ときの忘れもの ギャラリー 版画
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駒井哲郎を追いかけて 第31回〜第40回
<第21回〜第30回                    
28日、29日と二日間のセールにはたくさんのお客さまにご来場いただきありがとうございました。
前日まで「銀塩写真の魅力」展を開催していたもので、準備が慌しく、まだ値付けもしていないうちに次々と来廊者が相次ぎ、てんてこ舞でした。
ちょっと意外だったのは若い人たちが多かったことです。
私たちの仕事は、作家の創ったものが次の世代に引き継がれることをお手伝いすることですが、私どものような古色蒼然とした画廊に若い人たちが来られることは何だかとても嬉しい。

突然話は変わりますが、福井県は私たちにとって非常に大切な場所です。
現代版画センター以来のお客様が多数いらっしゃって、今まで何十回も訪れました。
福井が全国でも有数の現代美術の発信地であることは、ふるくは大正時代、土岡秀太郎さんが北荘画会を結成して以来、多くの前衛作家たちが福井を訪れていることでも明らかです。戦後の1950〜60年代には久保貞次郎先生の影響で創美運動が熱気をもって展開され、鯖江の木水育男さんを中心に、福井、大野、勝山などの人たちが頒布会を組織して晩年の瑛九を支えたことは余りにも有名です。

先日、もう30数年のお付き合いになるAさんから下記のようなメールが入りました。
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さて、4月に福井市にオープンしたE&Cギャラリーの3回目の企画展として「駒井哲郎版画展」を開催する運びになりました。期間は6月27日より1か月です。
このギャラリーは福井大学の美術の先生方が中心となり、福井での芸術文化の発信の場とするもので、NPO法人としての運営です。学生たちがギャラリーの運営を担っている、ユニークな画廊です。詳細はWEBサイトで見てください。オープニング企画は「宇佐美圭司展」でした。
つきましては、綿貫さんには急なお願いで申し訳ありませんが、ギャラリー発行のニュースレター、および駒井展の案内ちらし用として駒井哲郎の現代版画・現代美術における位置づけ、また、駒井版画の魅力について600字程度(少し増えても問題ないと思いますが)でまとめていただき、今週中にメールいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
出品作品については小生のコレクション20点で構成することになりました。
出品作品リストを添付しておきますので、ご参考に願います。
また、ギャラリートークもやろうと(中略)、小生ももちろん参加しますが、だれか熱く語れる人がいないかと考えますと、綿貫さんにぜひと考えた次第です。(以下略)
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駒井哲郎版画展FE&Cギャラリー駒井哲郎版画展E&Cギャラリー裏
とまあそんなわけで、セールの準備や何やかやでてんてこ舞の毎日だったのですが、古いお客さまのリクエストとあらば何とかせねば。
原稿を書いて送り、例によっておっちょこちょいにもギャラリートークまで引き受けてしまいました。


駒井哲郎版画展ーA氏コレクションよりー
会期=2009年6月27日(土)〜7月20日(月)
会場=E&Cギャラリー
   〒910-0006 福井市中央1-20-25 三井ビル3F
   電話:0776-27-0207
   www.eandcgallery.com
7月12日(日)15:00〜16:30 ギャラリートーク(綿貫不二夫)
   参加費:500円(ドリンク付)
  *要予約(定員30名、お申し込みは直接E&Cギャラリーへ)
   福井の方、ぜひご参加ください、久しぶりにお目にかかれるのを楽しみにしています。

