ときの忘れもの 今月のお勧め
■2013年03月30日(土)  サム・フランシス「コンポジション・黒」
francis_01_composition_black.jpg 367×600 75Kサム・フランシス
《コンポジション・黒》
1972年  リトグラフ
Ed.8(6/8)
signed *南画廊シール添付

サム・フランシス Sam FRANCIS(1923-1994)
1923年、カリフォルニア州に生まれ。パイロットとして第二次世界大戦中に飛行機事故で負傷し、病床生活をおくる中で絵を描き始めたというエピソードは有名。カリフォルニア大学に復学し、絵画と美術史を学び、1950年パリに渡って抽象画家として認められ、1957年世界旅行中に初めて日本を訪れました。以後の作品には余白を生かした画面構成、「にじみ」の効果を生かした表現方法が出現し、日本美術の影響が見られます。パリ、ニューヨーク、東京のスタジオを行き来しながら、鮮やかな色彩がほとばしる独特の作品を創作し続けたサムは、勅使河原蒼風、大江健三郎、大岡信、小山富士夫、宮脇愛子磯崎新ら多くの日本人と交友。出光興産社主であり、東洋古美術のコレクターとして知られた出光佐三は、フランシスのコレクターとしても知られ出光美術館には多くの作品が収蔵されています。1994年没。

■2013年03月20日(水)  松本竣介「婦人像」
03.jpg 428×600 75K松本竣介
《婦人像》
※「松本竣介素描」(1977年 株式会社綜合工房)87ページ所収
紙に鉛筆
イメージサイズ:31.6x23.1cm
シートサイズ:33.5x23.7cm

去年の年末から今年の年始にかけて開催した松本竣介展、お客さまに「竣介展はうちでは初めてです」というと、「えっ、そうなんですか」と驚かれる。
同世代の瑛九については、毎年展覧会をしているので長い間には竣介展もやったことがあるのではと思われるらしい。
光栄な誤解ではありますが、竣介の展覧会を開くのは実に困難極まりない。
1974年に美術界に入ってから亭主が知る画廊での竣介展(つまり売り物がある)は、南天子画廊、不忍画廊、MORIOKA第一画廊の三つくらいしか思い浮かばない。

松本竣介36歳、瑛九48歳、ともに若死にですが、どこが違うのか。
画商の立場から言うと、一人の画家が市場で評価されるには、流通する作品量がある程度必要です。どんなに優れた作品を遺そうとも、市場に流通する作品がなければ、若い世代のコレクターが出てこない。そういう点から考えると、竣介と瑛九では圧倒的に作品量が違います。

資料無しで書き飛ばしますので、少々荒っぽい数字になります。
亭主の記憶によれば、瑛九の油彩は確認できるだけで約600点、水彩素描はおそらく1000点ではきかないでしょう。版画(銅版、リトグラフ、木版)は約500種類(それぞれ数部から数十部刷っていますので作品総数は数千点になります、詳しくはコチラを参照)。近年評価の高騰しているフォトデッサン・コラージュ類は2000点以上(推定)あると思われます。
ざっと足しただけでも4000点以上、版画の刷り部数を加えればマックス1万点前後の作品が遺されている。
美術館に収まってしまった作品を除いても、市場で瑛九を入手しようと思えばいつでも誰でも可能です。画商が瑛九展を開こうと思えばそう困難なことではない。

しからば竣介はどうか。
遺された油彩は二百数十点といわれています。他には素描作品があるだけですが、それも数は限定されるでしょう。
版画は確認されているのは今回出品している孔版画作品ただ一種類のみ。
それ以外に作品はありません。
市場にめったに出ない作品を集め展覧会を開くの瑛九の何倍、何十倍も難しいことなのです。
過去、竣介展を開催し、作品を世に広めた南天子画廊、不忍画廊、MORIOKA第一画廊の大先輩画商たちに深甚なる敬意を表する所以です。

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO(1912-1948)
1912年東京に生まれ、岩手で過ごす。聴力を失い、画家を志す。上京し、太平洋画会研究所選科に通う。結婚して松本姓(旧姓・佐藤)となり、アトリエを綜合工房と名付け、妻・禎子と月刊誌『雑記帳』を創刊。43年に靉光や麻生三郎、寺田政明ら同志8名で新人画会を結成(第3回展まで開催)。47年自由美術家協会に参加。1948年、歿。

■2013年03月10日(日)  ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ「牢獄II.拷問台の上の男」
piranesi_04_prison2.jpg 455×600 133Kジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
〈牢獄〉シリーズより
《牢獄II.拷問台の上の男》
1761年ピラネージの原作
1961年Bracons-Duplessisによる復刻
エッチング
イメージサイズ:57.1x42.0cm
シートサイズ :74.5x54.0cm

今では版画家として記憶されているピラネージは、『サンタ・マリア・デル・プリオラ−ト聖堂』など実現した建築は極く僅かでしたがローマの建築家でした。しかし、実際の建築よりもピラネージが描いた版画(エッチング)はローマを訪れた旅行者によってヨーロッパ中に広まり、18世紀の人々の古代ローマやギリシャに対する見方を根底から覆してしまった。
牢獄幻想や廃墟となった古代都市を描くピラネージの果てしない想像力は実際の建築としては実現せず、紙の上に豊かな実りをもたらしたのでした。
特に「牢獄」シリーズの幻想的な世界は、後世の文学者などに大きな影響を与えた傑作です。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ Giovanni Battista PIRANESI(1720-1778)
1720年ヴェネツィア共和国モリャーノに生まれる。建築家、考古学者、版画家。父と叔父から建築、特に透視図法と舞台装飾を学ぶ。1740年ローマに行きエッチング技法を学ぶ。1743年作品集「建築と透視図法第一部」を出版。1745年以降はローマに定住し、壮大な建築計画を銅版画に刻んだ。建築家として実現した建物は『サンタ・マリア・デル・プリオラ−ト聖堂』など数少ないが、1000点もの銅版画を残した。1778年没。
版画代表作=《グロテスキ》《ローマの景観》《牢獄》《古代ローマ》《ローマの遺跡》等。

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