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大谷省吾のエッセイ「野田英夫展によせて」
第2回 野田英夫展によせて(2)  2011年4月14日
 野田英夫といっても、今日どれだけの知名度があるだろうか。東京国立近代美術館では、代表作《帰路》(1935年)、《サーカス》(1937年)を所蔵し、ほぼ常にどちらかは所蔵作品展で展示している。国吉康雄や石垣栄太郎らとともに「アメリカン・シーンの日本人画家」として欠かせない存在である。しかし、若くして(30歳!)世を去ったこともあり、残された野田の作品は少ない。野田の両親の郷里である熊本の県立美術館にはある程度収蔵されているが、そのほかには横浜美術館や桐生の大川美術館など、ごくわずか。以前は窪島誠一郎氏が熱心に調査と収集を行い、信濃デッサン館にまとまったコレクションがあったが、近年、散逸してしまった。このような状況では、多くの人々にとって、それほど馴染みのある画家とはいえないだろう。しかし、その重要性はいくら強調しても、しすぎることはない。まずは簡単に、その短い生涯を駆け足でたどることにしよう。
 野田英夫は1908(明治41)年に、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタクララに、熊本から移民として渡っていた野田栄太郎、セキの子として生まれた。教育は日本で受けさせることを両親は望み、英夫は3歳から中学卒業まで、熊本の叔父に預けられる。熊本中学を卒業後、渡米しオークランド郊外のピドモント・ハイスクールに入学。画家を志し、1929(昭和4)年カリフォルニア美術学校に入学、1931年にはニューヨークに移り、近郊に位置するウッドストックの芸術家村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏期学校に通う。ここで指導していたジョン・スローン、ジョージ・グロス、国吉康雄らを知ることになる。また、この地でルース・ケルツと出会い、結婚する。その後、32年ウッドストック美術協会賞、33年サンフランシスコ美術協会展マリア・ストーン賞、そして34年ホイットニー美術館全米美術展での入賞、買い上げなど、1930年代前半に野田は次第に頭角を現すが、そうした個人での活動以上に、その後の野田の歩みに大きな指針を与えたのが、1933年に、ディエゴ・リベラによるロックフェラー・センター壁画制作の助手を務めた経験であろう。野田自身も、34年の《移民》(ニューヨーク、シビックセンター、現存せず)をはじめ、生涯のうちにいくつかの壁画を制作している。
 こうしたアメリカでの着実な歩みの一方、野田は1934年に日本を訪れ、翌35年の二科展に《帰路》《夢》を出品して注目を浴び、いったんアメリカに戻るものの1936年には再び来日して新制作派協会の会員となり、翌37年には銀座のバー「コットン・クラブ」に寺田竹雄と壁画を共同制作するなど、精力的な活動を始める。しかし38年の夏より眼の変調を訴え、1939(昭和14)年1月12日、脳腫瘍により急逝した。
 この短い経歴からは、将来を嘱望されつつ夭折した、未完の芸術家というイメージしか読み取れないかもしれないが、しかし先述した国吉康雄などアメリカン・シーンの日本人画家たちの中でも、社会意識と表現との関係を考える上で、野田は最も興味深い存在といえるだろう。次回は、彼がその社会意識をどのように表現しようとしたか、文章と作品から具体的に見てみたいと思う。
(おおたにしょうご)

■大谷省吾 Shogo OHTANI
1969年生まれ。筑波大学卒、同大学院博士課程中退。東京国立近代美術館主任研究員。シュルレアリスムを中心とした西洋の前衛美術が、日本にどのように紹介され、展開したかという問題について研究。
これまで手がけた東京国立近代美術館での主な展覧会は、1997年「北脇昇展」、2003年「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画展」、2007年「靉光展」、2009年「河口龍夫展」、2010年「麻生三郎展」、現在開催中の「岡本太郎展」など。

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