ときの忘れもの 今月のお勧め
■2011年07月30日(土)  恩地孝四郎「Poem No.15 過去」
nicky_20110730.JPG 455×600 90K恩地孝四郎
「Poem No.15 過去」
1950年
木版(後刷り:平井摺)
42.1x32.3cm 
スタンプサインあり
※レゾネNo.340

今週のお勧めは恩地孝四郎「」です。
恩地孝四郎の戦前はほとんど売れることはありませんでしたから、頒布会や版画雑誌に挿入した比較的多い部数の作品以外は、オリジナルの部数は極端に少ない。
1945年8月戦争に負けて進駐軍(アメリカなどの占領軍のことを当時は進駐軍と呼んでいました)が日本に大挙やってきたのですが、その中には多くの文民が含まれていました。
つまり、本国では弁護士や学者などのインテリが軍服を着て来日し、日本の統治(占領政策)の遂行にあたったわけです。
多くの美術愛好家が含まれていました。
戦前は貧乏の代名詞だった版画家が時ならぬバブルに沸いたといえば言い過ぎでしょうか。
恩地孝四郎はじめ、優れた版画家の作品を進駐軍の将校たちが競って買ったのですね。
だから恩地孝四郎の優品の多くが海外に持っていかれてしまった。
亭主は恩地孝四郎にはお目にかかれなかったけれど、ご息女・三保子さんにはたいへんよくしていただきました。そのあたりのことも伺うことができました。
三保子さんは敬愛する父のために「恩地孝四郎版画集」の刊行に晩年の情熱を注ぎました。
しかし、ご自分の手許や、日本国内では恩地孝四郎のオリジナル作品が揃わない。英語の達者な三保子さんは海外のコレクターに依頼してその画像を借りようとしますが、先方は当然のことながらポジフィルムの使用料を請求してくる。三保子さんが何百ドルもの使用料を払わなければならないのを嘆かれていたのを記憶しています。
一般に流通する恩地孝四郎作品がほとんどないという背景もあって、父孝四郎没後の1968年前後に、ご遺族によって、残された版木を使い、浮世絵の摺り師・平井孝一による後刷りがされました。
これが<平井摺り>作品です。
恩地孝四郎の没後の後刷り作品は、この<平井摺り>作品が最初です。
では平井摺りというのは何種類あるかといいますと、レゾネ(形象社刊の「恩地孝四郎版画集」)の掲載の422点の収録作品に<後刷り作品のあるもの>に印がついており、その総数は14点です。
<後刷り作品のあるもの>=<平井摺り>かどうかは確定できませんが、ほぼ間違いないでしょう。すなわち「恩地孝四郎版画集」刊行以前に、平井孝一によってなされた後刷り(メモリアル・エディション)は14種類と思われます。
その後、米田稔や子息・恩地邦郎(邦郎摺り)によっても、何度か後刷りがされています。
遡れば、恩地生前に関野準一郎が刷った<増し刷り>があることも付記しておきます。

恩地孝四郎 Koshiro ONCHI(1891-1955)
1891年東京生まれ。竹久夢二に感化を受ける。東京美術学校で洋画・彫刻を学ぶが中退。藤森静雄・田中恭吉と[月映]を刊行。萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の装幀と挿画を担当、28年『北原白秋全集』の装幀で装本家の地位を確立。抽象画の先駆者、また日本の版画界のリーダーとして大きな足跡を残した。『飛行官能』『海の童話』『博物誌』『虫・魚・介』など優れた自作装画本を刊行した。1955年永逝(享年63)。

■2011年07月20日(水)  マン・レイ「贈り物」
nicky_20110720.jpg 357×600 44Kマン・レイ
「贈り物」
1921年/1974年
マルチプル
H16.5×10.0×8.2cm
Ed.5000
作品証明カードにサインあり

