ときの忘れもの 今月のお勧め
■2011年10月30日(日)  ジョージ・タイス「TWO AMISH BOYS, LANCASTER, PA, 1962」
nicky_20111030.jpg 490×600 96Kジョージ・タイス
「TWO AMISH BOYS, LANCASTER, PA, 1962」
1962年撮影(1988年プリント)
ゼラチンシルバープリント
24.0x19.0cm
サインあり

この写真を見てハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック/目撃者』を連想する人も多いのではないでしょうか。映画ではハリソン・フォード演じる刑事が、偶然殺人事件を目撃したアーミッシュの子供を守るため、アーミッシュの家庭に身を寄せるうちにその母親と恋に落ちるという物語でした。
AMISH アーミッシュとは、アメリカのペンシルベニア州・中西部やカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民のキリスト教と共同体に忠実である厳格な規則の宗教集団で、移民当時の生活様式を保持し、文明の利器などを使わずに農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られています。
新しい家を建てるときには親戚・隣近所が集まって取り組む姿は、映画でも重要なシーンでしたね。自動車は使わず馬車、商用電源は使用せず(もちろん原発も)風車、水車による自家発電程度、服装もいたって質素、タイスの写真に写る少年たちの帽子もアーミッシュ独特の服装です。

ジョージ・タイスは巨匠エドワード・スタイケンのポートフォリオのプリンターをつとめたことでも知られるように、自身も大判カメラを用いてアメリカの都市や風景を撮影し、モノクロームの精緻なプリント作品を制作し、高く評価されています。
今回、X氏のコレクションにタイスの写真があるので嬉しくなり、慌てて探したのですが、日本ではあまり写真集が出ていないようですね。知り合いの写真画廊さんにも伺ったのですが、日本語での資料や実物作品は見つかりませんでした。
画廊には、『Hometowns: An American Pilgrimage : James Dean's Fairmount, Indiana, Ronald Reagan's Dixon, Illinois, Mark Twain's Hannibal, Missouri』(New York Graphic Society)を置いてありますので、どうぞご覧になってください。
ジェームス・ディーン、ロナルド・レーガン、マーク・トゥエインの故郷の町(ホームタウン)を撮った写真集です。建国以来僅か200年余りの歴史しか持たないアメリカの町並はどこも似たようにも見えますが、しかしそれぞれの固有の思い出、記憶のこめられた懐かしい故郷なのでしょう。

ジョージ・タイス George TICE(1938-)
写真家。1938年ニュージャージー州に生まれる。
14歳からカメラクラブに参加し写真を撮り始める。1959年、当時ニューヨーク近代美術館の写真部門でディレクターを務めていたエドワード・スタイケンは、タイスの才能をいち早く認め、タイスによる航空母艦ワスプ爆発の写真を美術館のコレクションに選ぶ。タイス20歳のときである。
彼は、国内外で数多くの展覧会を開催。1972年に個展を開いた後、作品はニューヨーク近代美術館・シカゴ美術館・メトロポリタン美術館などに収蔵されている。 彼は、活動初期から、芸術形態として写真集の可能性を認識し、多くの写真集を出版した。

■2011年10月20日(木)  元永定正「白い光が出ているみたい」
nicky_20111020.jpg 466×600 55K元永定正
「白い光が出ているみたい」
1977年
スクリーンプリント
イメージサイズ:61.0×47.0cm
Ed.100
サインあり

2011年10月3日元永定正先生が亡くなられた。88歳でした。
「ぼくはアホ派やから」とおっしゃっていたがもっともっと長生きして活躍して欲しかった。
「具体」の代表作家として内外で高い評価を得ている元永先生ですが、ずっと順調だったわけではありません。
1963年に東京画廊で個展を開催、その翌年現代日本美術展で優秀賞を受賞した頃が最初のピークでした。1971年に「具体」が解散してからのしばらくは元永先生の雌伏の時代となりました。不遇の時代といってもいいでしょう。
亭主が初めて元永先生にお目にかかったのは、1975年秋、関根伸夫先生に連れられて行った名古屋の今では伝説の画廊となった桜画廊の個展の会場でした。
その後、1977年の現代版画センターの「現代と声」という企画に、関根先生が強力に元永先生を推薦して、「白い光がでているみたい」「いいろろ」「オレンジの中で」の3点の版画を初めてエディションしました。刷りはすべて石田了一さんです。
これ以前にも版画制作はされていたのですが、本格的なものはこれが最初で、いわば実質的な版画デビュー作品です。

