ときの忘れもの 今月のお勧め
■2010年05月30日(日)  ニキ・ド・サンファル「Nana Power 52 You Made Me Discover」
nicky_20100530.jpg 448×600 70Kニキ・ド・サンファル
「Nana Power 52 You Made Me Discover」
1970年
スクリーンプリント
イメージサイズ:67.7×48.6cm
シートサイズ:75.8×56.0cm
Ed.115
サインあり

今週のお勧めはニキ・ド・サンファルの版画作品です。
昔、上野に「スペース ニキ」というニキ・ド・サンファルの作品を扱うギャラリーがありました。ニキにほれこんだ増田静江さんが主宰者で、増田さんのコレクションをもとに1994年、那須にオープンしたのがニキ美術館でした。
那須の北温泉に向けて登っていく途中にある、緑が鬱蒼と繁る敷地にユニークな建物が点在する美術館でした。
私たちは露天風呂愛好会の例会で那須のあたりをうろうろしたことがあるのですが、そのときニキ美術館に入り、感激したのを覚えています。ニキの彫刻の前にたくさんのお賽銭がおかれていたのには笑ってしまいましたが。
ニキ美術館は那須にあまたある有象無象の美術館の中では出色の美術館でした。
しかし、増田さんが亡くなり、閉館になってしまいました。
残念に思っていましたが、「期間限定で再開」(一時開館)するとのことですので、ニキのファンの方、お見逃しなく。

ニキ美術館
http://www.niki-museum.jp/frame4.htm
  〒325-0301栃木県那須郡那須町湯本203
   tel 0287-76-2322 fax 0287-76-4622
2010年7月1日(木)〜8月31日(火)まで 期間限定オープン

ニキ・ド・サンファル Niki de SAINTPHALLE(1930-2002)
1930年パリに生まれる。アメリカへ移住し、1947年からモデルとして活動、数々のファッション誌の表紙を飾る。1952年パリに転居し、演劇学校に入学。神経衰弱に陥り、精神医療の一環として絵を描き始め、芸術家を志す。1961年絵の具を詰めた物を埋め込んだ石膏レリーフを銃で撃ち、弾丸が当たれば絵の具が飛び散るという最初の射撃セッションで一躍注目を浴び、ヌーヴォー・レアリスムのメンバーとして招かれる。射撃絵画を2年で中止し、1963年に「出産する女」「娼婦」「魔女」「花嫁」といった女性像をテーマとした作品シリーズを制作。
1965年友人の妊娠からインスパイヤーされ、毛糸と紙張子で、後にニキの作品の代名詞となる最初の〈ナナ〉を制作。1971年にティンゲリーと結婚。1994年ニキのコレクターYoko増田静江が、那須高原にニキ美術館を開館。1978年タロットカードをモチーフとした作品を配した彫刻庭園《タロット・ガーデン》の建設に着手し、20年の歳月をかけてイタリアのトスカーナに完成させる。1998年初来日。2000年高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門を受賞。2002年永逝(享年71)。

■2010年05月20日(木)  ジャン・ティンゲリー「エッフェル塔へのオマージュ」
nicky_20100520.jpg 576×426 127Kジャン・ティンゲリー
「エッフェル塔へのオマージュ」
1989年
リトグラフ
56.0×76.0cm
Ed.150
サインあり

今週のお勧めは、廃物を利用して機械のように動く彫刻を制作し、キネティック・アート(動く美術作品)の代表的作家であるジャン・ティンゲリーのリトグラフです。
亭主がパリに初めて行ったのは1988年頃だったと思いますが、ポンピドゥ・センターではティンゲリーの巨大な作品が展示されていました。
当時、破産後の借金返済を生き甲斐にフランス人のボスの会社につとめ、パリとの間を往復していました。フランス語どころか英語もしゃべれない亭主がまあよくもフランス人相手に仕事をできたものです。
ちょうどエッフェル塔が100周年を迎えるのにあわせて、群馬県立近代美術館、東京ステーション・ギャラリーなどを巡回した『エッフェル塔 100年のメッセージ【建築・ファッション・絵画】』展の企画、図録編集に追われていました。ポンピドゥ・センターはじめフランスの美術館と出品交渉を重ね、エッフェル塔にはフリーパスをもらい何度も通いました。
この展覧会のために、ジャン・ティンゲリー、エドゥアルド・アロヨ、ヴァレーリオ・アダミ、フェルナンデス・アルマン、セザールの5人の現代作家に「エッフェル塔へのオマージュ」作品をリトグラフで制作してもらったのも、今となっては懐かしい思い出です。