今週のお勧めは、マン・レイ「贈り物」です。
マン・レイの自伝を読むと、生涯において夥しい数を制作したオブジェについて次のように書かれています。
<ある日、ブルトン、エリュアール、アラゴンがわたしの絵を見に来た。スーポーが画廊を開く計画をたてていて、わたしがかわきりの展覧会をやってもよいというのだった。三十点の奇体な作品がホテルの部屋から画廊まで運ばれた。
〈略〉
キャフェを出て、いろいろな家庭用品を店頭にひろげた店のまえを通りかかった。わたしは石炭ストーヴで熱して使う型のアイロンを取上げて、サティーに言って一緒に中に入り、彼に手伝ってもらって、鋲を一箱と膠を一本買った。画廊に戻って、アイロンのなめらかな面に鋲を一列、膠でくっつけ、《贈物》という題を付けて、展示物に追加した。これがパリでのわたしの最初のダダのオブジェであり、ニューヨークで作っていたアッセンブリッジの作品と同類のものだった。この作品を賞品にして友人たちに籤引をやってもらおうとおもっていたのだが、午後のあいだに失くなってしまった。きっとスーポーがねこばばしたにちがいないとおもった。展示は二週間続いたが、ひとつも売れなかった。わたしは狂乱にとらわれんばかりだったけれど、有名な画家たちだって認められるまで何年も闘ったのだと考えて気を鎮めることにした。それに、わたしには頼るべきものとして写真があった。>
『マン・レイ自伝 セルフポートレイト』1981年 千葉成夫訳 美術公論社 118〜121ページより引用

マン・レイのファンなら誰でも知っているアイロンのオブジェが、パリでの最初のオブジェだったこと、オリジナルは直ぐに失われてしまったこと、などがわかります。
マン・レイはその後も幾度もアイロンのオブジェを制作します。
単なる再制作とはいえない、マン・レイの制作への姿勢が伺えます。

マン・レイ Man Ray(1890-1976)
1890年8月27日〜1976年11月18日。はアメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。
レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。

■2011年07月10日(日)  南桂子「少女」
nicky_20110710.jpg 456×600 54K南桂子
「少女」
1958年
銅版
36.8x28.2cm
Ed.50
サインあり

6月から高岡市美術館で「生誕100年 南桂子展」が開催されています。
少女や木や鳥をモチーフとした詩情豊かな銅版画の世界をようやく公立美術館が展観するようになった、南桂子ファンの亭主としては欣快にたえません。
「えっ、南桂子好きなの」と言われそうですが、好きですよ。
ご主人の浜口陽三の作品と比べて不当に低い評価しかされてこなかったことに対し、残念に思っておりました。
一口に言えば「甘い作品」と思われてきたのでしょうが、それにしてもメルヘンやファンタジーの世界を生涯貫いて表現し続けるのは並大抵のことではないことくらい、少し想像力を働かせればわかるはずなのに、と亭主は思っておりました。深刻な題材ばかりが偉いわけじゃあないでしょ。親しい画商さんとはいつも「南さん、安いよね。なぜもっと評価されないのかしら」と嘆いておりました。
家を捨て、子を捨て、つまり世間に歯向かって(まるで宮尾登美子の世界ですね)それでも銅版画の世界に突き進んだ付焼刃ではない強さがあったからこそ、専門家(?)の無視に対しても平然としていられたのだと思います。

南桂子 Keiko MINAMI(1911-2004)
1911年富山県高岡市生まれ。1928年高岡の女学校卒業。この頃から詩作と絵画に興味を持つ。1945年東京に移住し、小説家・佐多稲子の紹介で壷井栄に師事し童話を学ぶ。 1949年自由美術展に出品。以後1958年まで毎回出品。この頃油絵を習っていた森芳雄のアトリエで、後の夫となる浜口陽三と出会い版画の面白さを知る。
1954年渡仏、銅版画指導者・フリードランデルの研究所で2年学ぶ。 1961年神奈川県立近代美術館で「フリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展」開催。 1982年にパリからサンフランシスコに移り、1996年に帰国。
世界各地で個展を開くほか、本の挿画も数多く手掛けた。2004年、歿。

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