「時代に先駆け、今も生きる駒井哲郎」 綿貫不二夫
 銅版画の詩人と謳われた画家の初期の名作[孤独な鳥]から代表作[からんどりえ]など20点による駒井哲郎展が開催されると聞き、再び現代美術の神話が福井から復活するのではないかとの予感に包まれている。
 北荘画会を結成した土岡秀太郎は昭和初年に福井駅前にアルト会館をつくり、多くの作家を招き展覧会や講演会を開いた。彼らの前衛運動は日本の美術史に燦然と輝く記念碑である。創る側と受容・享受する側との相互作用がなければ豊かな美術文化は育たない。
 土岡より二周り下の駒井は15歳から東京芸大の初めての版画専任教授として56歳の若さで亡くなるまで銅版画のパイオニアとして創作と教育、そして版画の普及に生涯を捧げた。今でこそ海外で活躍するアーティストは珍しくないが、60年前の日本は敗戦で国土は廃墟と化し人々は打ちひしがれていた。そのとき湯川秀樹のノーベル賞と水泳の古橋広之進の世界記録が人々を勇気づけたことはよく知られている。当時まだオリンピックには復帰できなかったが、1951年の第1回サンパウロ・ビエンナ−レに駒井は木版の棟方志功らと出品し、コロニー賞受賞という快挙を成し遂げ、国際社会に日本人が進出するきっかけをつくった。武力ではなく文化の力が世界の扉を開いた。
 瀧口修造が顧問格の[実験工房]に山口勝弘、大辻清司、武満徹、湯浅譲二らと参加し、美
術と映像、音楽、文学が交叉するインターメディア作品を制作したのが1953年である。いかに時代に先駆けていたことか。現代美術の歴史は志水楠男の南画廊を抜きには語れないが、1956年その伝説の画廊の開廊記念展は駒井哲郎展だった。
 銅版画の小さな世界にこめた駒井の夢と幻想は今でも多くの人々に影響を与えている。来年は生誕90周年である。(同展フライヤーより)


名作「笑う幼児」の不思議な限定番号〜駒井哲郎を追いかけて第36回


 私のライフワークだなんて大法螺をふきながら「駒井哲郎を追いかけて」の書き込みが半年も空いてしまいました。お詫びします。
この間なにをしていたかというと、もちろん身過ぎ世過ぎで商売に明け暮れていたといいたいところですが、さにあらず、世の中が不景気の嵐だというのに、仕事はスタッフに丸投げしつつ、ひたすら駒井哲郎の影を追い続けていました(ホントです)。
 駒井先生が亡くなられて昨年は33回忌でしたが、来年は生誕90年という記念すべき年となります。私たちも微力ながら、駒井作品の魅力を多くの人々に伝えたいと、いくつかの企画の準備を進めています。そうすると面白いもので、次から次へと珍しい作品が見つかり、私たちの情報カードはふくれあがる一方です。いずれそれら新発掘の作品はこのブログでも紹介して行きたいと思っていますが、本日は、ちょっと不思議な限定番号のお話です。
 つい先日、業界きっての老舗S画廊の若旦那さんから、名作「笑う幼児」の画像とともに以下のようなメールをいただきました。
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ずいぶん前になりますが、お伺いした際に駒井作品のアーカイブ化の話がありましたが、(参考までに)画像をお送りいたします。

ご存知の通り1973年作「笑う幼児」ですが、EDが1/31とあります。
都美館図録にはED30とあり、当画廊でも30部の方は数点扱いました。
なぜED31なのか推測してみました。

A)本作品は人気が高く良く売れたのですが、何番まで売れたか分子ナンバーを控え忘れたため、絶対に間違いのないよう分母ナンバーを変更した。
B)本作品は人気が高く良く売れたので、絶版(ED30まで売り切った)となり、新たにED31から起こした作品を制作した(当画廊では26/30は扱った事があります)

如何でしょうか?
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 驚きました。ほんとに不思議な番号があるものですね。
駒井先生は中林忠良先生などのお弟子さん達には「限定番号はきちんとノートに控えておくんだよ」と言いながら、肝心のご自分はそういう几帳面なことは全く不得手で、限定番号が途中で途切れてしまったことが少なくないことは、周知のことでした。
駒井作品に同じ作品でありながら、分母が異なるエディションがいくつもあることは、我々画商にとって悩みの種ですが、今回のようなケースは珍しいですね。
駒井哲郎「笑う幼児」
駒井哲郎「笑う幼児」
1973年 アクァチント(亜鉛版)
19.8×20.1cm Ed.30
以上のデータは1980年の東京都美術館回顧展図録によりますが、S画廊さんから送られてきた実物の画像を拡大すると、・・・

