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太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」
第9回 2021年8月12日
未来派芸術家列伝(その2)――カッラ

太田岳人


前回の記事で私は、ジャコモ・バッラとその作品について取りあげたが、近年のバッラの美術史的評価の上昇傾向と比べると、同じ初期未来派に属し「未来派画家宣言」などの共同署名者となったカルロ・カッラ(1881−1966)【図1】に対する注目は、以前より収まっているように見える。バッラの評価の高まりについては、未来派研究の対象が第一次世界大戦以降の運動にも及んだことにより、その時期の彼の「未来派的抽象絵画」、調度や衣服のデザイン、さらには環境芸術にも通じるオブジェ類に至る、幅広い活動への認識が広がったことが大きいだろう。一方、カッラが未来派のグループの一員としてその造形言語の確立に向かっていたのは、およそ1910年から1915年ごろまでの短い時期であったから【注1】、未来派運動の歴史総体を知ろうという機運の中では、その重要度も相対的に下がることになる。また、彼の活躍した領域はほとんど絵画であったから、「現代アート」とのつながりで言及しにくいということもあるだろう。

図1:カッラ《参戦主義者のデモンストレーション》図1:カッラ《参戦主義者のデモンストレーションManifestazione interventista》、1914年(紙にテンペラ、ペン、コラージュなど、38.5×30cm、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション)
※Piero Bigongiari (presentazione), L’opera completa di Carrà, 1910-1930: dal futurismo alla metafisica e al realismo mitico, Milano: Rizzoli, 1970より。

もちろんカッラは、未来派を離れて以降の半世紀を余生として過ごしたわけではない。イタリア国内では、最近でも2018年から2019年にかけて、その画業の全体を追った回顧展がミラノで開かれているが(残念ながら、本稿執筆までにこのカタログを入手できなかった)、病没直前まで続いたその創作活動からすると、《無政府主義者ガッリの肖像》などを描いていた頃の方が、彼にとっては「よりみち」だったと言えるかもしれない。存命中のカッラは、むしろ未来派以後の作品を通じて、1920年代からイタリアのみならず国外でも評価を高め、特にドイツからはフランツ・ローやウィルヘルム・ヴォリンガーといった、歴史的な批評家や美術史家の支持を受けた【注2】。1930年代以降は生活も安定し、1962年のあるモノグラフにいたっては「カッラは間違いなく、ピカソやブラックやマティスと比肩しうる画家のひとりであり、それなくしては近代絵画が別物に、そしてより灰色になったであろう〔中略〕」とまで強調した。この一節は、画家の没後間もない1967年から翌年にかけて出版された、全3巻の絵画作品全集【注3】の中にも収められている。余談だが、つい先月イタリアでは、テレビの女性司会者の草分けでもあったラファエッラ・カッラという歌手が亡くなったが、彼女の芸名はルネサンスの巨匠としてのラファエッロと、当時の現存の巨匠としてのカッラの名前からとられていた。

ピカソたちの作品とカッラのそれが比肩しうるかどうかについては、読者の皆様にも後者の作品を探してご判断いただきたい。しかし、ピカソたちと同時代の「近代画家」としての諸傾向は、確実に彼にも共有されている。未来派に参加した後も――少なくとも第二次世界大戦の時期まで――その作風をいくたびも大きく変化させつつ、時には独自の表現の追求という枠からはみ出し、社会的主題にも参加しようとした姿勢はその表れである。1910年代末から20年代初頭における、『ヴァローリ・プラスティチ(造形の諸価値)』の同人として「形而上絵画」の傾向を取り入れた作品【図2】、キュビスムや未来派の経験がもたらした幾何学性や色彩のあり方と、初期ルネサンスに内包された形態のアルカイスムを調和させようとした新しい「自然主義」の追求【図3】、さらには1930年代における「公共芸術」についての世界的な動向(これはファシスト・イタリアに限らない)に応答した、第5回ミラノ・トリエンナーレのための壁画【図4】などの仕事は、いずれもイタリアの20世紀前半の美術の展開を知る上で重要なものである。

図2:カッラ《西洋の騎士》図2:カッラ《西洋の騎士Il cavaliere occidentale》、1917年(キャンバスに油彩、52×67p、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション)
※Piero Bigongiari (presentazione), L’opera completa di Carrà, 1910-1930: dal futurismo alla metafisica e al realismo mitico, Milano: Rizzoli, 1970より。

図3:カッラ《港の帆船》図3:カッラ《港の帆船Vele nel porto》、1923年(キャンバスに油彩、52×67p、ロベルト・ロンギ財団、フィレンツェ)
※Piero Bigongiari (presentazione), L’opera completa di Carrà, 1910-1930: dal futurismo alla metafisica e al realismo mitico, Milano: Rizzoli, 1970より。

図4:カッラ《ローマのイタリア》(図版)図4:カッラ《ローマ的イタリアItalia romana》(1933年、現存しない)の、第5回ミラノ・トリエンナーレ・カタログに掲載された図版
ミラノ・トリエンナーレ・アーカイヴ公式サイトより。

ただし、外国人(私も含めて)の目から見て、カッラの重要性が分かりにくいのは、彼が各時代や諸潮流で活躍しているにも関わらず、それぞれにおいて「ナンバー1」を占めるには至っていないせいかもしれない。初期未来派のミラノ・グループの中では、ボッチョーニが実践においても理論においても先頭を切っていたと言わねばならないだろう。「形而上絵画」への彼の参加は、野戦病院への入院中に知り合ったジョルジョ・デ=キリコ(1888−1978)との交流がきっかけだが、この時期のカッラの作品はデ=キリコに近づきすぎ、作者の見分けがつきにくいものも存在する。「公共芸術」への関心は、彼を「壁画宣言」(1933)の4人の共同署名者のひとりとしたが、結局この分野で最も大きな仕事をしたと現在でも認められているのは、宣言の仲間でかつてはカッラと一緒に未来派に属していたマリオ・シローニ(1885−1961)であった。「どこにいても2・3番手」などとは言わないが、「代表的な存在を一人だけ挙げるとしたら」と聞かれる際には、陰に隠れがちな存在ではある。

