ときの忘れもの 今月のお勧め
■2013年06月30日(日)  北川民次「男」
tamiji_06.jpg 422×600 60K北川民次

1934年
素描
46.5×34.0cm
サインあり

北川民次を知る人は先ずメキシコを思い浮かべるでしょう。
1914年、北川はアメリカのオレゴン州在住の兄を頼り渡米します。ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグの夜学に通い、ジョン・スローンに師事、学友には国吉康雄がいました。その後1921年にメキシコに渡り、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ディエゴ・リベラらと交友を持ち、メキシコ革命を標榜する彼らの壁画運動に影響を受けます。北川は革命後の美術を民衆のものにすることを目指した野外美術学校の教師として活動し、メキシコの児童画に取り組むなかで、アカデミックな美術概念から開放された独自の作風を形成します。
この作品は北川が日本に帰国する2年前に描かれました。穏やかな男の表情が印象的です。ところどころ太く引いた線は流動的で、すこし丸まった背中や足に手を掛けているポーズなどからリラックスしているように感じます。メキシコで一人の生活者として日々を送り絵を描いていた北川だからこそ、何気ない人々の一瞬を捉えることが出来たのでしょう。

北川民次 Tamiji KITAGAWA(1894-1989)
1894年静岡県生まれ。早 稲田大学を中退して1914(大正3)年渡米。ニューヨークのアート・スチューデ ンツ・リーグでジョン・スローンに師事、学友に国吉康雄がいた。1923(大正 12)年メキシコに渡り、シケイロス、リベラ等と交友、メキシコ・ルネサンス を標榜する壁画運動に賛同、またメキシコ郊外のトラルパムで児童美術教育に携わる。1931(昭和6)年タスコに野外美術学校を移して校長となる。1936(昭和 11)年帰国。翌年の第29回二科展に《タスコの祭》ほかを出品し注目を浴びる。
メキシコの風土や人々を描く独特の画風は多くのファンを集め、二科展、日本国際美術展で活躍した。1979(昭和53)年二科会会長となるも同会を退会、以後、悠々自適の生活を送り、明治、大正、昭和、平成の四代を見事に生き抜き、1989年瀬戸で歿した。
まさに大人の風格をもった作家でした。生涯に400点近い版画を制作しています。

■2013年06月20日(木)  ベン・ニコルソン「柱と木」
nicholson_03_column_and_tree.jpg 412×600 67Kベン・ニコルソン
柱と木
1967年
エッチング
29.5×20.7cm
Ed.50
サインあり

縦長の画面に簡潔な線で描かれているモチーフ。
右側の木はともかく、真ん中の大きなモチーフは、タイトルを見て柱であることに気がつきます。
背景はなく、色や細部よりもそのものが持つ形に興味があったように思えます。
白い画面に引かれた黒い線は、ニコルソンの代表作であるホワイトレリーフで表現された陰影のリズムにも通じるものがあるように感じられます。

ベン・ニコルソンは1894年イギリスに生まれ、ロンドンのスレード美術学校で学びます。画家である父親ウィリアムの影響から重厚なリアリズム作品を出発点とし、1920年代には静物画や風景画をおもに描いていました。
やがてパリでジョルジュ・ブラックらに出会い、モンドリアンやドローネーらが名を連ねていた「アブストラクション・クレアション」(抽象=創造)に参加。これを契機にヘンリー・ムーアらと共に、抽象芸術グループ「ユニット・ワン」を結成し、イギリスに本格的な抽象美術の土壌を築きました。
1930年代末から戦後にかけてはセント・アイヴスで抽象化の進んだ静物画や風景画を描き、1950年代後半からはスイスで暮らし、生涯精力的に創作活動を続けました。

リアリズムから出発し、具象と抽象の間を揺れ動きながらその繊細な接点を探求し続けたニコルソンの作品は、シンプルでありながらも観る者の感性にリズムを響かせてくれます。

ベン・ニコルソン Ben NICHOLSON(1894-1982)
1894年、イギリスのバッキンガムシャー生まれ。両親が画家であった。 ロンドンのスレード美術学校で学んだあと、ヨーロッパ諸国やアメリカ各地を旅し、第一次大戦後もロンドンとパリを往復し、アルプ、ミロ、モンドリアンと出会う。 1933年からグループ「ユニット・ワン」に参加していたが、モンドリアンに出会うことで、抽象的構成主義への傾向が確固なものとなる。
1937年にはナウム・ガポらとともに「サークル」を出版し、イギリスに構成主義美術を広げた。抽象作品については、白い彫刻レリーフなど、幾何学的抽象作品を制作した。単なる絵画にとどまらず、彫刻的な要素をたぶんに含む作品が多く、しかも、白や淡い色のものなど、色彩が抑えられている作品が多い。1982年、歿。

■2013年06月10日(月)  ウィン・バロック「Navigation Without Numbers」
bullock_03_navigation-without-numbers.jpg 600×480 73Kウィン・バロック
Navigation Without Numbers
1957年
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:17.8×23.0cm
台紙サイズ:33.5×38.0cm
サインあり

ウィン・バロックの写真家としてのデビューは遅く、その人生はまさに「スクラップ&ビルド」でした。最初テノール歌手としてブロードウェイで活躍しますが、声楽を学ぼうと留学したパリで、好評を得ながらも限界を感じて歌手を止めてしまいます。そこでカメラを手にして写真を撮り始めますが、次にした仕事は不動産の管理です。それもうまく行ったところで人に任せて法律学校に入学します。しかし、バロックはいずれの学校にもなじむことができなかったようで、数ヶ月で法律学校をやめて写真の学校に移りますが、ここも卒業せずに中退しました。その後、陸軍に従軍したり絵葉書の制作などしながら、ソラリゼーションなどの実験的な技法を研究しますが、1948年にエドワード・ウエストンに出会うと、今までのものをあっさり放棄して、ストレートフォトで自然と人間との対比と融合を撮るようになります。1960年頃には、カラーによる抽象作品を制作し始めるなど、次々と新たな領域に踏み込んで行きました。

ウィン・バロック Wynn BULLOCK(1902-1975)
1902年アメリカ生まれ。コロンビア大学、ウエスト・バージニア大学で音楽を学び、プロのテノール歌手としてブロードウェイで4年間活躍。その後留学したパリで、印象派絵画やモホリ・ナジ、マン・レイなどの写真に触れ、視覚芸術に興味を抱くようになる。この頃、カメラを購入し写真を撮り始める。パリでの舞台デビューでは好評を得ながらも声の限界を感じるようになり、1930年アメリカに帰国。これを機に本格的に写真表現に傾倒していき、写真を学ぶため36歳にしてロサンジェルス・アート・センターに入学。
絵画の影響を受けていたこともあり、ストレートな写真よりもソラリゼーションなどの実験的技法に没頭する。1941年卒業、商業写真で生計を立てる。1948年エドワード・ウェストンと出会い、暗室作業での操作を排しシンプルかつダイレクトに世界と向き合う彼に強い影響を受ける。その後バロックはそれまでの実験的な作品をやめ、森や海などの自然や、その自然の中に幼い少女や女性のヌードを配した写真を多く撮影する。代表作、「森の中の子供」「そこに光あれ」など。1975年、歿。

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