駒井哲郎「笑う幼児」限定番号あらら、限定番号は確かに 1/31 と記入されています。

S画廊の若旦那があげた名推理、A)B)いずれも可能性としては「あり」ですが・・・
私見を述べさせてもらえば、
推理(A)は「何番まで売れたか分子ナンバーを控え忘れたため」という推理ですが、こういうことはしょっちゅうあったみたいですから(笑)、そのたびに/31などという不思議な限定番号をつけたとは考えにくい。必要に迫られてのことだとすると<EA>とした方が無難です。
推理(B)ですが、同じように可能性としてはあったかも知れませんが、それならば2/31とか3/31とかが続々出てきてもいいように思いますが、そんな例は今のところないですよね(少なくとも私は聞いたことはない)・・・

むしろ、この作品(駒井先生の他の作品に比してもかなり特異な絵柄です)に特有の隠された物語があったと考えた方が、ロマンチックですね。
またまた解明すべき謎が増えてしまいました。
こういうキリが悪いというか、中途半端というか、普通には先ずあり得ない分母については、以前この連載の第20回第21回でも紹介したことがあります。あのときは/152という、これも不思議な限定部数でした。
果たして皆さんはいかがお考えでしょうか。

銀杏忌の会〜駒井哲郎を追いかけて第35回


 駒井哲郎先生は、1976年11月20日に亡くなりました。今年が33回忌にあたります。
毎年この時期にお弟子さんたちが集まり「銀杏忌の会」が開催されてきたのですが、だんだん参加者のお歳も高くなり、今年を最後に閉会するという案内をいただきました。
先月21日、銀座で開かれた最後の「銀杏忌の会」に私も出席させていただきました。最後とあってか60名を越す大勢の皆さんが集まりました。
20081121/銀杏忌の会120081121/銀杏忌の会2
 世話人の中林忠良先生(東京芸大名誉教授)の司会で始まり、先ず野見山暁治(駒井先生の同級生)先生が挨拶され、お弟子さんの柳澤紀子先生の音頭で遺影に献杯。その後は懇談と、加納光於、馬場駿吉(俳人、名古屋ボストン美術館館長、駒井作品のコレクター)、鎌谷伸一、辰野登恵子、池田良二、粟津則雄(いわき市立草野心平記念文学館館長)らの諸先生がこもごも駒井先生への思いを語られました。
世田谷美術館の学芸員・清水真砂先生からは世田谷美術館に寄託されている福原コレクションの点数が300点を超えたこと、再来年2010年の生誕90周年を記念して全国の公立美術館での回顧展の巡回が計画されているいこと、それを機にレゾネの編集刊行も計画されていることなどが披露されました。
多摩美術大学での教え子である渡辺達正先生(多摩美術大学教授、春陽会理事長)は、駒井先生の最後のパリ行に同行されたときの思い出を語り、「弟子の一人として、ご遺族の意向を尊重しながら、残された原版と資料の長期的な保存について、尽力したい」と静かに語られました。
最後に遺族として駒井美子さんが「駒井は優しい人でした」とスピーチされ、盛会のうちに終了。
参会者には駒井家から『白と黒の造形』(講談社学芸文庫)が贈られました。

