・・・・

駒井哲郎のパリ時代〜駒井哲郎を追いかけて第22回

ふらんす  2006年最後の書き込みです。

1925(大正14)年に創刊された「ふらんす」という雑誌があります。
昨年創刊80周年を迎え、フランス語とフランス文化とともに歩んできた過去のバックナンバーから、エッセイなどを選び編んだ「ふらんす 80年の回想 1925-2005」という本が昨2005年に白水社から刊行されました(1.800円+税)。
登場する著者たちが凄い。
與謝野晶子、堀口大學、岸田國士、内藤濯、辰野隆、岩田豊雄、市原豊太、河盛好蔵、加藤周一、蘆原英了、遠藤周作、野村二郎、澁澤龍彦、石井好子、花柳章太郎、吉田秀和、福永武彦、辻邦生、佐藤朔・・・・いやきりがない。
私の大学時代の恩師、田辺貞之助先生、草野貞之先生も執筆者です。
もちろん本欄の主人公、駒井哲郎先生のエッセイ「Vinの味 Parisの味」(1971年9月号)もあります。1954〜55年にかけてのパリ留学時代の思い出話です。

1955ふらんす駒井哲郎カットこの本をわざわざ送ってくださったのは上記の駒井先生のエッセイに登場する野村二郎先生ですが(日本からフランスへの往復の船で同室だった)、本と一緒に、貴重な1955年のバックナンバーのコピーを同封してくださいました。
そこに掲載されているカット(挿画)、描いたのは駒井哲郎先生です!
(このカットは、上記の本には収録されていませんが)
ダッフルコートってもうこの頃、若者のファッションだったんですねえ。

因みに、ウィキペディア(Wikipedia)によれば、<ダッフルコート (duffel coat) は、外套(オーバーコート)の一種。北欧の漁師の仕事着として活用されていた。第二次世界大戦ではイギリス海軍が軍服として着用した。フード付きの防寒コートで、ベルギーのアントワープ近郊のダッフル地方で作られた起毛仕上げの厚手のメルトン生地(紡毛織物、ウール生地)を用いたことから命名された。裏地は付けない。トグル (toggle) と言う留め木とトグルと対になるループが数個付いており、フロントを留める。トグルは浮き型で素材は木や角である。ボタンとは違い手袋をしたままトグルを留めたり、外したり出来るのが特徴である。イギリスのグローバーオール社の製品が有名。>とあります。

駒井先生は雑誌のカットなどたくさん手がけてはいますが、こういう若い人の風俗を描いたものは私は初めて見ました。美術関係者は誰もしらないんじゃないかしら。
初々しいですね。
駒井先生のパリ留学時代のことは意外に知られていません。そのうち熱心な研究者によってまとめられることを期待しています。
そのときは是非このカットも掲載して欲しい。

この連載もおかげさまで22回を数えました。ご愛読を感謝するとともに、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは皆さん、良いお年を。
              2006.12.31 綿貫不二夫


名作にみる謎の限定部数(後編)〜駒井哲郎を追いかけて第21回

駒井哲郎樹木ルドンによる素描 前回は駒井哲郎の名作「樹木 ルドンの素描による」について文献に記載されている限定部数が混乱しているということを書きました。
つまり、レゾネなど文献4種類には、125部、152部という限定部数表記が混在し、
実物の詩画集には、150部、152部という限定部数表記が混在する、不思議な事態が生じているわけです。
125部、152部、150部と3種類もの限定部数がある!?

これをどう考えるべきか。
答えは簡単で、常にわれわれの仕事は、オリジナルに還れ、実物第一主義です。
私が入手した実物にははっきりと分母が「152」となっている。

では他の文献は全て間違い、そう断定していいのか。
ところが今回の場合、「樹木 ルドンの素描による」が挿入された小山正孝との詩画集「愛しあふ男女」の奥付には、<限定150部>と記載されている。
作品も実物なら、挿入された本体の詩画集奥付も、まあ実物といっていいでしょう。困りましたね。

いったいこれはどうしたことでしょうか。
考えられる事態をひとつひとつ検証してゆきましょう。

1)実物に記載された分母152は正しいのか。
だいたいにおいて<152>部なんてへんな限定部数ですね。
<150>のほうがすっきりしてます。これはもしかしたら駒井先生の誤記ではないのか。
こういう疑問を抱くのはそういう記載ミス(誤記)が現実にありうるからです。私は長く版元をしており、今までに1000点をこえる版画をエディションしてきました。限定番号は作家が記入する場合と、版元が記入する場合の二通りあります(これはルール上広く認められています)。経験則からいうと、分母の誤記、分子の誤記、両方あります。ほとんどの場合、すぐにその場でわかります。万一見落としても検品作業でチェックしますので、そういう誤記のものが市場に出ることはまれです。
ではこの場合はどうか。
私が入手した実物には前回写真で紹介したとおり、<50/152>とはっきり記入されています。
また、『駒井哲郎ブックワーク』(1982年 形象社)94ページに掲載された図版を虫眼鏡で見ると確かに105/152となっています。他に確認できるといいのですが、まあこれで限定<152>は間違いないでしょう。因みに東京都現代美術館所蔵のものは<EA>です。

2)詩画集「愛しあふ男女」の奥付<限定150部>の記述は間違いか。
実物の作品は<152>、奥付は<150>、ミステリーです。
考えられるのは、ユリイカの伊達さんの単純なミスか、双方の行き違いですね。
駒井先生と小山先生、ユリイカの伊達さんの事前の打ち合わせでは<150>だったものを、駒井先生が何らかの事情で限定部数を<152>としてしまった可能性もあります。
しかし、詩画集は150冊(1〜150番)なのに、挿入した版画が152部(1〜152番)だとしたら、詩画集が足らなくなるはず(実際にはEA分など余分に作っているので大丈夫ですが)、どう始末したんでしょうね。

3)レゾネなどの文献の<限定125部>の記述は間違いか。
そもそも、駒井哲郎先生の生前に刊行されたレゾネ『駒井哲郎銅版画作品集』(1973年 美術出版社)の記述が<限定125部>となっており、他の文献はそれを検証もせずに丸写ししたものと思われます。
では、レゾネに記載された<限定125部>は間違いなのか。
考えられるのは以下の二つの場合です。
 a)<152>を<125>と間違って印刷してしまった。
だいたい152部なんて普通はない限定部数ですから、当時の美術出版社の編集者が<125>の間違いじゃないかと思い込むのはありうることです。その折、現物を確認しなかったんでしょうね。
 b)125部限定のものが実際に存在する?
実はこれが一番心配なところでして、この連載をお読みの方はよくおわかりと思いますが、駒井先生はセカンド・エディションの常習者でした。
代表作「束の間の幻影」や「丸の内風景」などは何度も後刷り(セカンド・エディション)されています。
その伝でいえば、もしかしたら詩画集に挿入した<152部>のほかに、単品で<125部>別刷り(セカンド・エディション)をした可能性も全くないとはいえません。
果たして真(事実)はどうだったんでしょうか。

何事も1%でも可能性がある限り、私たちの探索の旅は続きます。
それにしても駒井先生の作品、複雑ですねえ。
              2006.12.18 綿貫不二夫

<第11回〜第20回          第31回〜第40回>

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