ときの忘れもの 今月のお勧め
■2011年06月30日(木)  海老原喜之助「馬と少年」
nicky_20110630.JPG 401×600 51K海老原喜之助
「馬と少年」
1954年
リトグラフ
55.5x36.5cm
Ed.100
サインあり

今週のお勧めは、海老原喜之助「馬と少年」です。
よく聞かれますが、多くの方は作家は死ぬと作品が値上がりすると思っているようです。
これは間違い。亡くなると99%、市場価格は下がります。横山大観でも棟方志功でも没後、一旦は下がりました。よく考えれば当然のことで、有名(人気)作家ほど生前は多くのファンや支持者に囲まれ、生身のからだからはオーラを放っている。作品と人間の魅力が一体となって市場価格を押し上げている。ところが亡くなると、「絵以外」の要素がなくなります。
残されたのは「作品」のみ。フェルメールのように何百年か経て復活する場合もありますが、ほとんどが歴史の波間に消えて行きます。
海老原喜之助は生前は独立美術協会のボスとして人気抜群でした。かたや弟子の坂本善三は地味でローカルな(熊本在住)作家と思われていた。没後の評価の逆転(あくまで現時点ですが)は劇的ですらあります。
「馬」といえば海老原。1954年頃に集中して14点のリトグラフを制作していますが、中でもこの「馬と少年」は版画史に残る名作でしょう。

海老原喜之助 Kinosuke EBIHARA(1904-1970)
1904年、鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフにした作品を数多く制作した。
1970年、パリで客死。鹿児島市立美術館、児玉美術館、熊本県立美術館など各地の美術館に多数作品が収蔵されている。生涯にわたり藤田嗣治を師と仰いだ。1970年、歿。

■2011年06月20日(月)  難波田龍起「聖堂」
nicky_20110620.jpg 389×600 119K難波田龍起
「聖堂」
1978年
エッチング+アクアチント(3版4色)
28.0×18.0cm
Ed.35
サインあり
※レゾネNo.100

今週のお勧めは、難波田龍起「聖堂」です。
難波田龍起先生の銅版画の作り方は、先ずグランドをひいた銅版に先生がニードルで描画され、それを他の作家(例えば木村茂先生)や工房に製版して貰い、それを刷り師が刷るという具合に進行しました。
最初はモノトーンの試刷りができるわけですが、難波田先生はすぐにそれに手彩色を加えて私たちに見せてくださる。それは嬉しいのですが、数部は手彩色できてもエディション全部、たとえば30部とかに一枚一枚手彩色するのは時間もかかるしたいへんです。
そこで、効率を考える版元としては、先生の手彩色を「色版」におきかえ、カラー銅版画として完成させたいと思うわけですね。
このときもそうでした。
先生がモノクロの試刷りに手彩色をしたものを原稿に色の数だけ「色版」をアクアチントで作ることになった。
ところが、刷りを担当してくれた山村兄弟版画工房の素夫・常夫の双子の兄弟は、工房のポリシーとして「うちは製版はしない(製版は作家の領分だ)。刷りだけをやる」という姿勢でした。
さて弱りました。
まさか、木村先生に色版まで頼むわけには行かないし、版画のプロではない難波田先生にアクアチントの版をつくることなど不可能です。
お名前を挙げませんが、そのとき救世主としてあらわれたのが、当時新進の銅版画家として注目されていたO先生です。O先生は、色版を含む、難波田先生の銅版の製版を引き受けてくださったのでした。
難波田龍起先生が後輩の作家たちに深く敬愛されていたからに違いありません。

かくして、版元の私としても会心の作「聖堂」を世に送り出すことができたのでした。

難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA(1905-1997)
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。

■2011年06月10日(金)  赤瀬川原平「ねじ式」
nicky_20110610.JPG 640×444 97K赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年
シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100
サインあり

珍しい1960年代の版画の紹介です。1960年代の前衛美術を代表する「ハイレッドセンター」(ハイ=高松次郎、レッド=赤瀬川原平、センター=中西夏之)を同時代的に覚えている世代はもうとうに還暦を超えている。私が美術界に入った1974年には、まだその余燼がくすぶっていて、60年代に制作された版画が山のようにここかしこに積まれていた。前衛美術を買うことによって支えるコレクター群はまだ存在していなかったんでしょうね。
高松次郎の「影」や、「この七つの文字」などは某骨董店の倉庫に行けば、数千円でいくらでもわけてもらえた。
この「ねじ式」も別の某氏からわけていただいた作品である。つまり、当時は全く売れなかった。そのまま某所に眠っていたので状態は完璧、昨日刷ったかのようです。
その後の赤瀬川さんの八面六臂の活躍はご存知の通り。芥川賞をとる、本(老人力)はベストセラーになる、藤森照信さんや南伸坊さんたちと遊んだ「路上観察学」では遂にヴェネチアビエンナーレにまで行ってしまう。その赤瀬川さんの32歳のときの希少な作品です。

赤瀬川原平 Genpei AKASEGAWA(1937-)
1937年神奈川県横浜市出身。日本の前衛美術家・作家。本名、赤瀬川克彦。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)油絵学科中退。純文学作家としては「尾辻克彦」と名乗る。直木賞作家の赤瀬川隼は実兄。
2006年4月より、武蔵野美術大学日本画学科の客員教授を務めている。

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