 私はあまりオープニングなど出ないので、参会者のお名前を全部はわかりませんが、上記の皆さんの他に、ご子息の駒井亜里さんはじめ、幸田美恵子、野田哲也、渡辺達正、相笠昌義、磯見輝夫、河内成幸、中山隆右、山中現らの作家、元江邦夫(府中美術館館長)、猿渡紀代子(横浜美術館)、河合晴生(東京都美術館)、横山勝彦(練馬美術館)、田中三蔵(朝日新聞)、上甲ミドリ(元美術出版社、レゾネ編集者)、小林基輝(修復家)、松山龍雄(元『版画芸術』編集長)、荒井一章(不忍画廊)らの皆さんが出席されていました。
席上発表された回顧展、レゾネの刊行などの計画には、私どもも微力ながら協力したいと考えています。


ワタリウム美術館のコレクション〜駒井哲郎を追いかけて第34回


 ときの忘れものから直ぐ近くのワタリウム美術館で「美しい青い風がーワタリウム美術館コレクション展 アイ・ラブ・アート9」が開催されています。特筆すべきは、駒井哲郎作品が13点も展示されていることです、いずれも秀作揃いです。
ワタリウムワタリウム裏
会期=2008年9月5日(金)-12月7日(日)
出品作家=カールステン・ニコライ、ジャン・ホワン、小沢剛、ホワン・ヨンピン、キース・ヘリング、ジュリアン・シュナーベル、フランツ・ウエスト、ニキ・ド・サン=ファール、アンディ・ウォーホル、ヨーゼフ・ボイス、駒井哲郎、ジョン・ケージ、瀧口修造。
 先日私が見に行ったときは、まだカタログができていないというので、とりあえず駒井哲郎作品をメモしてきました。順不同で、タイトル、制作年、限定番号の順に記載しました。
<美->とは、1979年刊行の美術出版社のレゾネ『駒井哲郎版画作品集』の記載番号。
<都->とは、1980年東京都美術館の『駒井哲郎銅版画展』図録の出品番号です。

「消えかかる夢」1951年 Epreuve d'Artiste 美-46、都-44

「月のたまもの」 1954年 19/27 美-55、都-53
 *メモによれば、展示のキャプションには<1954年>とあったようなのですが(私の転記ミスかも)、レゾネ等の記載は1952年です。

「時間の迷路」 1952年 ep. d'Artiste 美-54、都-52

「風景」 1954年 ep. d'Artiste 美-75、都-74

「教会の横」 1955年 Epreuve d'Artiste 美-83、都-84

「樹木」 1957年 Epreuve d'Artiste 美-89、都-89

「樹」 1969年 ep. d'Artiste 美-219、都-224

「賀正 1960」 1969年 ]U/] 美-352、都-351

「丘(日本の四季より春)」 1975年 Epreuve d'Artiste 美-319、都-328

「静物U」 1976年 Epreuve d'Artiste 美-326、都-335

「静物T」 1975年 アクアティントに手彩色 都-403

「静物U」 1975年 アクアティントに手彩色 都-404

「箱」 1975年 アクアティントに手彩色 都-405

 私が驚いたのは、最後の三点、会場の展示キャプションには<アクアティントに手彩色>と記載されていますが、1980年の東京都美術館における「駒井哲郎銅版画展」に出品された非常に美しい作品です。それがまさかワタリウム美術館の所蔵作品だとは知りませんでした。
 作品を紹介できないのが残念ですが、 1980年の東京都美術館図録には、モノクロで図版が掲載されており、いずれも技法は<水彩>となっています。私もそうとばかり思い込んでいたのですが、上述の通り、ワタリウムの会場展示キャプションには<アクアティントに手彩色>となっている。よく目を近づけてみると、なるほど四角いプレートマークが見える。水彩とコラージュのようにも見えますが、図録が出たら再度行って確認してみましょう。
駒井哲郎ファンには必見の展示です。