少し昔話になりますが、この「現代と声」企画には、各分野から9人の作家が選ばれましたが、その顔触れは、靉嘔、オノサト・トシノブ、磯崎新、加山又造、小野具定、一原有徳、野田哲也、関根伸夫、そして元永定正でした。
当時の現代版画センターの<軍師>は関根伸夫先生で、彼の強力な推薦で元永先生が選ばれたのですが、当時、元永先生の存在は東京ではすっかり忘れさられており、この企画が発表されるや「えっ、元永さん生きてたの?」といわれたことを覚えています。
亭主は、以来、70点以上の版画作品をエディションしました。点数としては磯崎新先生は別格として、元永先生と菅井汲先生が最も多かった。それだけ売れたのである。
この「現代と声」企画3作品をきっかけに元永先生は版画制作に本格的に取り組み、それがひろく元永ワールドを知らしめることとなり、再評価へと繋がりました。
1983年に新潮社の日本芸術大賞を受賞したときの受賞理由に「版画家」としての評価が入っていたことを嬉しく思い出します。
この後の元永先生の大爆発と活躍はご存知の通り。

関東の男としては、元永先生(伊賀のご出身だが)をはじめ、菅井先生、そして安藤忠雄先生たち関西の作家たちの言いにくいこともあの関西弁ではっきり伝え、サービス精神旺盛なくせに辛辣なこともさらっと言えるお人柄にはずいぶんと最初は戸惑ったものでした。
今では得がたいキャラクターなのだと懐かしい。
たくさんのことを学び、たくさんの作品の誕生に立ち会うことができました。
元永先生、ありがとう、さようなら。

元永定正 Sadamasa MOTONAGA(1922-2011)
1922年三重県生まれ。県立上野商業学校卒。55年関西を拠点にする[具体美術協会]に参加、吉原治良に師事する。絵具のたらし込みなど流動感ある絵画によって、折から世界を席巻したアンフォルメルの画家として一躍注目を浴びる。64年現代日本美術展で受賞したのをはじめ、各種国際展などで活躍。83年には日本芸術大賞を受賞し、名実共に日本を代表する抽象画家としての地位を確立した。2011年10月3日、死去。享年88。

■2011年10月10日(月)  パブロ・ピカソ「156シリーズよりNo.128. 71.5.16」
nicky_20111010.jpg 600×474 111Kパブロ・ピカソ
「156シリーズよりNo.128. 71.5.16」
1971年
エッチング
イメージサイズ:36.5x49.3cm
Ed.50
スタンプサイン
※レゾネNo.1983(Bloch)

今週のお勧めは、ピカソ「156シリーズ」の中の一点です。
私が美術界に入ったのは1974年ですが、このとき出会ったUさんという当時有名な版画コレクターの方に「20世紀最大の画家はピカソだと思うけれど、コレクターの数なんてたかが知れているよね。だって全作品を持っている人は50人いないんだから」と言われて、きょとんとしたことを覚えています。
もってまわった言い方ですが、Uさんは、「この世界には数十億人の人間がいる。なのに人類史上稀にみる大画家のピカソの全作品(版画)をコレクションしている人はたった50人もいないのだ。なぜならピカソの版画のほとんどは限定50部にもかかわらず我々はいつでもピカソを買うことができるから。」といいたかったのですね。
もし全作品を持っているコレクターが50人いれば、ピカソの版画は絶対に市場に出てこない。
現代版画の複数性を見事に表現した含蓄ある言葉として今でも私の耳に残っています。
フェルメールやレオナルド・ダ・ヴィンチを持ち出すまでもなく、その時代の巨匠のオリジナルを所有することの困難さを知る私たちですが「版画」のおかげでピカソでさえ所有することができるのです。

パブロ・ピカソ Pablo PICASSO(1881-1973)
1881年スペインのマラガ生まれ。父ルイスは美術教師であった。1892年から美術学校で絵を学び、1897年サン・フェルナンド王立アカデミーに入学するが中退。バルセロナで制作をしながらパリに出向く。1901年パリで初の個展。この頃の作品が青く暗い色調であったことから1904年頃までを青の時代と呼ぶ。1904年モンマルトルの「洗濯船」に移る。明るい色調に転じたバラ色の時代を経て、アフリカ彫刻の影響などを受け「アビニョンの娘たち」を制作。1909年ころからブラックとともに分析的キュビスムの作品を制作する。その後、コラージュを使った総合的キュビスムから一転して古典的な画風となり大らかで量感のある人物を描いた。
1930年代から精力的に版画作品を作り始める。また、この頃愛人であったマリー・テレーズをモデルにした幸福感溢れる明るい色による作品を制作した。恋人が写真家のドラ・マールに変わると、彼女の激しい気性から「泣く女」が生まれた。年齢を経るにしたがってより奔放な作品を描くようになり、1950年頃からはヴェラスケスなどの過去の名画を解釈した作品を描き始めた。晩年の1968年から347シリーズと呼ばれるエロティックな連作銅版画を制作したあと、続けて156シリーズを発表。1973年に亡くなるまでその旺盛な制作欲は衰えることがなかった。

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