ジャン・ティンゲリー Jean TINGUELY(1925-1991)
1925年生まれ。スイスの画家、彫刻家。廃物を利用して機械のように動く彫刻を制作、キネティック・アートの代表的な作家である。ダダイスムの影響を濃く受け、第二次世界大戦後のフランスで誕生した美術運動、ヌーヴォー・レアリスムのメンバーでもあった。1950年代半ば以降はパリで活動し、イヴ・クラインやニキ・ド・サンファルらの美術家たちと知り合う。1960年にはヌーヴォー・レアリスムの結成に関わり、ニューヨーク近代美術館で開催された展覧会では不器用に動いて音を立て最後は自ら炎上して崩壊する巨大な機械『ニューヨーク賛歌』を出展した。
1971年にニキ・ド・サンファルと結婚。1977年にはバーゼルに『噴水の劇場』(ティンゲリーの噴水)を制作。1982年にはポンピドゥー・センターに隣接するストラヴィンスキー広場に、『自動人形の噴水』をニキ・ド・サンファルと共同制作した。1984年高輪美術館(後のセゾン現代美術館)から『地獄の首都 No.1』を制作依頼され、来日している。没後1996年にはバーゼルにマリオ・ボッタの設計で「ティンゲリー美術館」が開館した。1991年、歿。

■2010年05月10日(月)  眠り続ける磯辺行久コレクション
nicky_20100510.jpg 464×600 85K「マリンタワー」
1968年
スクリーンプリント
イメージサイズ:45.2×27.6cm
シートサイズ:55.7×43.3cm
Ed.70
サインあり

ときの忘れものが瑛九をずっと追いかけていることは皆さんご承知の通りですが、半世紀前に瑛九の周囲に集まった若い作家たちー池田満寿夫、靉嘔、細江英公、河原温、そして磯辺行久ーの今日の評価を思うと、いまさらのように瑛九の魅力と天才を感じます。
中でも磯辺さんは、ワッペンや、古箪笥を使ったオブジェなどを短期間に精力的に発表し、60年代の日本のポップアートの先駆として注目を浴びます。66年渡米、建築や都市計画に関心を移し、アメリカと日本でエコロジカル・プランニングを手掛け、70年代には美術界から全く離れてしまいます。
ちょうどその頃美術界に入った亭主にとっては磯辺さんは既に伝説の人でしたが、なぜか作品だけはたくさんありました(もちろん今も)。
亭主が主宰した現代版画センターは、久保貞次郎先生が主唱し、1960年代に尾崎正教先生たちが活発に繰りひろげたた小コレクター運動の遺産を引き継ぐような形でスタートしたものですから、彼らが支持した瑛九、北川民次、オノサト・トシノブ、池田満寿夫、靉嘔、そして磯辺行久などの作品が、右も左もわからない亭主の周辺にごまんとあふれていたわけです。
磯辺さんはその中でも異色の作家でしたが、1991年目黒区美術館で個展を開催して、再び美術家として制作活動を再開されました。
東京都現代美術館で2007年7月28日(土)〜9月30日に開催された回顧展で磯辺さんの先駆性をあらためて感じたのは亭主ばかりではないでしょう。

先日、倉庫をひっくりかえして磯辺行久さんの作品を探索しました。
その一部をホームページの磯辺行久のコーナーに掲載しましたが、それらは半世紀たった今も古びていません。
1968年に集中して制作された版画は、久保貞次郎先生と尾崎正教先生が版元となり、岡部徳三さんがプリンターとして完成させましたが、いかんせん時代が早すぎた。中には限定10部などというレアなものもありますが、40年以上経ったいまでも新品のままときの忘れものの倉庫に眠っています。

磯辺行久 Yukihisa ISOBE(1936-)
1936年東京生まれ。高校時代に、瑛九らのデモクラート美術家協会に入会、リトグラフの制作を始める。59年東京芸術大学絵画科卒業。62年読売アンデパンダン展にワッペンを連ねたレリーフ作品を出品し注目を集める。63年日本国際美術展で優秀賞を受賞。66年渡米、建築や都市計画に関心を移し、アメリカと日本でエコロジカル・プランニングを手掛ける。91年目黒区美術館で個展開催。再び美術家として制作活動を再開した。

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