ときの忘れもの 今月のお勧め
■2009年03月24日(火)  菅井汲「赤い太陽」
nicky_20090324.jpg 616×1032 89K「赤い太陽」
1976年
マルチプル(アクリル+シルクスクリーン)
刷り:石田了一
10.0×7.0×2.0cm
Ed.150
ケースに作家直筆サインあり

1976年、フランスでは既に大作家としての評価でマルチプルも作っていましたが、菅井汲が日本で初めて手がけた立体作品です。日本ではまだマルチプルという言葉が市民権をもたず、オブジェを楽しむという時代ではありませんでしたが、さすが世界のスガイだけあって、時代に先駆けていました。実にチャーミングな作品です。保存状態も完璧です。

菅井汲 Kumi SUGAI(1919-1996)
1919年神戸市生まれ。本名・菅井貞三。阪急電鉄でデザイナーとして活躍、プロ野球の阪急ブレ−ブスのマークなどを制作。中村貞以に日本画を学ぶが52年渡仏、渡仏間もないクラヴェン画廊での個展が大きな反響を呼び、たちまちパリ美術界のスターとなる。55年から版画制作を開始、生涯に約400点を制作。59年リュブリアナ国際版画展、65年サンパウロ・ビエンナーレ最優秀賞など数多くの国際展で受賞。96年永逝(享年77)。


■2009年03月17日(火)  根岸文子「FUUN YUUSHI(浮雲遊子)」
nicky_20090317.jpg 791×283 72K「FUUN YUUSHI(浮雲遊子)」
2008年
板・アクリル
130.0×388.0cm

根岸文子さんが「VOCA展2009」に推薦されました。こちらは出展作品です。李白の詩から取った「FUUN YUUSHI(浮雲遊子)」というタイトルの130x388cmの大作で、4枚の板から成っています。制作する時は場所の制約から3枚しか並べることが出来ず、ずらしながらの制作だったそうですが、実際にはこの4枚はそれぞれ1枚ずつでも作品として成り立つようになっています。そして、4枚続きと言っても厳密に絵が連続していないというのが根岸さんらしいところです。
近年の作品と共通のモチーフで、抽象的風景画とも言うべきものです。今までと大きさは全く違うのに、実に自然に大きさに対応していて、絵の緊張感を保っています。

根岸文子 Fumiko NEGISHI(1970-)
1970年東京生まれ。1993年女子美術大学絵画科版画コース卒業後、単身スペインに渡り、スペイン美術大学の版画工房で学ぶ。スペイン国内版画展で新人賞、モハカ絵画奨学コース(スペイン)等を受ける。99,01,04年ときの忘れもので個展。02年エガン画廊(マドリッド)で個展、またマドリッド国際アートフェアに同画廊より出展、GENERACION 2002,2005グループ展に参加(カッハマドリッド)。06年ギャラリーすどうで二人展開催。

「鏡の向こうのもう一つの世界というか、存在するのに、気がつかない向こう側の様なものを、イメージに作品に取り組んでいます。今思うと、地中海文化に接する事が、極東文化圏の私には、もう一つの向こう側を探すきっかけになったような気がします。」と、根岸さんは言います。現在、油彩・版画の制作に打ち込み、ユーモアに溢れ、スペインの明るい風に吹かれるような作品を生み出しています。

■2009年03月03日(火)  ジャン=ミシェル・フォロン「ニューヨークの雨No.2(カミュの小説挿絵)」
nicky_20090303.jpg 480×599 86K「ニューヨークの雨No.2(カミュの小説挿絵)」
1984年
エッチング・アクアチント
イメージサイズ:37.8×29.8cm
シートサイズ:65.0×51.0cm
Ed.99
サインあり


いつか機会があれば訪ねてみたい美術館がある。
ベルギーのブリュッセルからタクシーで行くしかないようだが、2003年に開館したフォロン財団ミュージアムである。ジャン=ミシェル・フォロンは、幼少のある時期をこの近くのジャンバル湖畔で暮らした。フォロンにとって特別な思い入れのある土地であり、美しい自然に囲まれた城の建物は、1833年にCluysenaar(ブリュッセルの有名なガルリ・サン・チュベールを設計した建築家)の設計で完成したもので、リニューアルにあたっては建築当時の外観を忠実に再現したという。

フォロンは、私が仕事をした作家で遂に会うことのできなかった一人である。
フォロンのなんともいえない暖かく柔らかな色彩とタッチは、詩と夢の旅と評される独特の幻想的な世界を確立した。
オリベッティ社のポスターはCM界で一時代を画したといっても過言ではないだろう。

私は1980年代後半の数年間、フランス人経営の会社に勤めていた。つまり美術業界から離れていた期間だが、某印刷会社の依頼で海外作家によるポスターやカレンダーの制作に携わっていた。通常の著作権事務所を通していてはらちのあかない難しい作家が何人もおり、そういう作家たちを直接アタックして著作権許諾のOKをとる仕事だった。
某社のウォーホルのカレンダーのときはニューヨークの主なきウォーホル・スタジオを再訪した。まさかあんなに早く逝ってしまうとは思いもかけなかったが、春休み中の息子たちを同道できた嬉しい旅だった。
大阪の花博の公式ポスターのときは、デイヴィッド・ホックニーを追いかけてニューヨークからある港町の博物館までリムジンを飛ばし、ホックニー展のオープニングで彼を捕まえたのだった。
某化粧品メーカーのカレンダーでは、周囲の忠告に従い美人スタッフを連れてパリのカシニョールのアトリエを訪ねた(私があのカシニョールを口説いたなんて、自分でも信じられない)。
そして某金融機関のカレンダーでフォロンの作品を使うことになり、その承諾を取るために悪戦苦闘した。手紙しか連絡手段がなく、電話は全くつながらず、本人を捕まえられないのである。パリの彼のアトリエをアタックするのだが不在ばかり、スイスやモナコなど探し回るのだが、とうとう会うことはできなかった。私の助手をしていたNさんの奮闘で、手紙のやりとりでやっと許諾はとれ、めでたくカレンダーは制作された。フォロンにいつか会ってお礼を言いたかったのだが、白血病で2005年に亡くなってしまった・・・


ジャン=ミシェル・フォロン Jean=Michel FOLON(1934-2005)
1934年ベルギーのブリュッセル生まれ。はじめ建築を学ぶが絵画に転じ、1955年パリへ移住。不遇な時代を過ごすが、1964年パリのミュグル書店でデッサン展、1965年「第3回美術の中のユーモア・トリエンナーレ」の大賞受賞が契機となり世界各地で展覧会が開催される。オリベッティ社のポスターはじめ、雑誌「タイムズ」「フォーチュン」「ニューヨーカー」誌などが彼のデッサンを掲載。アポリネール、カフカ、カミュの本の挿絵など多くのイラストを手掛ける。1969年ニューヨークで初めて個展。1970年日本でも展覧会が開催される。1971年パリ装飾美術館で個展開催。第12回サンパウロ・ビエンナーレでグランプリを受賞。1982年サッカーワールドカップのポスター制作。 1985年回顧展のために来日。1990年ニューヨークのメトロポリタン美術館で水彩と版画の展覧会が開催される。アニメーションや映画制作にも携わる。2000年には自らフォロン財団を設立した。子供たちへの芸術教育活動や、身障者など社会福祉への貢献が高く評価され、2003年ベルギーのユニセフ国内大使に任命されるが、2005年10月白血病によりモナコに死す。

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