ともあれ、未来派の時期において、カッラの一番「未来派らしい」作品はと問われれば、図1の《参戦主義者のデモンストレーション》が挙げられるであろう。印刷物や書き文字のキュビスム的コラージュが、リズムある彩色とともに渦へ吸い込まれるような(そして第一次世界大戦へイタリアが進むべきという現実政治への熱情を示唆する)画面は、彼の未来派としての最終段階を示すものでもある。その一方で、未来派の時期において、一番「カッラらしい」と個人的に思えるのは《同時性:バルコニーの女性》【図5】である。バルコニーに女性という取り合わせは、同時期のボッチョーニも《物質》(1912年、ジャンニ・マッティオーリ・コレクション)に代表される一連の作品で使ったモチーフだが、ボッチョーニの作品が《物質》で描いたのは、中心に座るモデルではなく、人物や事物の形態や光と色彩が相互浸透することで発生する、力の場そのものと言ってよい。一方でバッラの《同時性》は、ボッチョーニのようにキュビスムを是が非でも飛び越えるという熱情を直接には出さない。形態の処理はキュビスムの語法を噛みしめつつも、人物像は画面の右上の空間へと広がって浸透していくとともに、白色を前面に押し出した色彩により、光の晴明さと軽快さを伴っている。「立体未来派」としての折衷性を感じる向きもあろうが、当時のフランスの最新の動向に対する、イタリアからの一つの堅実な独自の美を有していると私は思う。「未来派のおかげで近代美術は、単なる秘密裏の恋愛や、単なるアカデミスムに対する反動ではなく、新しいイタリアの国民的課題の一つとなったのだ」と、かつて自分が属した運動のメリットについて語ったこの芸術家にとって、その時代は実り多い「よりみち」であったに違いない【注4】。

図5:カッラ《同時性:バルコニーの女性》図5:カッラ《同時性:バルコニーの女性Simultaneità: La donna al balcone》、1912年(キャンバスに油彩、147×133cm、個人蔵)
※Otto Didier (a cura di), Futurismo: avanguardia-avanguardie, Milano: 5 continente, 2009より。

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注1:この期間は、カッラが還暦を過ぎて公刊した自伝『わが生涯La mia vita』(初版1943年、現在はAbscondita出版が再刊)で、自ら規定しているものである。画集などで造形言語の変化を編年的に追ってみると、確かに彼の絵画に現れる「未来派時代」はこの年月に収まっている。ただし、同時代の彼の文章や展覧会カタログを見ていると、1917年の個展の際にもなお「独立未来派」と自称したりしているなど、彼の芸術運動圏内からの精神的(全面的)離脱には、表現におけるそれと一定のずれがあったらしいことには注意したい。

注2:最も早い時期に、未来派としてのカッラに最初に注目した外国人としては、ベルリンのシュトルム画廊でその作品を見たパウル・クレーの名がしばしば挙げられる。彼は1912年の日記(画廊を訪問した記録/編集番号914)と1913年のそれ(現代芸術についての考察/編集番号916)で、二回にわたって未来派へ好意的な記述を残し、特に後者では2才年下のカッラに「偉大な才能」を認めている。さらにクレーは、カッラの作品が「ティントレットないしはドラクロワを思い起こさせる」上に、ボッチョーニとセヴェリーニと比べても「古い巨匠たちの作品により近い」由を述べているが、このあたりは後のカッラの「古典」への展開を予測しているようで興味深い。

ところで、日本で出版されている『クレーの日記』には、クレーの息子フェリックスが編集したものに基づく旧版(南原実訳、新潮社、1961年)と、近年のより学術的な校訂に基づく新版(高橋文子訳、みすず書房、2009年)があるが、未来派に関する言及部分に限って言うと、むしろ新訳の方がおぼつかない。1912年の本文と索引の両方では、セヴェリーニを「セルヴィーニ」と誤記されている上に、索引に登場する4人の未来派画家のいずれの項目においては、編集番号916への指示が抜け落ちてしまっている。これらはイタリア研究者のみならず、誰もが遺憾とするところであろう。

注3:カッラの息子マッシモは美術批評の世界に入り、父の「絵画作品全集」など様々な画集や資料の編纂を手がけた。Massimo Carrà (a cura di), Carrà: tutta l'opera pittorica, (3 vol)., Milano: Edizioni dell'Annunciata, 1967-1968.

注4:カッラは『わが生涯』の執筆以前にも、ミラノの新聞『ランブロジアーノ』で20年近くにわたり芸術批評の連載を持つなど、文筆活動にも熱心であった。現代の研究者は、特に彼の未来派からの離脱について考察する際、同時期に書かれたジョットやウッチェッロなど初期ルネサンスの画家についての文章を重視するが、フォンタネージやドランといった近代・同時代の芸術家について残された論考も少なくない。主要なものはMassimo Carrà (a cura di), Carlo Carrà: tutti gli scritti, Milano: Feltrinelli, 1978にまとまっている。

おおた たけと

太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は偶数月の12日に掲載します。次回は2021年10月12日の予定です。

■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・慶応義塾大学などで非常勤講師。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com

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