植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」 第18回 「生誕100年記念 瑛九展」 2011年11月3日 |
「生誕100年記念 瑛九展」
会期:2011年9月10日(土)―11月6日(日) 会場:埼玉県立近代美術館、うらわ美術館 これまでに見た回顧展や作品集では知らなかったこと気がつかなかったことがずいぶんあった。 瑛九が本気のエスペランチストだったなんて知らなかった。 「もう一度、印象派からやり直さなければ」と言っていたという、1943-46年頃の「印象派風の点描による」油絵がじつにチャーミングであることもはじめて知った。 尨大なフォト・デッサン、リトグラフ、エッチング、街の光景とも色彩の流れとも見える具象と抽象の合い間を行き交う構図から、光の小石の集まり、さらには光そのものを描く大画面までの油絵―つまり私の知っていた限り、瑛九の魅力のすべてと受けとめていた作品群がほぼ1950年以降、すなわち最晩年の10年間につくられたことに気がついたときは唖然とした。加えて文筆活動でもたいへんな量の10年間である。「日本の普通の画家の五倍もの仕事をしている」と夫人が証言されているが、それ以上かもしれない。仮りに瑛九が100歳をこえた2011年の今、まだ健在で光の粒子が輝く油彩に取り組みはじめたと聞いても、そのほうが自然に思えるくらいだ。 もちろん量ばかりではなく、その内容も当然、まるで現在いやその先を描いているからこそ、私はひたすら瑛九が好きですと言えるにちがいない。2会場では「瑛九をめぐる8つのトピック」に構成されているので、その全体像がこれまでになくよく理解できたのだが、いっぷう変わったデザインの図録も展示構成を忠実に反映していて、いざ読みはじめてみるととても具合がいいのだった。会場の作品の多くには小さな解説がついていて、その的確な表現には各トピックの解説と同じくらいに感心してしまったのだが、それまでも図録にちゃんと収録されている。さらに巻末には1925-59年の油彩画カタログレゾネが付いている。今年6月までの調査で確認できた41点を加えた計555点の最新資料で、ここからもいろいろなことが読み取れる。用意周到なのだ。この回顧展の現在性と、関わった人々の熱意が否応なく迫ってくる。 協力者リストには当然ながら綿貫不二夫の名も入っている。その「ときの忘れもの」でも時期を合わせて(9月9日―17日)フォト・デッサンのためにつくられた型紙46点の展示が行われた。作品全体の構図がそのまま残されたものも、数センチていどの断片(机らしきものとか人魚とか象とかの)もそれぞれきちんと額装されているのを見ると、どんなに小さなものにも「瑛九」がちゃんと封じ込まれているのにあらためて驚かされる。 私が最初にこの作家を知ったのは、そしてたちまち魅せられたのは、何点かのエッチングで、都会風の道路や建物、そして人々というより男と女とが他に例がないほどはっきりしているのだけれど、それが首だけだったり合体したり、そこに猫だか馬だか人間だかが一緒になったり離れたりという、シュルレアルだけれどリリカルで、ノスタルジックでさえあるのだった。その後、油彩による点描の崇高とさえいえる圧倒的な大画面に接して、これが瑛九がさいごに辿りついた世界なのかと思ったとき、上記のエッチングはその過渡期の作品とも見えたのだが、今回彼の全貌を多角的に見せる埼玉2館と東京・南青山の展示に強く印象づけられたのは、瑛九のエッチングやリトグラフ、またフォト・デッサンを支配しているリリシズムやノスタルジーは過渡期的な小ささでは全然ないということである。たとえば彼の描く「窓」の底知れない現実感すなわち夢の正確無比の表現。彼が強い影響を受けたという(図録参照)、長谷川三郎、古賀春江、パウル・クレーの作品にも窓あるいは窓らしきものがある。しかし瑛九の窓はいっそう「窓」の本質をストレートに問ういているように思える。窓ごしに見える男と女、天井から下げられた照明器具、街を歩いていてちらっと見えたリリカルでノスタルジックで私的な小さな世界と、大きくて自然そのものと同化しながら自然の美の構造をラディカルに全開する世界とが同質に見えてくるのだ。彼がもう少し長く生きていれば、到達点と思えた光と色彩の粒子をくぐり抜けてまた別のものに遭遇したにちがいない。それが再び具象のイメージに戻るとは思えない。予想を裏切る、別のもの。 たとえば草間彌生の点描と瑛九の点描とを並べる企画展ができたらと思う。点のひとつひとつが自立完結し、集まった全体が生命を得て動き出すような草間の点描の強靭さにたいして、何かを探り求めるような、多分それ故にあまりにも美しい瑛九の点描は、ある意味で「弱い」。その弱さのなかにこそ成長しつづける永続性と尽きせぬ魅力がある。たとえば《背中合せ》(1952 エッチング)のような愛すべき作品を見ながら、抽象と具象といった区別から逃がれて、ついには地上に在ることの歓びを教える、終始一貫して同じ瑛九が現れてくる瞬間を待つ気持ちに私はなっている。 (2011.11.1 うえだ まこと) ■植田実 Makoto UYEDA 1935年東京生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学専攻卒業。『建築』編集スタッフ、その後、月刊『都市住宅』編集長、『GA HOUSES』編集長などを経て、現在フリーの編集者。住まいの図書館編集長、東京藝術大学美術学科建築科講師。著書に『ジャパン・ハウスー打放しコンクリート住宅の現在』(写真・下村純一、グラフィック社1988)、『真夜中の家ー絵本空間論』(住まいの図書館出版局1989)、『住宅という場所で』(共著、TOTO出版2000)、『アパートメントー世界の夢の集合住宅』(写真・平地勲、平凡社コロナ・ブックス2003)、『集合住宅物語』(写真・鬼海弘雄、みすず書房2004)、『植田実の編集現場ー建築を伝えるということ』(共著、ラトルズ2005)、『建築家 五十嵐正ー帯広で五百の建築をつくった』(写真・藤塚光政、西田書店2007)、『都市住宅クロニクル』全2巻(みすず書房2007)ほか。1971年度ADC(東京アートディレクターズクラブ)賞受賞、2003年度日本建築学会文化賞受賞。磯崎新画文集『百二十の見えない都市』(ときの忘れもの1998〜)に企画編集として参加。 「植田実のエッセイ」バックナンバー 植田実のページへ |
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