中野美術館で〜駒井哲郎を追いかけて第33回


 前回ご紹介した名古屋ボストン美術館における馬場コレクション展については、まだまだ書きたいこともあるのですが、とりあえず次にまわすとして、別の展覧会をご紹介します。
中野美絵と版画の交響
 奈良にある中野美術館で「絵と版画の交響ー須田国太郎、鳥海清児から駒井哲郎までー」という展覧会が開催されています。
送っていただいた出品目録には、小出楢重、国吉康雄、長谷川利行、須田国太郎、村山槐多、三岸好太郎、鳥海青児、松本竣介、駒井哲郎の9作家の29点が掲載されています。
 前期(9月10日〜10月13日)、後期(10月17日〜11月24日)で一部展示換えがあるようですが、駒井作品は「束の間の幻影」「R夫人の肖像」「食卓U」「人形と小動物」など12点が出品リストに載っています。
 私はまだこの美術館に行ったことがないのですが、ここが持っている「R夫人の肖像」は昔、私どもでお納めしたものなので、何とか作品に再会したいと思っています。
 実は、「R夫人の肖像」(1950年)及びその完成版ともいうべき「R夫人像」(1970年頃)という作品は、駒井作品の中でも最も謎に満ちた作品で、幾つものバージョンがあり、いまだその全貌はわかっていない。いずれこの連載できちんと論じたいと思っています。
 幸い、奈良には私の師匠、西田画廊のご主人がいる、中野美術館を見た後、一晩ゆっくり酒でも飲みながら、西田さんの好きな現代美術の講義を受けたいものです。

駒井哲郎人形と小動物

駒井哲郎『人形と小動物』
 1951年 銅版(アクアチント)
 18.0×10.4cm
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限定番号1番と2番〜駒井哲郎を追いかけて第32回


 先月末まで開催されていた名古屋ボストン美術館「一俳人のコレクションによる 駒井哲郎銅版画展〜イメージと言葉の共振〜」についてのご報告の続報です。
名古屋B駒井哲郎展表駒井哲郎展_名古屋B裏


駒井哲郎名古屋B美展図録 駒井哲郎先生と親交のあった馬場駿吉氏の個人コレクションの展示ですが、前々回に、<番号入りの作品について、2番が多いことは、ある物語を感じさせます。限定番号とはもちろんその作品の戸籍みたいなものですが、これがあるおかげで、たとえばその1番を誰が買ったかということを追跡調査することも可能です。これについては次回以降に詳しく論じましょう。>と書いたきり、時間がたってしまいました。申し訳ありません。
 会期中一部展示換えがあったので(私が行ったのは9月7日)、全部の確認はできませんでしたが、私が見た作品で、限定番号が2番だったのは以下の8点です。
出品番号、タイトル、制作年、限定番号の順に記載しました。
<美->とは、1979年刊行の美術出版社のレゾネ『駒井哲郎版画作品集』の記載番号。
<都->とは、1980年東京都美術館の『駒井哲郎銅版画展』図録の出品番号です。
リストだけでは何だかわからんという方もいらっしゃるでしょうが、どうぞお許しください。下記の8点の画像のストックはもちろんあるのですが、しかしそれは正確な意味での「馬場コレクションの画像」ではありません。本稿の趣旨から考えて、敢えて画像は掲載しません。予算の問題もあるでしょうが、やはりパブリックな美術館の展示には図録をぜひぜひつくっていただきたいと、切に願う次第です。
21.二つの球 1973年 2/20 美-302、都-310
  *レゾネ、及び都美図録には<Ed.75>としか記載されていません。
   季刊雑誌『版画芸術』特装版のために限定75部刷られたのですが、
   この馬場コレクションのおかげで、他に限定20部が存在したことが
   あきらかになりました。

27.一樹 1960年 2/12 美-144、都-145

33. 1961年 2/12 美-149、都-151

34.笑う人 1961年 2/15 美-150、都-153

35. 1961年 2/15 美-153、都-156

36.人のようなネコ 1961年 2/15 美-152、都-155

37.顔の軌跡 1961年 2/10 美-159、都-159

38.小さな人 1962年頃 2/15 美-161、都-176

 これだけ2番が多いと、とても偶然とは思えません。
この連載の第17回で、私は駒井哲郎先生生前の大パトロンともいうべきO氏のことに少し触れました。O氏の大コレクションのほとんどは東京都美術館(現在は東京都現代美術館に移管)が購入し、そのとき購入されなかったモノタイプなどは散逸してしまいました。このときの経緯はまさにドラマですが、ここでは触れません。旧O氏コレクションに限定番号1番が多いのは、研究者なら周知の事実。私は、名古屋の馬場コレクションの展示作品を一点一点克明にメモしながら、「Oさんの1番の後の2番は馬場さんだったのか」とピンときたわけです。帰京後ただちに『東京都美術館収蔵作品図録U 版画 1985』(1986年刊)にあたりました。案の定、上記8点すべてが旧O氏コレクションにあり、それもそろって限定番号1番でした。
 つまり、ある時期、駒井哲郎先生を支えたコレクターは、一にO氏、二に馬場氏だったのですね。果たしてこれらの作品の購入には画商は介在したのでしょうか。それとも駒井先生が直にこのお二人に1番と2番をお渡しになったのでしょうか。私は最晩年の駒井先生の新作発表をお手伝いしただけですので、そのあたりの深い事情は知る由もありませんでした。
 カタログや二次的な資料だけ見ていると、こういう物語は感じることができません。
すべては実物に始まる。あの日、慌しく名古屋まで行っておいて良かった。泉下の駒井哲郎先生にも素晴らしいコレクションの展示でしたと、ご報告したいと思います。


馬場駿吉宛書簡〜駒井哲郎を追いかけて第31回


駒井哲郎名古屋B美展図録 前回は名古屋ボストン美術館で9月28日まで開催中の「一俳人のコレクションによる 駒井哲郎銅版画展〜イメージと言葉の共振〜」に出品されている作品についてご報告しました。
それらは、すべて駒井哲郎先生と親交した馬場駿吉氏の個人コレクションです。
点数は多くはありませんが、世田谷美術館に寄託されている福原コレクションとともに、駒井哲郎の世界を知る上で屈指の作品群であることは間違いありません。
 作品の他に、実に貴重な資料が展示されていました。駒井哲郎先生から馬場駿吉氏に宛てた書簡2通です。こんな機会はめったにないと、私必死になってメモしてきました。
**************

1964年7月19日付書簡(封書の消印は7月20日)
拝復 過日はお手紙と一万円也お送り下さいまして有難うございました。
貴兄の句集のことはほんとうにのびのびになってしまひ申し訳ありません。先日森谷氏に電話して早くやるように言ってをきました。
小生もおかげ様でその後の経過も順調で日々良くなるように思います。この頃は毎日歩行訓練で汗を流しています。(中略)
御高著のこと遅くなって終いましたが一度森谷氏に来てもらって良く相談してから造本の方はやるようにします。ご安心下さい。
すっかりごぶさたして誠にすみませんでした。もうぢき元気になれそうです。
ではまた、お元気で。匆々    駒井哲郎
七月十九日
馬場様

1964年12月19日付書簡(封書の消印も12月19日)
その后お元気ですか。
今朝とても天気が良かったので先日の銅版画の原版を刷り余ったエプルーブを小包にして2q位のところに在る二等郵便局まで歩いて貴兄に送るために、散歩の練習のため行きました。そして帰えって来たら貴兄からのお手紙と現金を受け取りました。多すぎるようにも思い大変有難くなりました。将来なにかでおかえしすることに女房とも相談して今回は全額頂かしてもらいます。本当に有難うございました。
良い本が出来るよう念じています。
そろそろ仕事の欲が狂暴なくらいに出て来ました。しかしゆっくりと静かにやって行くつもりです。
ではまたお目に掛った機会に。御健康を祈っています。   哲郎
十二月十九日
馬場駿吉 様
**************

 この手紙の書かれたのは東京オリンピックの年ですが、前年の1963年(昭和38)10月20日深夜、43歳の駒井哲郎先生は第二京浜国道で当時の人気歌謡グループ・マヒナスターズの楽器運送トラックにはねられ、両下肢骨折。都合3回の手術を受け、1年以上にわたり療養生活を余儀なくされました。世がオリンピック景気に沸きかえっているとき、駒井先生は心身ともにピンチを迎えていた。
 この当時の一万円がどのくらいの価値か、若い方はおわかりにならないでしょうが、版画界のプリンスにして大スターだった駒井先生が決して恵まれた経済状態ではなかったことは想像できるでしょう。
 私はこの年、高校を卒業して大学に入ったのですが、以後4年間を過ごしたのは群馬県の県人寮「上毛学舎」です。1年の頃の寮費がたしか二食付で3,600円でした。月1万円の仕送りがあれば何とか暮らせました。今に換算すると10数万円の感じでしょうか。
 書簡にある「貴兄の句集」とは、馬場駿吉句集「断面」(昭森社)、「森谷氏」とは昭森社社主の森谷均のこと。駒井先生は馬場氏の求めに応じて、氏の句集に小さな銅版画を提供しました。私も以前扱ったことがありますが、小品ですが緊張感ある佳作です(レゾネNo.176 )。

 名古屋ボストン美術館の案内には「名古屋在住の俳人で、芸術評論家としても活動している当館館長の馬場駿吉は、大学医学部の若き研究者だった1961年、市内の画廊が主催した個展で初めて駒井哲郎の作品を目にしました。そして、それまで味わったことのない衝動に駆られ、駒井の版画1点を購入します。それは馬場が生まれて初めて購入した美術品でした。その後、駒井自身とも知遇を得て、70点近くに及ぶ駒井作品のコレクションを築きました。馬場にとって彼の作品は現代美術への扉であると同時に、自らの俳句の源泉でもありま す。本展では、馬場の新旧の俳句を織り交ぜ、彼の目を通した駒井哲郎像、そして一俳人と銅版画家との領域を超えた響き合いを紹介します。」とあります。
 因みに上記の名古屋<市内の画廊>とあるのは、鈴木佐平が経営していた「サカエ画廊」のことですが、今でもサカエ画廊のシールがついた作品が市場に出ることがあります。名古屋では先駆的な画廊でした。鈴木佐平については、中村稔著『束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯』222ページには馬場駿吉氏の文章を引用して<名古屋市中区東田町にサカエ画廊を自営し、引き続き駒井作品を名古屋周辺へ熱心に紹介しつづけた慧眼の画商であったが、残念ながら経営上の破綻によってやがて画廊は閉ざされ、氏も消息を絶った>とあります。

 話が別の方へ脱線してしまいましたが、心身ともに疲れていた駒井先生にとって、馬場駿吉氏の厚意はありがたいものだったに違いありません。
 1980年の東京都美術館で開催された『駒井哲郎銅版画展』図録の巻末「年譜」(河合晴生・熊谷伊佐子・中島理寿 編)には、馬場駿吉句集「断面」の刊行は1964年11月となっていますが、上記の12月19日付の書簡を読むとまだ出来上がっていないようですね。これも後ほど追いかけてみましょう。
 「そろそろ仕事の欲が狂暴なくらいに出て来ました」というのもようやく病が癒え、次のステップに向かう高揚感が出ています。
 画家はカスミだけでは生きられない。定収入のない(大学の非常勤講師の謝礼がいかに安かったか、上記の中村稔著には具体的な数字をあげて論証しています)駒井先生を、馬場氏のようなコレクターの存在が物心ともに支えたのでしょう。身につまされる手紙ですね。
 馬場コレクションについては、引き続き次回もご紹介します。ただし、ただいま「小野隆生新作展2008」を開催中で多忙な上、スタッフの三浦がのんきにヨーロッパ旅行に出かけてしまったので、なかなか書く時間がとれません。記憶が鮮明なうちにと思っているのですが、いつになることやら・・・どうぞお許しください。


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